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第90話 二回目 リンディは18歳(28)


暗い……真っ暗だ。

周りも、上も下も、何処を向いても暗闇ばかり。

心を無に包んでくれる、冷たくて心地好い世界の筈なのに。


……ああ、またお前か。

最近はずっと、暗い背中しか見せない男。

怒っているのか、穏やかなのか、一切表情が見えない。

“ 無 ” であることが堪らなく不気味で……恐ろしい。


いつも傍にいた……話して笑っていた “ 何か ” は、もう何処にも居なくなった。


男は突然、肩を小刻みに震わせながら座り込んだ。

……泣いている?

よく目を凝らせば、腕に何かを抱いている。


今まで動かなかった足が動く。恐怖よりも、男の腕の中のものをどうしても見たいという気持ちが勝る。恐る恐る男に近付けば、細い足らしきものが見えた。

……人? 一体誰を抱いているんだ?


背後から不気味な笑い声が響く。

振り返って見た顔に、あっと驚いた所で意識が引き戻された。




伏せていた顔を上げれば、そこは書斎の机だった。


寝る前に少し仕事をしようとして……そのまま闇に堕ちたのか。


身体中が嫌な汗で、じっとり濡れている。不快感に耐えられず、ルーファスはシャツの胸元を雑に開け、一気に空気を通した。


闇にあの男以外が、しかも現実に存在する人間が現れるなんて。不完全どころか、もう闇ですらないではないか。


心地好かった筈の世界は、今は恐怖でしかない。


……ローリー・ヘイズ。何故あいつが闇の中に?


不気味な笑い声がまだ耳に残り、新しい汗が毛穴から噴き出す。


ああ、さっきまで、これで家令と話をしていたからかと、ルーファスは、手元に転がるコップ型の魔道具に触れた。


自分と妻が王都へ戻った辺りから、ローリー・ヘイズは屋敷に姿を見せなくなったと言う。金を工面するのに必死なのか……いや、それはないな。出来たらとっくに工面しているだろう。諦めて荷造りでもしているか、既に領地を去ったか。

まあ、期日が来たら分かるだろう。


何でもないこと、と思おうとするが、眼鏡の奥のあの昏い目が頭から離れない。

汗は一向に引かず、ゾクゾクと身体に纏わりついた。


ルーファスはふうと深呼吸をすると、机の引き出しから小箱を取り出す。


19になった猛獣にこれを渡して、思う存分味わってやろう。唇だけでもあんなに毒が強いなら、全身を味わった時、自分はどうなってしまうのか。

心も身体も、猛獣の支配下に置かれてしまうかもしれない。……傍に居ないと、呼吸《いき》さえ出来ない程に。


そうなったら鎖で繋いで、自分から一生離れられなくしてやればいい。夫の地位を利用し、さも自分が飼い慣らしている様に、上手く見せかけて。


そんな考えに苦笑しながらも、ルーファスは親指の腹で、愛しげに小箱を撫でる。


あと三日……いや、二日か。

12時を回った時計の針は、静かに時を刻んでいる。


何気なく見下ろした、左手の薬指。

弱々しく光る最後の一粒が、ルーファスに必死に何かを訴えている様で、胸が苦しくなった。



◇◇◇


絵を教えたあの日以来、リンディは国王にはもちろん、王太子や王妃にも会っていない。

それでも国王陛下暗殺の容疑者として捕らえられるのか……もしくは、何か別のことで命を落とすのか。

どちらにせよ、命の期限は明日。19歳の誕生日の夜が近付いていた。


怖い……とうとうこの日が来てしまった。

王様が亡くなった日。私が罪人として捕らえられた日。

本当は、王宮なんかに行きたくない。ずっと家に籠っていたい。だけど、そんなことをしても、きっと寿命は変えられない。無理矢理抗って、もし他の誰かの運命を変えてしまったら……そっちの方が怖いわ。


手がもたついて、ブラウスのボタン一つ嵌めるのですら時間が掛かってしまう。ほとんどプリシラに身支度を整えてもらい、部屋の外へ出ると、ヨハネスが心配そうな顔で立っていた。


「……奥様、大丈夫ですか?」

「うん。お待たせしちゃって、ごめんなさい」


ヨハネスは背を屈め、リンディの両肩に温かな手を置く。


「大丈夫です。何があっても、私がお護りします。ですから、どうか私の傍を絶対に離れませんように」


そう言う彼の顔は、さっき鏡で見た自分の顔よりも、ずっと青い。リンディは息を吸い込み、精一杯の笑顔をつくった。


「分かったわ! 絶対に離れない。でも……神様には逆らえないから。もしもの時は、ヨハン兄様が私から離れてね。これ以上、私の運命に巻き込みたくないの」


華奢な肩の上で震え出すヨハネスの手に、リンディの左手が優しく重ねられる。その柔らかな感触に、彼女とのこれまでの想い出が甦り、ヨハネスは溢れるものをぐっと飲み込んだ。


「……リンディ」


護衛の立場を忘れ、かけがえのない彼女へ向かう。


「ルーファス様には、まだ何も話していないの?」

「うん……」

「寿命のことも、指輪のことも?」

「うん……」


頷きながら、愛しげに左手の薬指を見るリンディに、ヨハネスはゾッとする。


「今ならまだ間に合う。ちゃんと話せば、君の為に寿命を分けたいと、願ってくれるかもしれない。君を愛していると……そう言ってくれるかもしれない」


ヨハネスの真剣な言葉に、リンディは少し考え首を振った。


「ううん、いいの。言いたくないの」

「リンディ! このままじゃ君は……君の命は……」


美しい緑色の瞳には、涙が揺らいでいる。

血は繋がっていないけれど、優しい優しい……大好きな兄だった。

「泣かないで」と細い目尻に触れた瞬間、それは忽ち決壊し、ぶわっと溢れ出た。


「ヨハン兄様……ごめんなさい。ずっと心配してくれていたのに、ごめんなさい。だけど私、神様に命を委ねようと思っているの」


ヨハネスは叫びそうになるが、必死に唇を噛み締める。


「旦那様がね、私に傍に居てもいいって言ってくれたの。俺が離れろって言うまで、傍に居てもいいって。結婚して、一緒にパンやフルーツを食べて、沢山手を繋いで、最後に絵も描かせてくれた。もうそれで充分!」


「傍に居て欲しいと言われたんだろ!? だったら」


リンディは彼の言葉を遮り、感情を押し殺す様に話し続ける。


「……ルーファスはね、二度目の人生では、私を愛してはくれなかった。でも私は、一度目も二度目も、ルーファスを愛したの。だからとっても幸せだった」

「リンディ……」



“ 愛してはくれなかった ”


哀しい言葉が、ヨハネスの胸を抉る。こんな言葉を彼女に言わせるルーファスを憎む一方で、本当にそうだろうかと、疑問も浮かんでいる。


彼はことあるごとに自分へ嫉妬心をむき出しにしていたし、リンディを抱こうとしたあの夜も、自分を殺しかねない形相で寝室に飛び込んで来たじゃないか。最近では一緒に過ごす時間も増えて、夫婦らしい雰囲気も漂い始めている。

彼自身が自覚していないだけで……彼女にも伝わっていないだけで、本当は……


それならば、寿命を分けてくれる可能性は充分にある。だが、指輪の力が、実際どの様に発動するのかは分からない。具体的に願わなければいけないのか、それとも潜在的に愛しているだけで発動してくれるのか……

これも結局は、神の判断に委ねるということなのかもしれない。


涙を流し続けるヨハネスの頬へ、リンディのハンカチが優しく触れる。その時、低い声が二人の鼓膜に響いた。


「……何をしている」


答える前に、リンディはあっという間にヨハネスから引き離される。彼女の背後から、がっしりと回された長い腕。涙で揺らぐヨハネスの視界には、殺気立った形相で自分を睨みつけるルーファスがいた。


ほら……やっぱり。愛していないなんて、嘘だろう?


意味ありげに笑うヨハネスに、ルーファスはカッとなる。リンディの手から湿ったハンカチを取り上げると、彼女の目の前で揺らしながら、苛立たしげに問う。


「何をしていたと聞いているんだ!」

「……あの、ヨハネスの目にゴミが入って、涙が出ちゃったから拭いてあげてたの」

「護衛なんかを構う必要はない。お前がこんなことをするのは夫だけでいい」


そのハンカチでリンディの両肩を払うと、ぐしゃりと握り潰し、ヨハネスへ投げ付けた。


「捨てろ」


忌々しそうに吐き捨てると、華奢な肩を上書きする様に抱き、大股で玄関へ歩いて行く。


朝日が照らす二人の眩しい背中に、ヨハネスは最後の祈りを捧げた。




絵師の作業室にて、リンディはいつも通り机に向かっていた。

絵筆を握ってはいるものの、今日は少しも集中出来ない。時計をチラチラと見ては、“ その時 ” に怯え続けていた。


ひとたび紙に向かえば、凄まじい集中力を発揮するリンディの、いつもとは違う様子にロッテは首を傾げていた。

一応ベルをチリンと鳴らしてから、話し掛けてみる。


「リンディ、大丈夫? 具合でも悪いの?」

「いえ……すみません」

「目標枚数は描き上げたんだし、無理しないで帰ってもいいのよ?」

「いえ……頑張ります」


返事も何処か上の空のリンディに、ロッテは諦め、再び自分の作業を続けた。



空にカラスが鳴き始めた頃だった。にわかに騒がしくなった廊下に、リンディは誰より先に顔を上げる。


「陛下が……国王陛下が崩御された!!」


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