第73話 二回目 リンディは18歳(11)
セドラー家の屋敷で過ごす間は、夫婦共に食事をし、同じ寝室で過ごした。初夜と同じく、ベッドとソファーに分かれるスタイルと、就寝前に手を握る儀式は貫かれている。
貴族であれば通常、数日訪問客を迎え入れた後、一ヶ月から数ヶ月かけて悠長な新婚旅行を楽しむ。が、自国主催の三ヶ国会議を控えている今、大臣補佐と専属画家の二人にそんな余裕はない。
式の前日から数え五日間滞在した後は、すぐに首都へ戻り仕事に勤しむ予定だ。
全ての滞在客を見送り、訪問客も落ち着いてきた四日目の昼、デューク、フローラと若夫婦の4人は、穏やかに食卓を囲んでいた。
「明日は首都へ帰ってしまうのか……賑やかだった屋敷も、一気に寂しくなるな」
眉を下げるデュークに、リンディは明るく言う。
「コップで沢山お喋りしましょう!楽しみにしていますね」
「ああ、そうだな」
フローラも娘とそっくりの明るい笑顔を浮かべる。
「私も美味しい物と楽しいお話を持って、遊びに伺いますわ。寂しいなんて仰る暇がないくらい沢山ね。何せもう親戚なんですから、遠慮はしませんよ」
「それは嬉しいが……先生のおかげで、私は5㎏も太ってしまったんだ。ほどほどに頼みますよ」
「あら」
ははっと笑い合う三人を横目に、黙々とフォークを運ぶルーファス。この賑やかな食卓にも大分慣れ、気にせず自分の食事に集中出来る様になっていた。
そういえば……自分も3㎏程体重が増えていた。元々食が細く痩せ気味だったので、丁度良い位なのだが。いつしか、この母娘のせいで、父子揃って豚の様に肥えてしまうかもしれない。
想像し首を振ると、ルーファスはもう何個目かのパンへ伸ばしかけた手を下げた。
「今日は豊漁祭で道が混むから。帰るのが明日で良かったかもしれない」
デュークの言葉に、リンディはパッと顔を輝かせた。
「豊漁祭!そっかあ……この時期だったな」
「そういえばあなた、昔タクトと一緒に行ったわよね。それきり?」
「うん」
“タクト”
何故か聞き覚えのあるその男の名に、自然とルーファスの眉が上がる。
「そうか、来てくれたことがあるのか」
デュークも顔を輝かせる。
「はい!子供の頃、幼なじみと。海の美味しい食べ物や、綺麗な物が沢山あって、とても楽しかったです」
「それは嬉しいな。豊漁祭は、私の曾祖父が領民達と共に考えた祭でね。豊かな海と自然に恵まれた、この素晴らしい地を讃え感謝したいと。まあ難しいことは考えず、領民はもちろん、地方の客にも楽しんでもらえたら何よりだ。今はパレードもあるし、昔よりもっと華やかになっているよ」
「……パレード!?」
リンディは今にも飛び上がりそうな勢いだ。
「そうだ、今日はもう来客もないだろうし、ルーファスと二人で祭に行ってきたらどうだ?」
「……行きたい!!」
興奮のあまり、とうとう肘をグラスにぶつけ倒してしまった。ひゃあと慌てるも、中身が水だったのが幸い。ドレスも染みにならず、給仕達により手早く片付けられた。
ルーファスはその一連の騒動を見ながら、盛大に眉をしかめている。
豊漁祭? あんな人混みに、こんな猛獣と行くなど……冗談じゃない。
「私は行きません。疲れていますし、人混みは苦手です」
「……そっかあ」
しゅんとするリンディを見て、デュークはやや厳しい口調で息子へ言う。
「ルーファス、少しでいいから一緒に行ってあげなさい。新婚旅行もないのだから、その位いいだろう」
「……分かりました」
家長の命には逆らえない。ルーファスはぶすっとした顔で、結局お代わりのパンへ手を伸ばした。
あと数十分でパレードが始まる為、大通りは最高に混雑している。離れた場所へ馬車を停め、扉を開けた瞬間、リンディはぴょんと勢い良く飛び出した。
だが、ルーファスは座席に深く腰を下ろしたまま、一向に動こうとしない。
「旦那様!着きましたよ!」
車内を覗き呼びかける妻へ、夫は冷たく言い放った。
「俺は降りない。一緒に来てやったんだから、それで満足だろ」
ぽかんと口を開ける妻を無視し、鞄から取り出した本を開く。
「……本当に行かないの?」
「人混みは苦手だと言っただろう。待っててやるだけ有難いと思え。……一時間以内に戻らなければ、置いていく」
「……そっかあ。ごめんなさい、旦那様。パレードを見たらすぐに戻ります。お土産も買って来ますね」
「いいから、早く行け」
しっしっと追い払うと、リンディは大人しく顔を引っ込めた。窓の外、遠ざかる妻と護衛の背中。何かがもやりとするも、本に視線を落とし、必死に文字に集中した。
数年ぶりに来る豊漁祭は、デュークの言う通り、以前にも増して活気に満ちている。
わあっと駆け出しそうになるリンディの前へ、ヨハネスはさっと立ち塞がった。
「……混雑しておりますので危険です。どうか私の傍を離れませんように」
はい!と笑顔で頷く主人は、今日も堪らなく愛らしい。
白い肌に映えるシックな紺地に、柔らかいクリーム色のレースがあしらわれたドレス。編み込みアップにされた金髪も、青い瞳も、全てがキラキラと輝いている。
本当は……本当は手を繋いで、一緒に歩きたい。
歩けたら……どんなに幸せだろうか。
公爵家の花嫁に気付いた領民から、次々と祝いの言葉をかけられる。野花を摘んで「おめでとう」と差し出す子供の相手までしているものだから、なかなか進まない。やっとのことで近くの屋台に入ると、リンディは塩アイスを二つ手にしヨハネスの前へ立った。
「はい!ヨハン兄様もどうぞ。暑い時に食べると、とても美味しいのよ」
「任務中ですので」と首を振るヨハネスに、リンディは寂しげに俯く。貝殻の上で溶け出すアイスを急いで匙で掬うと、二つ分を胃に収めた。
食べ終わり、また少し歩くと、大通りを挟んだ向かい側に、何かを見つけたリンディ。
あっと叫ぶと一目散に駆け出した。不意を突かれたヨハネスも慌てて跡を追おうとするも、ロープを持った警備員により行く手を阻まれた。
「間もなくパレードが始まりますので、横断は出来ません。通りの入口まで戻って迂回して下さい」
しまった……
パレードを観る為押し寄せる人だかりに、小柄な主人の姿は忽ち見えなくなっていく。
「奥様!お迎えに行きますから、そちらに居てくださいね!動かないで下さい!」
果たして聞こえているのかどうか……
ヨハネスは急ぎ入口まで向かおうとするも、人混みに阻まれなかなか進めない。必死に掻き分けながら、彼は考えていた。
これは……ルーファス様を護衛していた時よりも、より俊敏な反射神経が必要だな。
屋台で目的の物を買い、後ろを振り向くもそこにヨハネスの姿はなかった。ピョンピョン飛び跳ねてみるも、沿道の人だかりで何も見えない。
どうしよう……はぐれてしまったんだわ。
どのみちあまり身動きがとれないし、此処でパレードが終わるのを待っていた方が良いかと考えていた時、
「お兄様!」
甲高い子供の声が、リンディの鼓膜を刺激した。はっとそちらを向けば、金髪の女の子と、背の高い黒髪の男の子の後ろ姿があった。しっかりと手を繋ぎ、人混みの中をスルスルと走り抜けていく。
あれは……私とお兄様? 一回目の人生で、初めて豊漁祭に来た時の。
時空の狭間に迷い込んでしまったのだろうか……
エキゾチックなパレードの音楽と相まって、リンディの胸が熱くなる。懐かしいあの日へふわりと羽ばたき、子供達の背中へと飛んで行った。
入口で迂回し、やっとのことで向かい側へ出たが、そこにリンディの姿はなかった。
「奥様! 奥様!」
頭一つ分抜き出た身長を利用し、辺りを見渡すも、そこに主人らしき姿はない。
これは大変なことになってしまった……
ヨハネスの背筋に冷たいものが走る。
式の翌日から昨日まで、毎日屋敷の庭園を解放しており、領地中の領民が祝いに訪れたのではという位の盛況ぶりだった。直に領民と触れ合った訳ではないが、何度かバルコニーから手を振った為、リンディがクリステン卿の花嫁だと知っている者は多い筈。先程の領民の様子からしてもそうだ。
もし身代金目当てに、誘拐などを企む者が居たら……警戒心がなく素直な彼女のこと。簡単に付いて行ってしまうだろう。
……良くも悪くも、彼女は目立つ。
ヨハネスは腰の鞘に力を込めると、大股で駆け出した。
パサリと何かが滑る音に目を覚ます。
……寝てしまったのか。
床に落ちた本を拾い上げ、埃を払うと、固まった身体を伸ばす。
あいつと一緒になってから、食欲が増し、よく眠れる様になった。……どうやら獣の傍にいると、人間の本能が呼び起こされるらしい。
今何時だと懐中時計を見れば、約束の一時間を大幅に過ぎている。
あいつ……すぐに戻ると言ったくせに。本当に置いて帰ってやろうか。
苛立たしげに、時計の蓋を閉じた時だった。
何者かが馬車に駆け寄り、荒々しく扉を叩いた。窓を見れば、ヨハネスが青い顔で息を切らしている。
「……ヨハネス!」
尋常ではないその様子に、ルーファスは急ぎ扉を開けた。
「どうした」
周りを見るも、小さな白い金髪は何処にも居ない。
「……あいつは?」
主人が馬車に戻っていないことを察したヨハネスは、一層顔を青くさせ答えた。
「奥様が……奥様が行方不明です」




