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第71話 二回目 リンディは18歳(9)


「ヨハネスと……間違えた?」

「そう! 言い間違えちゃったの! ほら、どっちも年上だし背が高いし綺麗なお顔だし……」


頭と口を精一杯動かすも、何を言っているのか分からなくなる。とにかく謝らないとと、リンディは声を張り上げた。


「ごめんなさいっ」


……上手く誤魔化せたかしらと見上げた夫の顔からは、全ての表情が消えていた。リンディの手を解放し、身体を静かに起こすと、背中を向けガウンの紐を締める。


怒っている……?

怒鳴ったり睨まれている時よりも、何故かそんな風に感じた。


「あの……」

「寝ろ」

「食べなくても……大丈夫?」

「……お前は白すぎて不味そうだ」


そう言うと、ルーファスは照明を落とし、さっさとベッドへ潜り込んだ。



──数分も経たない内に、ソファーからはスヤスヤと寝息が聞こえてくる。

……他人と同じ部屋で、よく何の警戒心もなく眠れるな。

ルーファスは呆れながら天蓋を見つめる。


さっきは何故あんなことをしてしまったのだろう。自分で契約書に書いておきながら組み敷くなんて。

本当に手を出すつもりなどなかった……ちょっと驚かせてやろうと思っただけ……なのに……

自分の身体は明らかに “ 反応 ” していた。


性行為なんて忌まわしい。“ 雌 ” と同じ空間で息をするだけでも虫酸が走るというのに、身体を交えるなど……そう思っていた筈なのに。

所詮自分も動物だったのかと、嫌悪感と共に熱を吐き出す。


『私、“ 旦那様 ” には食べられたくない! “ お兄様 ” じゃないと嫌!』


“ お兄様 ” がヨハネスだったとはな……

ルーファスはくっと笑う。


……あの女も母と同じ、ただの “ 雌 ” だ。別の男に抱かれたいと、夫に堂々と宣言するなんてな。

いや……もう既に肉体関係があるのか? 監視の為とはいえ、毎週家に入り浸っていたのだ。密室に男女が二人きり。そういう行為になっても何らおかしくない。

いや……あの真面目なヨハネスが任務中にそんなことをするだろうか。仮に肉体関係があったとして、自分が手を付けた女と、主が結婚するのを黙認するとは思えない。


いや……何故そう言い切れる。

父が信頼していた従者は、父の目を盗み母と密通していたというのに。愛欲に溺れた男女というのは、想像以上に愚かで滑稽なものなのだ。

実際母は、王家の血を引く誇りも、公爵夫人という立場も顧みず、愛する男と生きようとした。……夫と息子というしがらみから逃れる為に、自ら命を絶ってまで。


そう、あの『雌』は、まだ母親を求めていた幼い自分よりも、男を選んだのだ。

母性なんて屑みたいに脆い。雌とは、何と気持ちの悪い生き物だろう。


そういえば……何故あの女の母親には嫌悪感を抱かなかったのだろう? 母と同年代の雌は特に苦手だというのに。同じ空間で食事をしても、全く気にならなかった。今までそのことに気付かなかった程、空気の様に受け入れていた自分に驚く。

娘も娘なら、その母親も母親だ。

実に不可解で……不可解としか言いようがない。


身体の熱が落ち着くと、ルーファスは右手を額に当てる。


……あいつと庭で手を繋いだ日の夜、やはり闇の男は穏やかで、苦しまずに朝を迎えることが出来た。

今夜も男は穏やかで居てくれるだろうか……微笑んでくれるのだろうか。


ああ……自分も疲れているらしい。

あいつの寝息が、心地好い子守唄に聴こえるなんて……


白いベールの下の顔は、目が眩む程白すぎて。今まで見たどんな光よりも強烈だった。

結婚式なんて……もう二度と……やりたくない……


ついに瞼が落ちたルーファスは、今夜も不完全な闇へいざなわれていく。

いつも通り現れた闇の男は……今までで一番、穏やかな顔で微笑んでいた。




「……おい、おい」


何だろう。頬っぺたが冷たくて固いな。


「……おい!」

「ひゃあっ!」


頬に当たる奇妙な感触に、目を開けば……

昨日夫になったばかりの元兄が傍らに立ち、自分の顔を何かで押している。何だろう……


寝ぼけ眼で視線を往復させたリンディは、それがサーベルの柄であることに気付き、さっきよりも大きな声で叫び跳ね起きた。

頬を触り、傷らしきものがないのを確認すると不満げに言う。


「何でそんな危ない物を持っているの?」

「護身用だ。寝首を掻かれない様にな」

「私は何も武器を持っていないのに!」

「身体に仕込んでいるんだろ? お前そのものが凶器だ」


まだ何かを言い返そうとする口へサーベルを向け、ルーファスはリンディが使っていた枕と布団を、ベッドへ放り投げる。ぐしゃぐしゃのシーツに散らばる寝具。これで初夜の偽装工作は完璧だと頷く。


「早くその汚い顔を洗え。昼食だ」

「昼食?」


カーテンの隙間からは、朝日にしては眩しすぎる太陽が差し込んでいる。ふと見た時計の針が指し示すその時刻に、リンディはギョッとした。


……11時!!


うそ……どうしよう。遠方からのご親戚が沢山お屋敷に滞在されているのに、ご挨拶もせずこんな時間まで寝てしまったわ!


口元の涎をごしごし拭い、ネグリジェのまま部屋から飛び出しそうとする妻の首根っこを、ルーファスはがしっと取り押さえる。そのまま洗面台まで引きずっていくと、桶に張られた冷たい水を掬い、パシャリと白い顔へかけた。


「ひゃあっ!」

「夫を待たせているんだから、さっさと洗え!」


……待たせている?

睫毛の水滴を擦り見上げた夫の顔は、変わらず端正ではあるものの、そのルビー色の目元には目やにがこびり付いている。艶々の黒髪は一部だけピョンと跳ねており、ガウンは紐が緩んで、今にもはだけそうになっていた。


「もしかして……おに……」

ルーファスの眉がピクリと上がる。リンディは口を押さえ、慌てて言い直した。

「旦那様も、今起きたばかりですか?」


あのきちんとしているお兄様が、こんな時間まで寝るなんて……

信じられないとばかりに、青い瞳が瞠られる。

「……煩い! 早くしろ!」

ルーファスは大きな手で水を掬うと、泥の付いた野菜を洗うかのような手つきで、リンディの顔を乱暴に擦り始めた。ふがふがともがかれるも、容赦はしない。ペッペッと水を吐く妻を退かしタオルを投げ付けると、ふんと鼻息荒く自分の目やにを落とし始めた。




部屋着に着替えた瞬間、またもや飛び出そうとするリンディを、テーブルまで引っ張り席に座らせる。


こいつ……獣みたいだな。首輪でも着けてやろうか。


息をぜいぜいと切らしながら、ルーファスも正面へ座り、手元のベルを鳴らした。


「あの……お客様へご挨拶は?」

「昼食後で構わない。初夜の翌朝にわざわざ夫婦を起こす無粋な奴などいないだろう。……むしろこの時間で良かったくらいだ」

乱れたベッドをチラリと見るルーファスに、リンディは首を傾げる。


ノックの音にドアを見れば、夕べ身支度を手伝ってくれた侍女が入って来て、恭しく頭を下げられる。

「旦那様、奥様。この度は誠におめでとうございます」


おめでとう? おはようじゃなくて?

「ありがとうございます! おはようございます!」

何もなかったのだから当然、身体の怠さや花嫁の恥じらいなど微塵もない。元気過ぎる程元気に挨拶をするリンディをルーファスは睨んだ。


侍女が合図をすると、給仕により豪華な昼食が運ばれる。セドラー家の普段の食事は一皿ずつ丁寧に提供されるが、テーブル横に置かれた数台のワゴンには、オードブルからデザート皿まで全てが載っていた。


「後は自分でやる。下がれ」

「はい。何かありましたらお呼び下さいませ」


ドアが閉まり再び二人になると、ルーファスはほっと息を吐く。簡単に祈りを捧げると、グラスに口を付け、オードブルに手を伸ばした。

夫が食事をする様子を、じっと見つめるリンディ。その視線に気付いたルーファスは、苛立たしげに問う。


「……何だ」

「あの、一緒に食事をしてもいいんですか?」

「この屋敷に居る間は構わない。王都に戻ったら別に摂る」

「……嬉しい! 二人きりで食べられるなんて、凄く嬉しい! あっ、私、お水もお茶も注ぐし、お皿も取るから何でも言ってね。ありがとう、旦那様」

「さっさと食べろ」

「はい!」


にこにこ笑う人形みたいな妻に、ルーファスは呆れる。華奢な手がフォークを取るのを見届けてから、すっと目を逸らした。


……夫には “ ありがとうございます ” だろ。猛獣には、ちゃんとした躾が必要だな。


「昨日紹介されたと思うが、さっきの侍女はお前付きの侍女として王都へ連れて行く。敬語は止めて、公爵家の女主人としての威厳を持て」

リンディは鯛のマリネをゴクリと飲み込むと、フォークを置き、真剣な顔で頷いた。

「逆に夫には馴れ馴れしくせず、必ず敬語を使え。いかなる時も夫を立て、一歩……お前の場合は十歩下がることを忘れるな」

「分かりました」


よしと頷いたルーファスは、オードブルの皿を空にする。それを見たリンディは、嬉しそうに叫んだ。

「あっ、旦那様、今スープを取りますね。お水も注ぐから待ってて!」


ルーファスは額を押さえる。

早速注意してやろうとしたが、せっせと自分の給仕に務める姿が、幼い子供のままごとに見え力が抜けてくる。


“ ままごと ”……?


その響きに、胸の何処かが、熱い針で突き刺された様に痛み出す。自然と涙腺が緩み、何かが溢れそうになるのを、ぐっと呑み込んだ。

「はい、どうぞ」

差し出されたグラスの水面には、闇の男が映っている。その哀しげな顔を掻き消す様に一気に呷ると、ルーファスはぼんやりと口を開いた。


「それと……ヨハネス、ヨハネス・ウェンは、今日から正式にお前付きの護衛となる」


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