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さいご




 水廉氏と木附氏が差し入れを置いて去ったあと、坊ちゃんが寝室に戻ってきた。目蓋をあげると、痛ましげな表情で私を見下ろす坊ちゃんが襖に寄りかかって立っているのが見えた。


「襖は扉ほど頑丈ではありませんから、ばっすーんと抜けてしまいますよ?」

「そんなに体重はかけていないよ」


 軽く笑って、坊ちゃんが歩み寄ってくる。


「……もう、起きていられないんだな」

「面目次第もございません」

「いいんだ。なるべくバッテリーは消費しないように目もつぶってていい」

「坊ちゃんがこれほど間近にいるというのに目をつぶっていられますか!? 今こそ拝むときでは?」

「なんで拝むんだよ」


 笑みを深めて、坊ちゃんの手が私の髪を梳いた。


「たぶん、明日にも迎えがくると思う」


 静かに告げられる、穏やかな時間の終わり。


「私は処分されるのですか」

「そんなことはさせない」

「あなたのために作られた私です。私のことで、坊ちゃんの手を煩わせては本末転倒ですよ」

「おまえがいなくなることのほうが、俺は苦しいよ」


 首に腕を回して、私を抱き上げた。子が母にすがりつくように、坊ちゃんは私を抱き締める。


「父さんは俺に見合い話を持ってきた。だから婚約者に誤解されないよう、おまえを手放せと言う。なぜだ。ヒューマノイドロボットと一緒に暮らしている人間ならいくらでもいるのに、なぜおまえはだめなんだ」

「私はみなさまに顔を知られています。幼い頃からおそばにおいていただいていることも、皆様よく知っております」

「そうだったな」


 坊ちゃんはうなだれて、私の肩にひたいを乗せた。


「俺がおまえを愛したせいだ」


 いいえ、坊ちゃん。今、あなたにつらい思いをさせているのはこの私です。旦那さま方に、坊ちゃんから私を引き離すようお願いしたのはこの私なのです。

 だから私は、坊ちゃんの好意を見過ごすわけにはいかない。私も愛していますと答えたいけれど、それはただのプログラム。私にとっての本能。だから彼に勘違いさせてはいけない。絶対に。


「あなたはあなたのことだけを想ってくれる相手がほしかったのですよ。きっとそれだけなのです」

「イエル……。なんで、そんなことを言う」


 顔をあげようとする坊ちゃんを、私はもう見ない。見たらアラームが響く。響いて、今すぐ土下座して愛を乞うてしまうだろう。

 だから、もう、見ない。


「あなたの周りの人々が人間である以上、私ほどあなたを最優先にできるものはいない。だから私を選んだのではありませんか?」


 なのに。

 頭の上に降ってくる、声が。


「俺の中にあるこの心は、勘違いだと言いたいのか」

「そうです。あとで気付くことになります。人間を愛さなかった虚しさと、まがい物の気持ちがあっさりと消えていく虚脱感。気付いたときには、本当の意味であなたを愛してくださる方がいなくなっているかもしれません。でもそれではいけない。あなたは人間なのですから。坊ちゃん、あなたは私に依存しているだけで、愛しているわけではないのです」

「……俺のこの気持ちは、愛じゃないというんだな」


 幼げな、声が。

 私は、目を開けて坊ちゃんを見上げた。

 坊ちゃんは、水の中に閉じ込められたみたいに息を止めていた。涙を溜めた深い色の瞳が、光を反射した水面のように細かくきらめいている。


「吐きそうなくらい、心臓のあたりでぐるぐるしているこの熱は、愛とは呼ばないのか……。俺が、おまえをいとおしく思う気持ちは、まがい物なのか? 俺は、イエルの他に誰かを愛したことなんかなかったから、わからないんだ。俺がイエルを愛していると思っているこの気持ちは、愛じゃないなら本当はなんて呼ぶものなの……?」


 泣かないで。泣かないで。泣かないで。

 泣かせているのは、私だ。

 見捨てないでと泣いている譲さまを見捨てるのは、この私だ。


 そしてあなたの胸にあるその心は、たぶん、きっと、愛で間違いない。きっかけはなんであれ、人間は単純な生き物だから、どんな理由付けをしたって愛は愛で、そこに種類なんて本当はないのだ。でも、それを認めてはあなたが苦しくなるだけだ。


 バッテリー切れのアラームが鳴っている。それでも手を伸ばして、坊ちゃんの頬に触れる。


「私はあなたの心を守るために作られたヒューマノイドロボット。あなたを害するものは私がこの手で排除します」


 坊ちゃんが、目を見開く。涙が揺れて、目の縁にかかった。もうすぐ、こぼれそうだ。


「だから私は、私を、排除しなければなりません」


 ぐっと抱き寄せられ、散った涙の滴が私の目に入った。視界が、ぐらつく。泣くと、人間の視界もこんなふうに揺らぐのだろうか。揺らぎすぎて、ぶれすぎて、物の輪郭もつかめない。難儀なことだ。


 しばらくして離れた坊ちゃんは、赤い目を歪めて苦く微笑んだ。


「──まるでゴムを舐めるようなキスだ」


 そう言って、また私を抱き寄せる。そこには熱も想いもないのに、それらを探すように坊ちゃんは私を掻き抱く。


 こんなにも坊ちゃんを苦しませて、この上彼が幸せになれなかったとしたら、私は私を失敗作と呼ぼう。人に後ろ指をさされず、好きな相手とずっと一緒にいることが、これほど難しいことだったとは。


「イエル、おまえはロボットだ。心がないのはわかっていたつもりだった」

「はい」

「おまえが愛していると俺に言ったとしても、それは俺の心を守るためのプログラムでしかないことを、今、改めて考えた」

「はい」

「それでも俺は、おまえを愛してしまったと言う」


 坊ちゃんは私を放し、布団に横たえさせた。目蓋に手を添え、私に目をつぶるよう促して、彼は寂しげに続ける。


「愛している。愛している。あなたを愛している。俺だけを見ている相手が欲しいだけだろうと言われても、それは愛じゃないと言われても、勘違いだと言われても、それでも俺はイエルを愛している」


 切ない告白だった。私にはすべてを解析しきれない、人間特有の「言葉にできない感情」の乗った告白だった。

 私には、もったいない、と思う。

 あなたの言葉にこめられた想いを余すところなくきちんと感じ取れる、あなたと同じ人間であったらよかったのにと私は初めて思った。


 あなたの想いに返せる感情を私は持たない。その身を包み込む腕も、慈しむ目も、バッテリーがなければ私は一ミリだって動かすことができない。今の私には、もう、何もない。


「イエル。作られた心でもいい。作られた言葉でもいい。だから最後に、俺を愛していたと言ってくれないか」


 真っ暗闇の中に、譲坊ちゃんの声が降る。私はそれを捕まえたいのに、腕があげられない。


「俺はきっと、それを糧に生きていく」


 ああ、ああ、今、坊ちゃんはどんなお顔をなさっているのだろう。

 泣いておられる?

 微笑んでおられる?

 苦しんでおられる?

 でも、最後の望みだとおっしゃるのなら、私はそれを成し遂げなくてはならない。

 明日を生きていく、譲さまのために。


「イエルはあなたを愛していました、譲さま……」


 押し殺した泣き声が、遠くで聴こえたように思う。





 イエルがバッテリー切れを起こした夜、古民家に迎えがやってきた。横たわるイエルを見て、執事が眉をひそめている。


「彼女の頭部を取り替えれば、きっと婚約者の方もお気付きにはなられません。坊ちゃんがあまり彼女に関わらないよう空き部屋に置いておけば、結婚後も手放さずにいられるかもしれません」


 彼は痛ましげなその表情通りの、苦しそうな低い声で言う。

 今までだって、何度か頭部を交換したことがあった。手も足も胴も、取り替えたことがある。だから、髪を黒くするとか、金色にするとか、顔の作りを変えるとか、そういう意味の頭部の交換をしたところでイエルがイエルであることは変わらない。記憶さえ受け継げば、変わらない。

 そのはず、なのに、首を横に振る以外にできることはなかった。


「顔でイエルを見分けるわけじゃない。でも、あまり気が進まない」

「けれど、彼女の存在を婚約者の方に許容していただくのは、惨いのではありませんか」

「うん。だから、イエルはこのまま起動させないでおく」


 テセウスの舟という思考実験がある。その物の本質がどこにあるのか、俺には答えが出せない。イエルの身体をすべて他のパーツに置き換えたとき、それがイエルかどうかを判断するには記憶を頼りにするしかない。逆に言えば、記憶さえ残っていればイエルはイエルになれるのだ。

 もしも、外見を変えたイエルが以前のようにそばでおしゃべりをはじめたら、俺はきっと混乱する。それでも最後には彼女を愛することになるだろう。


 だからこそ、俺のそばに置くためだけの思考実験はしたくない。


「見合いはする。結婚もいずれする。父の会社を継いで、出来る限りの努力をする。それで、百歳の翁になったとき、もう一度イエルを起動させる」


 その頃まで、今のヒューマノイドロボットが普及しているのかわからないけれど。

 ちゃんと人間として生きて、もしもすべてが終わったときにまだ動いてくれるのなら、死出の旅の見送りはイエルに頼みたい。


「最期くらい、一緒にいても誰も怒らないだろう?」

「奥さまが悲しまれますよ」

「妻より先には死なないようにすればいい」

「そんなに、生きられますか」

「生きるさ。イエルのそばで死ぬために」


 重たいイエルの身体を抱きかかえて、車に乗り込む。これから先、長い長い時間を彼女と離れて生きていかなければならない。沈黙を守るイエルを、きっと何度も起動させたくなるに違いない。それでも最期の最後で一緒にいられるのなら、我慢できないことなどないと思う。


 次に会うとき、この気持ちは愛だと言い切ろう。

 命のない機械でも、人間は愛することができる。そのことを、機械のおまえに証明してみせるよ。





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