㉙怜悧者とあわてんぼう
(1)
朝方、おゆきは、お華が寝ている所に、そうっと近づいて行く。
そして、また乗っかろうとした時、お華の目がパチっと開いた。
「あ!」
と声を上げたおゆきだったが、乗っかる前にお華に捕まった。
「こりゃ。おまえさんはいたずらっ子だね~」
と笑いながら、ほっぺたを軽く抓っている。
すると、下の方から、
「お姉さん!」
少々大きな声が聞こえた。
お華は、おゆきを抱きながら、身体を起こし、階段を下りていった。
すると、女将のお吉が、玄関の框に座りながら、おみよと話している。
「どうしたの?」
お華は、おゆきを下に降ろしながら聞いた。
すると、お吉が、多少慌てた様子で、
「ああ、お華。あのね……」
天保十五年(弘化元年)六月二十二日。
江戸市中に、驚愕の話が大波の様に広がった。
悪魔が再び、帰ってきたのだ。
「何、おかあさん」
目の前に、お華も座ると、
「さっきさ、着物を任せている呉服屋さんに顔出したら、大変な事聞いたんだよ」
お華は、少々興奮気味のお吉に笑い、
「ど、どうしたのさ」
お吉は、息を飲み込むように、
「あのね。あの水野様が、また老中に復帰なされたんだって!」
それにはお華は驚愕し、顔も一瞬にして変わった。
「え! ほ、本当なの?」
「もう、町中騒ぎになってるわよ」
お華は、怒りの表情に変わった。
「何て事を!」
と、立ち上がり、怒鳴った。
すると、おゆきが、その勢いのお華に驚いて、
「おねえちゃん怖い……」
俄に泣き出す。おみよが笑いながら直ぐ抱いて、
「大丈夫。おゆきに怒ってるんじゃないよ。心配しないの」
頭を撫でてあげたものの、おみよにとっても、驚愕の事態である。
また、下女にならなきゃいけないか……とすぐ、頭に浮かんだ。
怒りの止まらないお華は、
「折角、大奥まで行ったのに、これじゃ、何にもならないじゃない!」
また、誰にとも無く、言い放つ。
ただ、おみよは、
「でも、佐助さんは、まだ何も言って来ませんけど、知らないんでしょうかね?」
それにはお華も、少し、落ち着いた様で、
「いや、いくらご老中で、上の事だと言っても、知らせが奉行所に回らない訳はないわ。そう言えば、そうね」
すると、お吉が、
「今日は、大奥に行くんでしょ。ついでに、若に聞いてきたら」
お華は二、三度頷き、
「そうそう。じゃ、急いで、兄上の所に行ってくるわ」
一方、八丁堀。
居間に座っている、休みの浩太郎の所に、庭から優斎が入って来た。
「おう、先生」
浩太郎が言うと、優斎は、
「もう、お聞きですか? ご老中の事」
それには、浩太郎も笑い、
「聞いてるよ。先生もお聞きになったのか」
庭から、居間に上がった優斎は、おさよに頭を下げて、座った。
「そうですよ。朝方、薬を届けに伊達のお屋敷に行ったら、お留守居役から、その話を聞きましてね。こりゃ、早速、浩太郎さんにと思いまして」
と、こちらも少々笑いながら話す。
優斎も、驚愕という程ではない。むしろ落ち着いた様子で話す。
すると、浩太郎は、
「先生も、この話。少々おかしいと思っているんだろ?」
優斎は、何回か頷き、
「実はね……」
笑って話しだそうとした。
すると、浩太郎は、
「まあ、その内、お華が怒りまくって、ここに来るんじゃないかな」
それには、優斎も、
「ああ、それはそうでしょうね。奥様もお聞きになったのですか?」
おさよは、お茶を出しながら頷き、
「ええ、私も聞いて驚きましたけど、旦那様が落ち着いた感じなので安心はしてますけど、一体どういう事なんでしょうね」
すると、浩太郎が庭の奥の方を見やり、
「おいおい、すごい殺気がやってくるぞ!」
笑いながら、皆に言う。
優斎も気づいた。
「あれは多分……」
と言った途端、
「姉上!!」
玄関から、大きな声が響いた。
おさよは、笑って、
「ご名答にございます」
と、立ち上がり、玄関先に向かった。
「兄上!」
と、入って来た早々怒鳴ったお華だったが、笑顔の優斎がいるのを見て、
「あ、あら、先生。おはようございます」
と、勢いが急停止し、恥ずかしげに座った。
笑って、お華にお茶を出しながら、
「一体どうしたの、お華ちゃん」
おさよが言うと、お華は、また火が点き、
「どうしたもこうしたも姉上! お聞きではないの? ご老中様の事!」
察しの通りだったので、浩太郎達三人は、更に笑ってしまう。
「ねえ! 兄上、一体どういうことなの?」
と言うお華だが、浩太郎は笑い気味で、
「お前な~町同心の俺に、そんな事聞いたって、分かる訳無いよ。お前だって、それは分かってんだろ」
それには、さすがのお華も、
「ま、まあ、そりゃそうだけど……」
と、口ごもってしまう。
そして浩太郎は、
「深川には、もう、その話、伝わっているのか?」
お華は、頷き、
「そうですよ。おかあさんも、おみよちゃんも怯えてますよ」
浩太郎は頷き、
「まあ、そうだろうな。でもお華。お前今日、大奥に呼ばれてるんだろ? なら、誰よりも詳しいと思われる姉小路様に、直接お話伺った方が、よく分かるんじゃないのか?」
「それは、そうだけど」
すると、優斎が、
「ほう、姉小路様に呼ばれてるんですか」
浩太郎が頷き、
「そうなんだよ、昨日、こちらに知らせがあってな。恐らく、伸び伸びになっていた、ご褒美についてだと思うんだけど」
「へ~。そうか、お華さんには何頂けるんでしょ。奥様は刀でしたけど」
おみよは、少々呆れた顔で、
「父上は、先生が、あれだけ喋っちゃいけないと言われてたのに、嬉しいのか、あちこちに喋ってしまって、母上は、見物人の応対で大変ですよ。終いには、私も手伝う羽目になっちゃって……」
優斎は笑って、
「はは、やはりそうなりましたか。まあ、お気持ちは良くわかりますがね。じゃ、今度はお華さんだ」
お華は、優斎に笑顔を向けながら、
「そうなんですけど、これじゃ何だか、気が抜けちゃって……」
浩太郎は、お華に、
「何を言っておる。これは上様からの尊いお気持ちじゃ! 武家の娘として、それはちゃんと受け取って参らぬか。そして、ご老中の事は、別にお聞きすれば良い事じゃ。お前が、姉小路様に詳しい事を聞いてくれれば、俺も、そして皆もこれからの準備が出来るってもんじゃ」
お華も、その言葉には納得した様だ。
大きく頷いて、
「分かりました」
と、お華は、おさよに見送られ、江戸城大奥へと出掛けて行った。
残った三人は、また、
「どうじゃ、先生。伊達様のご意見は」
優斎は頷き、
「お華さんじゃないですけど、最初は驚愕したそうです。ただ、ご老中の阿部様に次回の参勤のご報告ついでに、お聞きしたところによると、ちょっと違う様な……」
「違う?」
浩太郎とおさよは並んで、優斎の話を聞いている。
「ええ、以前、お話しましたよね。老中でも勝手方と公事方の話」
浩太郎は頷き、
「お~、係が違うと全く違うって話な」
優斎は頷き、
「そうです。ところが今回。あの方は何も係を受け持って無いようなんですよ。あえて言えば、ただの筆頭老中ってだけで」
それには、浩太郎もおさよも、少し驚いた。
しかし、おさよは、
「でも、筆頭のご老中なのでしょ? それは……」
すると、優斎は首を振り、
「筆頭老中は、ただ経験と在籍が長いと言うだけで、名前だけ。それ程、力は無いんですよ。ただ、先輩格だというだけでして」
「へ~そうなんですか。では、一体何のために」
おさよは更に聞く。
優斎は頷き、
「留守居様のお話によると、城の修復費用が、思ったよりも集まっていないとか。これは表向きの理由なんですが、どうも、阿部様の口振りがおかしいそうです」
浩太郎は、お茶をすすりながら、
「ほ~、確かにその程度の事で、わざわざ罷免した水野様を再びっていうのは、何かおかしいな」
「そうなんですよ、阿部様も最初は反対したそうです。ところが、いつの間にか、変わってしまった様で」
そこで、浩太郎は膝を一つ叩いた。
「これは、だれかの差し金だな」
優斎も頷き、
「おそらく」
と、二人とも納得してしまった。
おさよは、何か閃いた様だ、
「それって、まさか、あの方ですか?」
その言葉に二人は、笑って頷く。
すると優斎は、少し笑いながら、
「これも留守居様が、阿部様にお聞きになったそうですけど。水野様、復帰一日目、西の丸城内は、緊張が走った様です」
「そりゃ、そうだろうな」
浩太郎とおさよは、二人で頷く。
「書院番やら、小姓など、着ている物を慌てて絹物を木綿に変え、仙台平も小倉袴に改めたそうです。とにかく、質素を装って待っていたそうです」
それには、浩太郎とおさよは大笑いした。
「私には、少々納得がいかないのですけど。仙台ですからね、別にそこまでと」
少々、笑いながら、
「まあ、かなりの混乱振りだったようなんですが、驚くのはここから」
「ん?」
「なんと水野様。黒羽二重の、新調した美服で登城されたそうなんですよ。しかも従者にも、全て新調の美服だったそうです」
おみよが驚いた。
「え? それって……」
浩太郎も腕を組み、
「それは、ご禁制の品じゃ……」
優斎は頷き、
「みな、あっけにとられたそうです」
「そりゃ、そうだろう。それとも、それは当てつけか何かかね。まあ、そう言う事なら、いずれにしても、お華達には問題無い様だな」
三人は、また、大きく笑い合う。
(2)
さて、お華。
西の丸なので、平川門ではなく、坂下門から大奥、七つ口に到着した。
顔が割れているお華は、皆に軽く挨拶しながら、入り口に座る、切手方の女中の女に、挨拶する。
すると、「お華様!」と言ったこの女も笑顔で、後ろに向かって、
「おるいちゃん!」
と、声を掛ける。
るいが、やって来て、お華を誘う。
「るいちゃん。どうしたの?」
るいは、明るく、
「綾瀬様から、今日、お華様がいらっしゃると聞いて、お待ちしていたんですよ」
それには大きく笑って、頭を下げ、
「これはこれは、ご丁寧に。何かあったの?」
すると、るいは、懐から紙片の様な物を取り出し、
「あのね。おみよちゃんにお渡し願いたいのです。これは、火事の折、亡くなった娘の墓のお寺が書いてあります。きっと、お気になさっているだろうと思いまして……」
それにはお華も、神妙な顔で深く頭を下げ、
「これは、わざわざ。るいちゃん、誠にお気を使って頂いて申し訳ありません」
と言って、それを懐にしまいながら。
「あの子も、これ見てすぐ行くと思う。本当にありがとう」
そんなやりとりがあった後、お華は長局向に行った。
障子の前に膝をつき、
「お華にございます。お呼びにより参上致しました」
と、少々、低い声で中に向かって、声を掛けた。
上座に座っている、姉小路は、
「お! 怒っているな」
と、目を丸くして、抑えながらも少し笑う。
綾瀬も笑いを口で押さえながら、立って、障子に。
開けてくれた綾瀬に、お華は、
「これはこれは、綾瀬様。ありがとうございます」
幾分言葉が固い。
堪えられなくなった姉小路は、
「これは、お華様。何を怒っているのじゃ?」
からかい気味の言葉を言うと、お華は、どんどん入って行って、姉小路様の前に、どかっと座る。
「久方と言う程ではありませんが、久方振りにございます、姉小路様、綾瀬様」
と、一応、深々と頭を下げる。
「何じゃ、お華。言いたい事があるのか」
と、姉小路は、何とも、わかりやすいお華に向かって、更にからかい気味に言う。
お華は、姉小路に向かって、
「姉様! 何故あの方は、またご老中になられたのでしょう!」
姉小路は、思った通りなので、
「やはり、その事か」
と、笑顔で答える。
お華は、まくし立てる。
「江戸中、大騒ぎにございますよ。おみよだって、そりゃ怯えております。何故、上様は、あの方をまた、お戻しになったのでしょう!」
さらに興奮気味に、お華は姉小路に訴える。
「お! 上様ご批判か?」
それにはさすがに、
「ひ、批判ではございません。真意を教えて頂きたいと思いまして……」
些か、勢いが止まってしまう。
すると姉小路はピシッと、背筋を立て、
「それは、わらわがお奨めしたからじゃ」
と、バッサリと言う。
「え!」
お華はあまりの言葉に、眉が上に上がる。
横の綾瀬が、もう堪らんとばかりに、腹を押さえて笑いを堪える。
「わらわが、上様に、是非とお奨めしたのじゃ!」
姉小路は重ねて言う。
「ええ~!」
お華は、腰を抜かさんばかりに驚く。
そして、
「しかし、姉様。姉様とて、命を狙われたばかりか、本丸まで燃やされ。ま、まあ、あの方自身が仕組んだ事では無いとは思ってはおりますが、私などにとっては、共犯と言っても良いような者。何故にございましょう」
少々、お華は姉小路に迫りながら聞く。
すると姉小路は、薄く笑い。
「良いかお華。このままではあの者を罰することは出来ぬ。証拠も無ければ、立ち向かう者もおらん。老中阿部様では、少し頼りない。かといって、遠山殿は、そう言った事をなさらぬ、立派なお方じゃ」
お華は、姉小路の目を見詰め、素直に頷く。
そして、
「そうなると、残りは一人じゃ。お華は共犯と言ったが、まさしくその通りではある。しかし今、妖怪に立ち向かえるのはあの者しかおらん。しかも、裏切られて、御役御免になった男じゃ。念願していた改革を潰されたのじゃからな。わらわは、密かに、復讐するなら今しか無いと言ってやったんじゃ」
お華は、あまりの言葉に鳥肌が立つ思いだった。
そして、姉小路は、
「売られた喧嘩は、徹底的にお返ししないとな!」
厳しい口調で、言い放った。
お華は、笑顔に変わり胸を押さえて、大きく頷き、
「そうですとも! 良かった~。それなら良いのです。安心しました~」
和やかに、二人に話す。
すると、綾瀬が、
「お華。今日はご褒美を受け取りに参ったのでは無かったのか?」
するとお華は笑って、
「いえいえ、この事が心配で心配で、恐れ多い事ではございますが、それどころではございませんでした~」
すると、姉小路が傍らから、一通の書状を出し、お華の前に出す。
「これが、上様からそなたにと仰った褒美じゃ。柳橋の近くに移りたいと言っておったからな」
お華は、もう、心ここにあらずと言った様子で、
「これは、誠にありがとうございます」
と言って、将軍が今居ると思われる、中奥の方向に書状を捧げ上げ、
「上様、誠にありがとうございます。我が家の宝になります」
と、深々と平伏する。
「それでな……」
と、姉小路が、お華に声を掛けたのだが、お華には耳に入らなかった様だ。
「もう、早く帰って、皆にこの事伝えまする。これにて失礼致します」
と言い、頭を下げて、サッサと立ち去ってしまった。
「おいおい!」
姉小路が引き留めるように、声を掛けたのだが、聞こえなかった様だ。
「お華ちゃん、行っちゃいましたね~」
綾瀬が、多少呆れ気味で、姉小路に言うと、姉小路も呆れ顔で、
「あの子は、何という慌て者じゃ!」
大笑いしながら、声を上げる。
そして、
「綾瀬」
綾瀬は、頭を軽く下げ、姉小路に向かうと、
「あのな、おさよを明日にでも呼んでくれぬか」
と笑いながら、綾瀬に頼む。
「承知致しました」
綾瀬も、些か笑いながら、深く頭を下げる。
さて、そのような事は一切気にせず、お華は、八丁堀に急ぐ、
帰って、居間に座ると、浩太郎と、まだそこに居た優斎に、
「やっぱり、姉様が、仕組んだ事ですって!」
開口一番、二人に報告した。
「やはり、そうでしたか」
と、優斎が頷き、
「そんなこと出来るのは、あの人以外に無いと思ってました」
おさよも、お茶を持ってきて、座り、
「それで、私たちにどうしろと?」
それには、
「あ!」
と、お華は口に手を遣りながら、
「そこまで、聞いてこなかった……」
おみよは、眉を寄せ、
「全く、何しに行ったの、あなたは」
と、軽く叱りつける。
すると、お華は、
「あ、ご褒美は頂いたの。柳橋の近くの屋敷って言ってたんだけど。兄上、ちょっと確認しに、一緒に行ってくれない?」
浩太郎は、軽い感じで、
「そうだったな。そうか柳橋の屋敷を貰ったのか。良かったなぁ~丁度良いじゃないか」
三人と、お華は笑顔になる。
「じゃ、ちょっと……」
と、浩太郎が出掛ける用意をしている最中、おさよが、
「ねえ、お華ちゃん、どういった所を頂いたの?」
すると、お華は頂いた書状をそのままおさよに渡した。
おさよは、それを開き、隣の優斎と一緒に見た時、二人とも驚愕した。
「多分、長屋みたいな所だと思うんだけどね」
などと言っているお華に、おさよが、
「あなた。これ。そのまま頂いてきたの?」
「うん!」
と明るく返事するお華に、用意の出来た、浩太郎が、
「じゃ、行こうか。じゃ、おさよ。先生、ちょっと行ってくる」
おさよは、その書状をお華に返しながら、
「お、お早いお帰りを……」
と、些か、固まった様子で言う。
二人が出掛けた後、おさよは早速、優斎に、
「ご、ご覧になりました? 先生」
優斎も、目を大きく開き、
「見ましたよ~」
おさよは、少々怒り気味で、
「あの子は、ちゃんと確認して無かった様ですね」
優斎も、頷き、
「恐らく……」
「先生、ああいうのは、後でお取り替えなんて出来ませんよね、普通」
「伊達で言えば、無礼者! そこに直れってなもんです。ああいう物は、貰った時点で確認し、拙いようならその場でご相談が、作法ですよ」
ますます、おさよは怒りを露わにする。
「どうです先生。姉小路様が仕組まれた何て事は」
優斎は、笑って手を振り、
「いや、恐らく、上様はこのくらいの物を与える心づもり。と言うのをご披露のおつもりだったのでしょう」
「やはり……」
「普通は、遠慮して、誠に申し訳ありませんが、これでは我が家には大きすぎて……などと言って、変えて貰うのが正しい。姉小路様も、恐らくその積もりだったでしょう。ひょっとすると、他の屋敷を用意されていたかも知れません。しかし、一端、受け取って、帰ってしまったとなったら……」
「そうですよね。これは大変じゃ~」
と、おさよは眉を寄せる。
そして、この様な二人の思いは、直ぐに現実となる。
ちょうど、お玉ヶ池稲荷の真ん前。
今の、千代田区岩本町である。
そして、目の前に、大きな大門が、二人にバーンと立ちはだかる。
二人は、書かれてある住所の前に立ち、驚愕? いや、腰を抜かし立ち止まって固まっている。
「あ、兄上……まさかこれ?」
今までに無い表情で、表門を見詰め、指差すお華。
浩太郎も驚愕していたが、すぐお華に、
「お、おい、書状を見せろ!」
と叫ぶ。
お華から奪い取った書状。それと中にあった、屋敷の見取り図を見た浩太郎は、手が震えだした。
「ち、ちょっと待ってろ。自身番に行って確認してくる」
と、走り出す浩太郎、何とも言えない表情で、その場に屈み込むお華。
浩太郎が、岩本町の自身番屋に飛び込み、町役人と思われる柔和な男に向かい、
「私は、こんな格好しているが……」
休みだったので、いつもの同心姿ではなく、着流しの姿だ。
「北町奉行所、同心の桜田浩太郎と申す」
「へぇ。これはこれは、お役人様」
とその男は、側に寄って、平伏する。
浩太郎は、内心はともかく、優しげに、
「ああ、本日は休みで役目では無いのだ。その様に改まらなくても良い」
と、少し笑顔で、
「ちょっと、聞きたい事があってな。教えてくれると有り難い」
その男も笑顔で、
「へぇ、何なりと」
上から押さえつける様な、役人ではないと悟ったのだろう。安心した様子が窺える。
浩太郎は、向こうを指差し、
「あの、お玉ヶ池稲荷の前の屋敷。あそこは今空いているのかい?」
男は、あ~と笑顔で、
「はい。あそこは先日、立ち退かれまして、空き家にございます。元々は、東城様と仰る、五千石のお旗本のお屋敷にございました」
浩太郎は、青ざめ肩を落とす。
(うわっ、大身旗本ではないか……)
心の中で叫ぶ浩太郎は、眉を寄せ、
「やはり……。その後、誰が入るのか、お上から知らせが来てるかい」
外目だけでもあれ程の屋敷だ。何らかの指示があってもおかしくはない。
男は、文机の帳面に手を伸ばし、めくって調べると、何らかの紙片が挟まっているのに気づいた。
「あ~、何でも、大奥から、上様御用の屋敷と、ご連絡を頂いておりますね」
(ひえ~、姉小路様。さすがに仕事が速いな……)
と、浩太郎はガックリと肩を落とし、お華から取ってきた書状の、二枚目には、
お華の名前と「この者に屋敷を与える」と印を押された紙を見て、
こりゃ、駄目だと諦めた。
そうなると、浩太郎も役人。指図をしなければならない。
少々、力の抜けた声で、
「では、今後はこの者が入る事になる。手続きを頼む」
と、その書類を渡した。
「へぇ」
とその男は、それを受け取って怪訝な顔をした。
まあ、浩太郎も予想通りだ。
「桜田お華って、女の方が入るのですか? あれ? 桜田って」
浩太郎の顔を見詰める。
「そうじゃ、私の妹なのじゃ。大奥姉小路様のお手伝いをしていての。そして、その女は、柳橋の芸者じゃ」
それには、今度は男の方が、「ええ~」と仰け反って驚いた。
「げ、芸者にございますか?」
こうなると、浩太郎の方が面白くなる。
「そう、元々、深川の芸者でな。座敷では、お華太夫と名乗っておる。そして、私の手下も勤めておる。訳の分からぬ奴でな」
とうとう、大笑いした。
「へ~。こりゃ面白うございますな。旗本様から今度は芸者とは。しかもあんなに広いところ」
浩太郎は笑って、
「まあ、悪いが、よろしく手配頼む。一応、我が妹なんでな」
浩太郎が帰ってきても、お華は難しい顔で、腰を落としている。
「おい、やはり間違いない。もう空いてるそうだ。とりあえず中に入ろう」
と、二人は屋敷の門を潜った。
思った通りであった。
まだ、それ程古くも無く、式台も備えた立派な玄関。
浩太郎が辺りを見回すと、庭も大きそうで、なんと離れまである。
例えば、知行五百石の遠山金四郎の本宅より、更に大きい。
「どうすんだ? これ」
と、浩太郎はつい口に出てしまう。
しかも誰も居ないから、余計に広く思える。
二人は、玄関先の階段に並んで座った。
お華は、頭を両手で抱えている。
浩太郎は、
「番所には、もう届けておいた。何時でも、越してこれる」
お華は、悲しそうな声で、
「引っ越すったって……」
すると浩太郎は、
「お前は火事の時、おみよに武家には武家の道があるとか、偉そうに申したそうじゃないか。これも武家の娘の道じゃ。しかも相手は将軍様。諦めろ」
と、笑っている。
「は~」
さらに、お華は落ち込む。
「決まった事じゃ、とにかく中の様子を確認して、帰って皆と相談しろ。小さい子も居るんだから、負担を掛けないように考えないといかん」
お華は、更に肩を落とし、
「相談するって言ってもねぇ~」
と言いながら、浩太郎と立ち上がり、屋敷の様子を確認しに歩き出した。
(3)
しばらくして、浩太郎は八丁堀に戻ってきた。
おさよの顔を見ると、口を押さえて、笑い出す。
「やってくれたよ。またお華は」
それを聞いただけで、おさよは、全てを悟った。
「やはり、大きなお屋敷ですか」
浩太郎は、投げやりな感じで、
「五千石だってよ」
「ご!」
居間に戻りながら、おさよには、何だか怒りが込み上げて来た。
「全く! あの子は!」
「それは、立派なお屋敷さ。番屋の親父なんざ、芸者が入るってんで、腰抜かしておったよ」
と、笑う浩太郎。
「先程、大奥から、明日、姉小路様から、私にお呼び出しがありました」
「ほう。では、やはり」
「そうですよ。お詫びに参らなければなりません」
「はは、それはそれで、何仰るか楽しみだの。ああ、おれは、遠山様のお屋敷に行ってご報告しなければならん。きっと笑われるだろうな~」
二人は、居間に座って、お茶を飲みながら、おさよが、
「その前に、お華の所に行って叱ってこなければなりません」
すると、浩太郎は、
「まあ、あんまり怒るな。きっと今、深川で大騒ぎだ」
と、笑い飛ばした。
翌日、おさよは、優斎を誘って、岩本町に向かった。
「え! 五千石ですか? やはり……」
歩きながら、優斎も解ってはいたものの、改めて驚いた。
「一体、どうするんでしょう。子供も小さいのに」
それには優斎は、
「いや、それは大丈夫ですよ。一人きりでも無いし、子供も慣れますから。ただ、最初は。しばらくは手がかかるでしょうね」
と、和やかに話す。
「それなら、良いんですけど……」
二人が行くと、
既に、三人と一人は、玄関先で、硬い表情で座っていた。
「奥様! 先生!」
と、おみよが気付き、寄ってくる。
「おみよちゃん。中の様子は見たの?」
おみよは、笑って、
「大奥に行ったのが良かったのかも知れません。少し慣れてましたから。ただ、これからどうしようかと……」
「そりゃ、そうよね」
おさよは、お吉にも労いの声を掛け、笑顔でおゆきの頭を撫でてやったが、お華に、
「こっちに来なさい!」
と厳しい声で、連れて行かれる。
優斎は、三人に話を聞いている。
「あなた。一体どういうつもりなの?」
うわ~っと、お華は頭を抱える。
「全く、武家の娘が、こんな失態おかして、おゆきに偉そうな事言えないわよ!」
と、叱りつける。
そして、おさよは、
「まあ、あまり言うなと、旦那様も言うからこれぐらいにしておくけど。私はこれから大奥に行かなきゃならないのよ」
「え? 姉様が?」
「お華ちゃん、ちゃんと姉小路様のお話聞いてないでしょ。あなたじゃ心配だから私に来いって。ついでにお詫びもしなきゃ。多分、姉小路様は、ここじゃ無く違う、おゆきにもちょうど良い所を準備なさってた筈よ。あなたがサッサと出て行ってしまうから……」
お華は、泣きそうな顔で、
「ごめんなさい姉上……」
おさよは、普通の表情に戻り、
「もう、仕方が無いわ。とりあえず住めるように、女将さんとおみよちゃんと相談しなさい」
お華は、力なく頷く。
さて、おさよは、優斎とお華達と別れ、お城に向かって、出て行った。
大奥に入った、おさよは、お華と同じ様に部屋の前で、膝を付き、
「おさよ。お召しにより参上致しました」
と、姉小路の前に座った。
まず、おさよは、
「此度は、お華に、過分なお屋敷を賜り、誠にありがたく、御礼申し上げます。どうか、上様にもよしなに」
深く深く、平伏した。
「ふふ、おさよ。驚いたであろう」
と、笑った、姉小路の言葉。
おさよは、
「いえいえ、お上のなさる事、あれぐらいは当然にございます」
「そりゃそうじゃ」
「姉小路様、私が驚いたのは、何も確認せず、サッサと帰ってきてしまったお華にございます」
「ふふ、いかにも、いかにも」
姉小路は、隣の綾瀬と一緒に笑う。
すると、綾瀬が心配そうな顔で、
「どうなのじゃ、お華は」
それには、おさよも笑い、
「どうもこうも、固まってしまっております」
と、三人は大笑いである。
すると、おさよが、
「姉小路様、ちなみにお聞き致しますけど、やはり替わりの屋敷などをご用意されていたのでしょうか?」
姉小路は、笑いながら大きく頷き、
「当然じゃ、わらわもあの子の事は聞いていたからな。本所のな、これも武家屋敷じゃが、御家人の屋敷がやっと空いたので、それで少し待たせることになったのじゃ」
おさよも、大きく頷き、
「やはり、思っていた通りにございます。あの子は、姉小路様にご老中の件を聞いて、余程喜んだのだと思います。そうなると他の事、恐れ多くも上様のご褒美でさえ、頭に入らなかったのでしょう。全く、慌てん坊のお華にございます」
「あわてんぼう……」
綾瀬が、繰り返し、大笑いだ。
姉小路は、
「まあ、解らんでも無いがな。しかし、もう、上様に報告してしまったし、どうしようもない」
もっとも、おさよが言う、褒美に注文を付けるのが、全て悪いとは言えない。
「その様な褒美は分を超えております」などと、言うことも可能だが、それによって、お上の機嫌を損ない、かえって御家断絶になってしまった者も多くいる。
とはいえ、お華の場合は、姉小路様が中に入っているので、そこまではならないと思われるが、褒美と言って、油断すると危ない事も事実だ。
彼女の危機感もそれを指している。
さて、おさよは頭を下げ、
「当然の事にございます。全てはあの慌てん坊の責任。姉小路様が、お悩みになる事ではございません。ただ、一つだけ、その事について、お願いがあるのですが、お聞き頂けますでしょうか?」
「ん? 何じゃ?」
おさよは、平伏しながら、
「戴きましたお屋敷、中に少し、手を入れるのをお許し頂けるでしょうか?」
「手を入れる?」
おさよは少し笑って、
「はい。仕方ない事とは言え、さすがにあのままで、女三人と幼児だけでは、些か大変。大工を入れて、少し住みやすいように、変えてもよろしゅうございますでしょうか。つまり、屋敷の中に、長屋を作るといった様なものです」
前の二人は、さすがに笑みがこぼれる。
「よいよい。しかし、屋敷に長屋か。相変わらずおかしいの~」
「ありがとうございます。これにて幾分、良くなるでしょう」
改めて、おさよは深く頭を下げる。
そして、
「さて、それからでございますが、お華が聞きそびれた、お指図を承ります」
と、また頭を下げる。
姉小路は声を上げて笑う、
「やっと、思ってた通りの流れになったな」
と、笑いながら、そして、少し厳しい顔に変わる。
「あのな、頼みたいのは二つ」
「はい」
と、頭を下げる。姉小路は、
「まず。妖怪に使われて、その後、飛ばされた者が居る。その者に接触し、命じられた事についての上申書を書いて欲しいのじゃ」
それには、おさよも眉が上がり、
「ああ、それは私もお聞きしております。たしか、八王子に飛ばされたと言う、御家人にございますな」
「おお、さすがに知っておったか」
「はい、実は、それを確認したのが私でございまして、遠山様のお屋敷の前で発見し、手のものに、確認をさせたのです」
「おお。それは助かる。それとな、もう一つは、金座の後藤じゃ」
「ご、後藤……様にございますか」
「そうじゃ、あの者、不審な点が多い。最近、妙な書状を、老中堀様に送ったそうじゃ。既に、勘定方が動いてはいるが、所詮、勘定方ではの。そなたの夫に、その周辺、金の流れなど調べて欲しいのじゃ」
後藤三右衛門は、商人で、十三代目後藤庄三郎である。
庄三郎の家系は、慶長の頃から、徳川に仕え、金座や銀座を支配し、この三右衛門は養子ではあるが、後藤家を継ぎ、金座御金改役となっていた。
姉小路の狙いは、貨幣改鋳による不正の摘発である。
これまでは水野・鳥居の後ろ盾もあり、手の出しにくい男であったが、水野の失脚で、好機と感じたのであろう。
これには、おさよも驚いた。
「ちなみにこれは、奉行所とは別に。と言うことにございますよね」
姉小路は、大きく頷き、
「そうじゃ。派手にやると気づかれてしまうからな。それでは、証拠も消されてしまう。一斉の調べまで、安心させておかねばならん。既に、北町の阿部殿には承諾を得ている」
おさよは、目尻が上がる。
「ここだけの話としてお聞かせ下さい。これは、妖怪と同時に、復帰させたご老中様も狙っての事でしょうか?」
姉小路は、それには何も言わないが、満面笑顔になる。
おさよは、言い知れない恐ろしさに身が震える思いだった。
しかし、それを振り切り、
「承知致しました。それには、我が夫と、下の親分初め、若い者が走りましょう。そして、八王子の方は、伊賀の方にお願い致しましょう。罪を認めて、罪を訴える。これは些か難しい事にございます。やはり、お華に依頼するよう頼みましょう」
「そうか。ではそう頼む。だが、伊賀は、お華で大丈夫なのか?」
それには、おさよが笑顔に変わり、
「実は、先日。伊賀衆とお華で、手打ちが行われまして……」
前の二人は首を傾げ、綾瀬が、
「何じゃ、手打ちとは」
おさよは頷き、
「柳橋の座敷に、お華に会いたいと、伊賀のお頭がいらっしゃったそうで、私は行ってませんが、夫が同席したそうです。姉小路様のお陰をもちまして、あの者達の中、あれに欺された者のお命をお許し下された事で、その礼と今後お互い恨みを持たぬ、という話し合いが上手く行った様でございます」
「ほう」
「伊賀のお頭は、お華と私の技が、えらくお気に召した様にございます」
姉小路は、頷きながら、
「そうかも知れんの~」
すると、おさよは、少し前に寄り、小声で、伊賀お頭からの大坂夏の陣話を二人に小声気味で話した。
さすがにそれには、姉小路は目を釣り上げて、驚いた。
「誠か! その話」
おさよは頷く。そして笑いながら、
「お頭は、そちらはあの折、権現様に手向かい。そして今は将軍をお助けしているが、わしらは二百年経っても、やられッぱなしじゃ……と」
「いや、驚いたの……」
と、姉小路は言いながら、大笑いである。
それから、おみよは八丁堀に戻って行った。
浩太郎は、一連の話を聞き、目が丸くなる。
「俺に動けと、仰るのか」
おさよは軽く頷き、
「私は、もう、背筋がぞっとする怖さでしたよ。まさか、折角復帰させた老中を、今度は谷底に突き落とそうとしてるんですから、本当に驚きました」
浩太郎は、首を振り、
「しかし、お華とお前。さらに姉小路様を敵にしたら、恐ろしい事になるな」
おさよは笑い、
「何を仰ってるのです。喧嘩を仕掛けたのはあちら様ですから……それに、女だと思って甘く見るから、こういう事になるのです」
浩太郎は大いに頷き、
「全くじゃ。妖怪も、さすがに天魔王には勝てぬか」
と 大笑いである。
「わかった!」
浩太郎は翌日、早速すみやへと向かった。
それと同時に、おさよは佐助に頼み、お華に「おバカ」の言葉と共に、八王子の手配をする様、厳命した。
その伝言を聞いたお華は、ガックリと肩を落として頷き、トボトボと、四谷方面に歩き出した。
(4)
さて、浩太郎は、すみやに着くと、親分と平吉に、
「いつも、お華のつまらん仕事頼んですまん。だが、今回は少々違う。言ってみれば、世間を動かす仕事じゃ!」
と言いながら、頭を下げるおていとお千代に笑いながら、小上がりに座る。
ちょうど、客も居なかったので、親分と平吉も、小上がりの反対側に上がって、座る。
すると、親分が、
「若! 最近妙な話を聞いたんですよ。何でも岩本町のお玉が池天神の真ん前に、「おはな」という女が、大きい武家屋敷に住んでるって噂を聞いたんですけど、まさか……」
浩太郎は大笑いして、
「そのまさかだよ」
家中で噂していた事が、本当にお華の事だと知った親分達は、当然、仰天した。
浩太郎は親分に、
「ほら、お華とおさよが、お手伝いで大奥に行って、火事で大暴れしたって話はしたろ?」
「ええ。そこまでは」
浩太郎は、苦り切った顔で、
「それに、なんと上様が、えらく感心なされてな」
それには、親分と平吉、そしておていも驚いた。
「う、上様……」
の平吉の唸りに、浩太郎が頷いて、
「ご褒美に、おさよは刀。お華は、五千石の旗本屋敷を戴いたんだ」
「ええ~!」
仰天した皆だったが、親分が、涙を流し始め、
「大旦那様がお聞きになったらどんなにお喜びになるか……」
「親父……」と平吉が、親分の背中を軽く叩く。
「まあ、置屋が、今度はあっちに移っただけだ。お前さん達には申し訳無いが、近くなった分、よろしく見守ってくれるとありがたい。最も、お華も今は大混乱だ。そんな大きい屋敷、女三人と、幼児一人だ。おてい、どう思う?」
おていは、笑顔で、
「そりゃ、地獄にござんしょう」
と、大笑いする。
笑って大きく頷く浩太郎は、お千代に、
「小さな娘もいるから、お千代、遊びに行って遊んでやってくれるか? 近くなったしな」
優しく言うと、お千代は、大きく頷いて、
「はい。すぐにでも遊びに行きます」
この子もまだ幼いから、嬉しそうに答える。
「よし、じゃ本題だ」
と、浩太郎が言うと、早速おていは、酒の仕度に調理場に入り、それにお千代もついて行く。
浩太郎は、二人に、
「あのな。これは奉行所の仕事ではない」
と言ってから笑い、
「どちらかというと、おさよとお華への姉小路様のご命令じゃ」
それには、親分が大きく頷く。
「そりゃ、願ってもない事。何なりと仰って下さい」
「あのな、二人とも、金座の後藤は知っているだろう」
「ああ、あの成金野郎ですか?」
と平吉。
頷く浩太郎は、
「こいつの全てを至急調べて欲しい。金銭の出入り、雇い人の数、その他ありとあらゆる事全てじゃ。恐らく、近いうち、老中様の指示により、お縄になるとは思うんだが、出来れば、その前に調べて欲しいんだ。お調べで必要になるからな」
親分と平吉は、無言で、頷く。
そして、浩太郎は、
「まあ、あいつは世間でも、かなり噂の多い奴だけど、金を貯め込んでるとか、下女下男が百人以上いるとか、本当の事なのかとかな。大体、そんなに居るんなら、お華に回せよとか思うんだけどな」
三人は思わず笑ってしまう。
「まあ、そいつら関係の者などに酒でも飲ませて、聞き取って欲しい。さっきも言った様に、これは奉行所ではなく、上﨟お年寄、姉小路様。そして、老中阿部様のご依頼なんだ。気合いを入れてお願いしたい」
平吉は目を丸くして、
「ひえ~ご老中様からも……」
「そう、これは、お華のお中臈などの依頼を迅速にこなしてくれた、お前達がお目にかかったんだ」
二人は、笑顔で頷き合う。
そして、浩太郎は懐から、包みを出して、
「これが、手間と、ちょっと早いご褒美だ」
親分が震えながらそれを開くと、十両あった。
「こ、こんなに?」
高く見積もって、今なら百万円である。
浩太郎は頷き、
「これぐらいで足りるかい」
親分は、首を振って、
「足りるどころじゃありませんぜ。承知致しました、それでは至急、若い者を集めて取りかかります」
二人は深く頭を下げ、それから皆で、あれやこれと打ち合わせしながら、酒を呑み始めた。
さて、一方お華。
おさよに「おばか」と叱られたお華だが、半蔵門から、四谷の大番所を過ぎた頃には、些か気分が戻っていた。
そして教えられていた通り、伊賀町辺りに行くと、直ぐ、油屋が目に入ってきた。
(なるほど、伊賀さんにしたら、えらいわかりやすい所にあるわね)
などと、思いながら、その油屋の暖簾を少し開けて中を見ると、若い娘が二人、ケラケラ笑いながら話していた。
そして、一人がお客と気付き、
「いらっしゃい……」
で止まってしまった。
誰だか気付いた二人は、とっさに着物を弄ったが、残念ながら、そんな物を持つ事を許されていない。
それを見たお華は、大笑いして、
「何、身構えてんのよ。もう遅い!」
と、二人に近づいてきた。
一人が、そろそろと、
「お、お華さん……」
と言うのだが、お華は笑ったままで、
「全く、いらっしゃいませでしょ! 商売になんないでしょ」
と、軽く叱った後、
「そう。やはり、言う通り店の子になったのね。ふふ、それも似合うわよ」
と、優しく二人に話す。
そして、
「ねえ、おじいちゃんは、今日はいらっしゃるの?」
と言われた二人は、多少驚いたが、
「お、お頭ですか?」
お華は頷き、
「あんた達を怒りに来たんじゃないわよ。奥にいるの?」
二人とも、一緒に頷き、
「は、はい。奥の方に」
「じゃ、ちょっと失礼しますよ」
と、言いながら、中に進み、
「表の二人は、馬鹿話して、油売ってますよ~」
と言いながら、
「あ、油屋だから良いのか?」
などと言いながら、どんどん奥に行く。
そして、
「おじいちゃん? どこ?」
というお華の言葉に、呆れた様な声で、
「こっちじゃ!」
と声が上がる。
ニコニコしながら、お華は中に入り、お頭の前に座る。
「先日は、柳橋までいらして戴いて誠にありがとうございました」
と、一応、礼儀正しく感謝の言葉を述べるが、お頭は笑いながら、
「とても心のこもって無いご挨拶。痛み入る」
それには二人とも大笑いする。
「どうしたんじゃ、今日は」
と、お頭が聞くと、
お華は頷き、
「ええ。少々お願いがありましてね」
と、微笑む。
すると、お頭は、思い出した様な顔で、
「おお、そう言えば、聞いたぞ! お前さん。お上から、大きな屋敷を戴いたそうじゃないか」
と、笑って聞く、
その言葉には、お華も、急にガックリと肩を落とし、
「さすが、伊賀のお頭様。お耳が早い。でもね~大変ですよ~」
お頭は、フフっと笑う。
「お頭なら、私がどんな暮らしをしてたか、ご存じでしょ。だいたい女三人、小っちゃい子供が長屋で暮らしてたのに、いきなり五千石の屋敷に行って、まともに過ごせる訳無いですよ。食事だ! って台所に走り、子供が、厠だと背負って厠に走り、そして客だって言うと、端から端まで全力疾走ですよ。あたしは何の修行してるんだろうって有様ですよ」
それには、お頭も大笑いした。
「なるほどな。大きいから良いってもんじゃないか」
お華は、大きく頷き、
「本当ですよ。少しはお上もお考え頂きたいわ」
頷く、お頭は、
「で? 今日はそんな大変な時に、何の用じゃ」
お華は、大きく頷いて、
「言いたいこと言って、すっきりしたわ。あのね。伊賀の忍びに、技を使ってって程じゃ無いんだけど、お願いしたい事があってね」
それには、お頭も興味を持った様で、
「ほう。お前さんに叩きのめされた伊賀に、何を頼むんじゃ」
おかしそうに言う。
お華も、手を振り、
「嫌なこと言うわね、おじいちゃん。あのね。これは、伊賀の方々にも、一矢報いるというか、意趣返しっていうお願いよ」
と、和やかに言いながら、一枚の紙を差し出して、そこに書いてある名前を指差し、
「あのね、あの妖怪に使われて、八王子に飛ばされた御家人に、お上に上申書を出す様、説得してほしいのよ」
「ほう。面白い事言うな。なんだその御家人って」
お華は、詳細をお頭に説明した。
「なるほど、それで意趣返しか。それはそうかも知れんな」
「でさ、誰に頼む? お頭がやるほどの事じゃないけど、武士の意地とか、結構面倒な事もあるからさ、何となく囁いて説得してくれる人」
お頭は、少し考えて、
「おう、それなら、ほれあそこの娘の父親に頼めば良い。五平じゃ」
お華も憶えていた。大きく頷いて、
「ああ、五平さん。それは良いかもね」
お頭は、店先に向かって、
「おい! お﨑」
とその娘を呼ぶと、お崎は、何だか怖々と、部屋の前にあらわれた。
お華は、それを見ておかしそうに、
「何時まで警戒してんの。お頭とこうやってお話してるでしょ?」
お頭も笑いながら、
「まあ、仕方あるまい。さて、お崎、今日は五平は休みだったな。家に居るかな」お崎も、やっと警戒を解いたのか、笑いながら、
「はい。家に居るものと思いますが……」
「それじゃな。ここに呼んできてくれないか? お華様からお呼び出しだと言ってな」
と、笑いながら言う。
すると、お崎は、目が細くなり、
「父が何か……」
と、お華をチラチラ見ながら、恐る恐る聞く。
お頭とお華は大笑いする。
「心配することはない。お華が頼みがあるようなのじゃ」
それには、彼女も安心したのか、
「あ、はい。只今呼んで参ります」
と、走って出て行った。
「ほらね、おじいちゃん。あれぐらいの子にあんな事命じるなんて信じられないわよ」
お頭も頷き、
「全くじゃ」
と笑う。
すると、それ程時も掛からず、お崎に連れられ、五平がやって来た。
お華の顔を見た五平は、廊下でいきなり平伏する。
お華は、手を振り、
「五平さん。もうそんな事やめましょ。その子も驚くわよ」
五平は、些か恥ずかしそうに、腰を低くしながら、お頭とお華の間に座る。
「あんたも、ちょっとお聞きなさい」
と、お華にお崎も座るように言われる。
すると、お華は、
「五平さん。お呼びだてしたのは、姉小路様のご命令で、お願いしたい事があるのです」
その名を聞いて、娘は目が大きく開く。
「はは」とそれを笑いながら、お華は、
「実はね……」
と事の次第を話す。
「お父さんみたいな、伊賀の忍びの方には楽な仕事でしょうけど、必ず、確実にやって欲しいからお願いするのです。これは、単に忍びの仕事というよりも、娘さんや若い者達を良いように使った者達に対する伊賀の忍びの復讐だとお思い下さい」
五平は、チラとお頭に目をやると、笑顔で頷いているので、
「これは、お華さん。私たちの為に、誠にありがたい事にございます。確かに、このままでは、怒りが収まらない所でございました」
すると、お頭が、
「お華ちゃんよ、これは、お前さんが伊賀にと進めた話かい?」
するとお華は、
「いえ、これは姉が、是非にとお願いした事です。このままでは引き下がれないだろうと言う事で、忍びの方には詰まらない事かも知れませんが、戦うことばかりが仕事ではないでしょう。とね」
「ほう、おの小太刀の女か」
「それで、お話はお華が最適じゃ、と言うことで私が来たんですけど、でも、なんで私が最適なんでしょうねぇ~」
それには、お頭は大笑いした。
そして五平が、
「承知致しました。忍びとしてのご依頼ならば、喜んで引き受けさせて頂きます
「ありがとうございます。それでは」
と、お華は懐から包みを出し、
「それでは、これを依頼料として、お収め下さい。十両入っております」
それには、お頭と娘親子も驚いた。
さすがに五平も、ぶるぶる首を振り、
「いや、そ、そんなものは受け取れません。この子が多大なご迷惑をお掛けしといて……」
すると、お華は笑って、
「五平さん。もう手打ちは済んだでしょ。それに伊賀の忍びを使うのだから、これぐらいは当然です」
そして、お華は、お頭に、
「あのね、兄は今、金座の後藤も調べているみたいよ。あそこは勘定奉行の管轄だと思うけど、あそこも金使って、奉行所も親分以下、総動員よ」
お頭も目を丸くして、
「こりゃ、そうとう本気だな」
お華は頷き、五平に、
「だから、そんなことは気にしないで、もし、余ったら娘に飴でも買ってやって」「飴……」
と、驚いた顔でぼやく娘。
「あ、おじいちゃんには、お酒でもお土産に買ってあげればいいわ」
「酒……」
と同じ様にぼやく、お頭。
五平は、満面笑顔で、
「ありがとうございます。伊賀としてのご命令。しかと相務めます」
と平伏した。
「よろしくお願いします」
お華も深く頭を下げた。
すると、笑って頭を下げていたお頭が、ムクッと起き上がり。
横の五平に、
「おい、五平。あの新宿の鬼娘。もしやすると噂を聞きつけて、お華の御殿に様子を窺いに来るんじゃないか?」
それには、五平が、
「ああ、それは。あの女の事だから、あり得ますねぇ~」
と笑って答える。
お華は、妙な顔で、
「お、鬼姫? おじいちゃん。何じゃそりゃ」
あちらで聞いている娘、お崎もクスクス笑っている。
「う、あの子まで笑ってる。ねえねえ、何なのよ五平さん」
五平は、お頭に笑って頭を下げ、そして、
「あのですね、お華さん。鬼姫っていうのは、甲賀のくノ一なんですよ」
その言葉には、お華も大いに驚いた。
「甲賀? まあ、伊賀さんがいれば、甲賀さんが居るのは私にもわかるけど、それって何? 何だか、お化けみたいだけど」
五平が笑いながら、
「いえいえ、甲賀の女頭領です。妖術使う何て言われてますけど、うちのお頭でもご覧になった事ないそうです」
お頭も深く頷く。
しかし、お華は、
「お頭なの? 女で。何だか気味悪そうね~。あたしはそういうのは苦手なのよ~」
お頭は、大笑いして、
「お華ちゃんにも苦手があったか……。まあでも、信濃のくノ一と聞いたら、きっと天井から,
ぬうっと顔出して見に来るよ」
「止めてよ。そんな、ろくろっ首のような言い方! 別に恨みも何も無いんだからさ……」
お華は襟を寄せ、肩をすぼめて、怖がっている。
それには、お頭、五平そしてお崎まで、大笑いした。
~つづく~
今回もありがとうございます。
さて、今回はまず、お詫びしなければなりません。
私は普段、文章を完成させると、パソコン上の校正をかけ、その後、読み上げさせて、文章上の間違いを修正しています。
しかし、忙しさに紛れ、うっかりその手順を抜かして、間違ったまま、アップさせた話があるようです。
この場を借りまして、深くお詫び申し上げます。
その内、再度修正致します。
では、今回?
今回は手順を踏んでおります(笑)
それでもなおかつ! という場合については、単に能力の無さでございます。
よろしくお含み置き下されば、有りがたく存じます。
さて、お華は上様から、屋敷を頂いてしまいました。
「ありえないだろ!」
と仰る方もお有りとは存じますが、(小説上の)状況としては、決しておかしくは無く。むしろ、武門の家臣としては普通の事。
ただ、それがお華さんだというのが問題なのでしょう。女性ですしね。
まあ、飛んで敵を倒して、守ってくれたのだから、将軍も褒美をやらない訳にはいきません。
そして、岩本町の屋敷は、確かに旗本の屋敷だったのですが、話に合う屋敷があそこしか無かったと言うのが一番の理由かも知れません(笑)
そして、今回はとうとう甲賀も現れました。
伊賀をかいたら、甲賀もだろ! というご批判に対処すべく、ギリギリで考えつきました。
一体、このくノ一は、敵か味方か?
ただ、この後、必要な存在になると思われます。
それでは、今回もありがとうございます。
乱文乱筆(?)お許し下さい。
ご意見、ご感想、お叱り(?)お待ち申しております。
次回もよろしくお願い申し上げます。




