㉑天保の擾乱・前編
(1)
その日、お華は芝増上寺につづく、大道を、風呂敷に包んだ荷物を抱え、歩いていた。
朝、お吉のところでおゆきと遊んでいると、お吉に、
「お華ちゃん。悪いんだけど、お使いお願いできないかしら」
と、増上寺近くで、小間物屋を開いている、お吉の知り合いに、祝いの品と挨拶を頼まれたのだ。
お吉の昔の芸者仲間で、勿論引退し、良い年の女だが、近頃、孫が生まれた様だ。 本来ならば、お吉本人が挨拶に行きたいところだが、おゆきを連れて行くには、少々遠い。
そこで、お華と言う訳だ。
今日は、お手先としての仕事も無いし、お吉がしっかりとした訪問着を用意してくれたので、軽く了承し、天気の良い品川を、如何にも玄人っぽく進んでいく。
相変わらず、改革のお調べは厳しいが、芸者として歩いていなければ、そう心配することは無い。ましてやお華である。
さて、東海道の増上寺前で、ちょっと止まって挨拶し、中門前二丁目、今の浜松町二丁目あたりにある目的の小間物屋に到着した。
「あれ~お華ちゃんじゃないの~」
店に出ていた女将は、笑顔で迎えてくれた。
お華も以前から知っている女将なので、ニコニコと挨拶と、来訪の目的を話すと、女将は、
「わざわざ、申し訳無いわね。お吉さんはお元気なの?」
お華は微笑み、
「ええ、変わりなく。本来は、おかあさんがご挨拶に来るところなんですけど、実は家でも子供が出来て……」
すると女将は驚き、
「え! お華ちゃんの?」
それには、笑いながら手を振り、
「私じゃ無いの。おかあさんがね」
すると、女将はもっと驚き、
「ええ! お吉さんの?」
お華は、やはりそうなるかと思いながら、
「いえいえ、あのね……」
と、おゆきの件を教えてあげた。
すると女将は、声を上げて笑い、
「あっはは、あの人らしいわね」
と、お腹に手を当て笑っている。そして、
「お吉ちゃんは昔からそうなのよ。捨ててあると、犬でもネコでも、子供でも拾って来ちゃうの。いっつも、その頃のおかあさんに怒られててね~」
お華も、なるほどと、
「そうなんです。まあ、本人楽しそうに世話しているんで、私たちも有り難いと思っています」
すると、女将は、
「やっぱり、厳しいの今?」
お華は苦笑いで手を振り、
「今、芸者なんか、おおぴらにはできゃしませんよ」
「そう~。困った時代になったわね」
「はい。私は兄の手伝いなんかやらされて、何とか食べています」
女将は、大きく頷き、
「あなたは幸せよ。何とかする道が残されているもの、感謝しなきゃだめよ」
などと、言われてしまうお華。
お店も暇の様で、長々と喋り、夕方近く、お華は挨拶してお店を出た。
(2)
喋り過ぎと、品川くんだりまで出てきてしまったものだから、
お華は、一杯飲んで帰ろうと、源助町の横、少し奥まった居酒屋の暖簾を潜った。
やはり、そういうところは芸者だ。怖さを全く感じない。
普通、この頃の女性は、よほど知っている店であれば、飲み屋でも入れるが、一見の店に一人では、そこそこの勇気が必要だ。
だが、お華だから、そんな事、一切気にしない。
「ごめんなさい」
と、一言言って、中に入る。
そこは、両国のすみやの半分以下の広さで、奥で板前らしき年寄りの男が、燗の様子をながめながら、
「いらっしゃい」
の声が、低く飛ぶ。
中は、小上がりが二つ、そして壁側に長椅子が並んでいるだけの店だった。
ただ、この時代には珍しく、対面式カウンターがある。
まだ刻限が早いからか、客も奥の、そのカウンターの席に一人の侍だけだった。
「ごめんなさいね」
と軽く、その侍に言葉をかけ、長椅子に座り、お酒でも頼もうと調理場に顔を向けると、その侍もお華の方に顔を向けた。
そして、その男の顔を見た、お華は、眉と両目が嘗て無いほど広がった。
慌てて立ち上がり、二三歩その男に近づく、すると、その男は、気楽な様子で、
「おう、お華、珍しいところで会うな」
と笑っている。
とっさに声が出なかったお華だったが、大きく息を吸い、
「な、何故、この様な所に?」
声が震えている。
そう、それは遠山左衛門尉だった。
「ん? わしはこういう所で飲むのが好きなんじゃ」
などと、気楽に笑いながら答える。
しかし、お華にはそれどころではない。何しろ、先の北町奉行。そして今は旗本最高位と言っても良い、大目付の殿様が、町場の小さな飲み屋で一人きり飲んでいるのだ。
お華ではなくても、驚く。
「お、大」
と言った時、遠山は口に指を置く。「それは言うな」という事だ。
止められた、お華は首を大きく捻り、
「と、殿様? あの、あちらの小上がりに移りましょう」
「ん、あっちが良いか?」
良いに決まっている。
飲み屋の親父が、
「あれ、こちらのお殿様は、お嬢さんのいい人かい?」
と、調理場から声をかけると、お華は眉を寄せ、
「そんな事言ったら、あたしゃ生きていけないよ!」
苦笑しながら小さく言うと、まるで引っ張るように、小上がりに遠山を連れてった。
改めて、但し小声で、
「大目付様、お一人でいらっしゃったのですか?」
お華が言うと、
「おお、最近屋敷が変わったからな、城の帰りにここ見つけて、来てみようとな」
嬉しそうに話す。
「あ、そうでしたね。本所から変わられたのは存じておりますが、お、いや、殿様、屋敷移られて、早速、飲み屋探しですか……」
遠山は笑って、
「おけいと同じ事言いやがる」
と、頭に手を当て、
「役目が変わると、えらい暇でな。こりゃいいってなとこさ」
全く、とお華は項垂れると、そこに親父が酒を一本持ってきた。
すると、お華の顔が、例の小悪魔の様な顔に変わった。
「親父さん、もう四、五本持ってきて、お代はこちらのお殿様が払うからね」
遠山は、少々驚き、
「おいおい、大丈夫か?」
と言うのだが、お華は、
「それより、お殿様は大丈夫なのですか? お迎えは?」
「あ~、あとで加藤が来るよ」
お華は本当に安堵し、
「それは良かった。小さい座敷で申し訳ありませんが、それなら、ここは私、お華太夫がお相手致します」
などと言うもんだから、遠山も、
「おうおう、それは良いな。今日は護衛と、芸者付きじゃ」
と大笑いだ。
すると、遠山は、
「先日、参拝では、世話掛けたな」
お華は手を振り、
「世話なんて。それより、あれで良かったのでしょうか?」
遠山は大きく頷き、
「いや、あとで局様から礼状頂いてな。喜んで頂いている様じゃ」
「それは良かった。あの折は、本当に人が多くて、間違いがあっちゃいけないと苦労しました」
すると、遠山は笑いながら、
「子供の世話が大変だったか?」
お華も恥ずかしそうに、
「姉の小太刀は基本、低いところで抜く事が多いものですから、どうしても私の方に寄せておかねば危険にございます」
遠山は、猪口で飲みながら、頷く、
お華は笑い、
「私の方にいれば、危険はありませんし、折角のご参拝を血で汚さぬよう考えますと、どうしても子供の相手を……」
彼女も猪口を呷る。
「うん。局様も、それがありがたいと書かれておられた。だから、褒美に飴か!」
これには遠山も大笑いする。
お華も苦笑し、
「兄上には、子供の使いか? とからかわれてしまうし、本心どんなものなのでしょう?」
「髪の毛と帯を吹っ飛ばしたんじゃ、わしには感心な事じゃが、よく考えれば、単に元結いと帯を斬っただけじゃからの。飴で充分じゃと言う事じゃ」
遠山の言葉に、お華も頷き、
「そうでございますね。よくよく考えればそれだけですから」
と、大笑いした。
「まあ、飴は洒落ってことさ。それより、そんな洒落引き出すなんぞ、それはそれでご好意を持たれているという事じゃ。今後、楽になる」
「はい。お局様には、また頼むと言われました。そういうことなんですね」
遠山は頷き、
「そういうことじゃ」
そんな笑顔の中、しばらく、飲んでいると、遠山が些か小声で、
「今、どうじゃ、奉行所は」
お華は、如何にも面倒くさそうに、
「今は、あれですよ、田舎から出てきた者を、田舎にまた戻れって言い回ってますよ」
「あ~あれか。あれは難しいじゃろう」
お華は手を振り、
「一人でふらふら江戸に来た者なら、まだしも、家族で出てきている者達にその様な事言ったって、言うこと聞くわけありません。私だってそうだろうなと思ってしまいますもの」
それは、人返しの法についての話である。
農村の労働力確保と、江戸の貧民増大を防ぐ目的で出されたものである。
因みに、この法令は、前回の寛政の改革でも「旧里帰農令」というものが出されている。目的も同じである。
ただ、強制力もなく、また費用の交付も無かったので失敗とされている。
「人返しの法」は、人別帳の管理を厳しくし、安易に江戸に住む事を禁止し、戻る者には、なにがしかの金銭支給もあったが、低すぎる金額では、また田畑をやろうとする気になる筈も無い。
当然、こちらも効果が無く、失敗に終わった。
「まあ、仕方あるまいの」
「はい。このご時世にもかかわらず、お江戸に居る方が、自分も子供も幸せだなんて言われてしまうと、私には何も言えなくなってしまいます」
「そうじゃな、致し方あるまい」
すると、お華は思い出した様に、
「殿様? 先程お暇になられたと仰ってましたが、我が家の近所の話では、却って忙しくなられるんじゃないかとの話でしたが、どうなんでございます?」
遠山は笑って、眉を寄せ、
「ああ、伊達様か?」
「はい」
遠山は頷いて、
「そうかも知れんな。わしもちょっと心配してるのじゃ」
「そうなんですか。でも私がお手先のままで、何かやることがあるのでしょうか?」
それには、遠山も大笑いして、
「さすがに、お華に頼む様な事はないよ。せいぜい、けいの話し相手と、わしが飲み屋に行くときの護衛じゃ」
それにはお華も大笑いして、
「そういう事なら、私にもありがたいことですけど」
などと、言っていると、暖簾を潜って、侍が一人入って来た。
「殿!」
加藤である。
奉行所勤務が終わった加藤は、今は大目付の与力をしているが、やっていることは何も変わらない。
入って来た加藤は、振り向き、
「これは加藤のお殿様」
の声に驚いた。
「な、なんじゃお華。なんでおるんじゃ?」
それにはお華が苦笑し、
「私が言いたいですよ。ちょっと飲みに入ったら、こちらのお殿様ですもの。そりゃ驚きましたよ」
お華の隣に腰掛けた加藤は、
「そりゃそうだろうな。なんだ、それじゃ私が来る必要ありませんでしたね殿」
遠山も大きく頷き、
「大奥公認の用心棒じゃ。これ以上の酒の相手はないわ」
笑って手を叩いた。そして、
「お華。屋敷に寄ってけ。おけいも喜ぶじゃろ」
するとお華は、満面笑みで嬉しそうに、
「本当ですか、うれしゅうございます」
三人は、座敷を立った。
加藤が支払いをし、遠山とお華並んで外に出た。もう殆ど夜になっていた。
正面には、こんもりと先の日比谷稲荷の木々が、黒い影として見える。
その時だった。
遠山の目が大きく見開く。
間髪入れず、微かに音を立て、何かが飛んできた。
さすが、一刀流の剣客でもある遠山。
とっさに抜き放ち、それを見事に叩き斬った。弓矢であった。
が、それより、遠山は刀と抜いたと同時に、自分の頬に、一筋の風が通り抜けたのに、少々、えた。
そう、お華が既に、右腕を高々と上げていたのだ。
「まさか……」
明らかに自分を狙った弓矢だったが、それをとっさに見極め、しかも反撃している。
後ろで見ていた加藤も驚愕している。
「加藤! あの林じゃ、ちょっと見てこい」
と、指差す遠山に命じられた加藤は、慌てて走って行く。
すると、遠山は、横のお華に、
「よ、よく分かったな」
と言われたお華だが、一瞬の集中が解けたからか、酔っ払い気味で、
「あ……、音がしましたから。弓は前に聞いたことあるし」
などと言って、
「殿も剣がお強いんですね~」
などと、笑いながら言うお華に、遠山はガックリしながら、刀を収めた。
すると、加藤が、やって来た。
「殿、曲者は簪、顔に受けて、ひっくり返っております。如何なさいますか」
(やはり、当たっていたのか……しかも顔に)
遠山は感心しながら、
「よい。放っとけ。関わると面倒じゃ」
「はい」
加藤は返事をしたが、お華がすまなそうに、
「すみません、加藤の殿様。簪は抜いておいて頂けますか。お金かかっちゃうんで」
などと、言うから、二人は大笑いだ。
「よしよし」
と、加藤はまた駆け出して行った。
さて、遠山の屋敷に三人で戻ると、おけいが目を丸くして驚く。
「お華ちゃんじゃないの」
遠山は、苦笑いで、
「おけい。こいつをよろしく頼む。寝かせてやってくれ。あと浩太郎の所に誰か知らせてやってくれ」
と言いながら、遠山は肩を回しながら、自分の寝所に向かう。
おけいは、加藤から詳しい事を聞き、大笑いだ。
「全く、困ったものねぇ」
と、自らお華に肩を貸し、寝所に連れて行った。
(3)
さて、翌日。
使いを貰った浩太郎は、とりあえず奉行所に顔を出しただけで、すぐに新橋方面へ向かった。
当然ながら、謝りに行くためである。
そりゃそうだ。同心の妹が、酔っ払って、大目付の屋敷で寝込むなど前代未聞である。
浩太郎が、大目付の屋敷に着いたのは、八半過ぎ。今で言う11時頃だ。
屋敷の敷地内に入ると先客がいた。
おけいが、応対している。
それが帰ったのを見送って、浩太郎は、けいの前に滑り込み、
「奥方様! 昨夜はお華が大変なご無礼、誠に申し訳ございません」
と玄関前で、深々と平伏した。
すると、おけいは、「ほほ」と大笑いし、
「これは、浩太郎さんではないの。やはりいらしたのね」
と、腹を抱え笑っている。
「誠にもって、大目付様には大変なご無礼、直ちに連れ帰り……」
が、浩太郎の言葉を途中で止め、
「お華ちゃんはもう逃げたわよ。あなたに叱られるって」
さらに、おけいは笑った。
「う……。あいつめ!」
と浩太郎は、自分の桃に拳を叩き付け、悔しがる。
しかし、おけいが、
「浩太郎さん。お華ちゃんを怒っちゃ駄目よ」
と笑いながら言うので、浩太郎は、
「へ?」
とした顔で、おけいの顔を見詰める。
「あのね……」
おけいは昨夜の出来事を語った。
「まあ、たまたまみたいよ。でもね、店を出た途端、弓矢で襲われたんだって」
それには浩太郎も驚愕した。
「弓ですか!」
「ええ。まあ、旦那様が刀で打ち落としたみたいだけど、もの凄い早さで、お華ちゃんが簪を打ったみたいよ」
「へ~」
と、浩太郎は意外な話に、目をぱちくりする。
すると横の方から、加藤が出てきた。
「おお! 浩太郎」
浩太郎は、直ぐ、
「これは加藤様。お華が大変申し訳ありません」
と、再び平伏するが、加藤は、おけいの横の方に座り、笑いながら、
「奥様の仰るとおりじゃ。お華のお陰で助かったわ」
すると、おけいは思い出した様に、
「旦那様は、お華ちゃんに、殿も、剣がお出来になるですね。なんて笑って言ったそうよ」
また、おけいは大笑いするが、浩太郎は凍り付いた。
「これは、誠に持って無礼なことを……あいつめ~」
顔を横に向け、怒りの顔になる。
しかし、加藤も笑い。
「さすがに殿は、わしゃもう刀を捨てる。って仰っていたよ」
「もう何とお詫び申し上げればよろしいのか。誠に申し訳ございません」
しかし、おけいは、手を振り、
「いいのよ。それぐらい。旦那様も、いい加減お年だしね。お華ちゃんに言われれば、文句言えないわよ」
浩太郎は、苦笑する。
そして、加藤に、
「しかし、まだ、殿を狙ってなど、しているのですね。相変わらずしつこうございますな」
少々憤然と言った。
加藤も頷き、
「ありゃ、病気じゃ」
すると、浩太郎は顔を上げ、
「あの、先程のお客様は、お大名の家臣の方にお見受けしましたが、何かあったので?」
加藤は大きく頷き、
「ああ、奉行所にはまだ話はいってないのか。あのな、本日朝一番で、新たなお沙汰が下ったのじゃ」
「お沙汰にございますか」
「うん。例の上地令じゃ」
「え? やはり出されたのですか?」
「そうじゃ、江戸一円、十里四方の領地をお上にお返しするということでな」
「では、もう、大目付様にご相談に来ているのですか?」
「そうじゃ。使いがあったのじゃろう。殿様はまだ城におるというのにな」
加藤は、呆れて笑う。
「しかし、あれは、いずれのお家にも死活問題と聞きます。それでは本日は……」「その通り、大忙しになるだろう」
と、おけいに軽く頭を下げる。
すると、浩太郎は、
「それは一大事。さっそくお華をとっ捕まえて、こちらのお手伝いによこします」早速、立ち上がるが、おけいは手を振って、
「いいのよ、お華ちゃんまで」
と、優しく言うのだが、
「いえいえ、あの馬鹿にはそれぐらい当然にございます。直ちに手配致します」
と、大玄関に向かってしまった。
残った二人は、大笑いだ。
それから浩太郎は、新橋あたりを奉行所に引き返している途中、前方で歩く、見覚えのある二人を見つけた。
浩太郎は、大きく手を振り、
「優斎先生!」
と駆け寄る。
「旦那様!」
「これは、浩太郎さん。おや? このような所になにゆえ?」
浩太郎は、微かに笑い、
「遠山様に、お華の件で、お詫びに参ったのじゃ」
優斎よりも、おみよが先に、
「え? お華姉さん? 昨日はその様な事は」
話は無かったと言う顔で、言うと、
「あ、はは、そなたには黙っていたのじゃ。あまりに情けない事しでかしたんでな」
優斎が、首を捻り、
「何したのです?」
浩太郎は、眉を寄せ、
「酒飲んで、酔っ払い、大目付様のお屋敷で行き倒れじゃ」
それには、さすがに二人も驚愕した。
「なんと!」
と、声を上げる優斎に、浩太郎は奥方からお聞きした一連の話をした。
それには、優斎も手を叩き喜び、
「なんだ。それはご立派な事ではありませんか。相変わらず大したものですな」
おみよも、若干安心したのか、微笑んでいる。
すると、浩太郎は優斎に、
「それより、今日はなんだい? 伊達様に往診しに行かれたのでは?」
優斎は頷き、
「ええ、本来はその予定だったのですが、緊急な事態になりまして、挨拶しただけで、早々に、引き取ってきたのですよ。浩太郎様、お聞きですか? 新しいお触れが出たの」
浩太郎は、両目を見開き、
「おお、それじゃ、それじゃ。今、お屋敷の加藤様にお聞きしたところじゃ。しかし、あれは関東の話、伊達様に何か不都合があるのかい?」
頷いた優斎は、海の方を指差し、
「実は、伊達も、常陸に飛び地がありましてな。一万石ほどでございます。やはりそれはそれで、問題でございます」
「なるほど。確かに、お触れでは、房州一体から江戸城を中心に鎌倉あたりまで、一体というお話だからの」
「そうなんですよ。まさかやるとは思いませんでしたが、困ったもんです」
浩太郎は笑い、
「おみよもせっかく行ったのに、三味線弾けなくて、残念な事じゃの」
お美代は、手を振り、
「いえいえ、わたくしなんぞ。ただ、お嬢様のお具合に触らなければ良いと思っております」
と歩きながら、頭を下げる。
そんな話をしながら、三人は、現代で言う、銀座四丁目の交差点を、京橋方面にまっすぐ歩いて行く。
(4)
話題沸騰のお触れ、上地令だが、筆頭老中水野忠邦、天保の改革、最重要の案件である。
これにて、彼にしてみれば、改革の完成と言っても良い。
そしてその、完成直前の江戸城である。
当然ながら、混乱の坩堝と化している。
城中で、大騒ぎなのは、旗本の連中だ。
当然である。
結局、収入の問題であるから、家の先行きに不安を感じてしまう。
但し、これは知行地を持っている家に限られる。
低家禄の者は、今後、蔵前取りに変更され、なお十両の金子を与えられる。
これは、一つの反乱対策と言える。
しかし、その程度で抑えきれるものなのかには疑問が残る。
この上地令の目的は、
1、逼迫する幕府財政の補強。
つまり、取れ高の良い田畑を幕府直轄にして、財政の助けにする。
2、幕僚と大名など私領の年貢収入の平均化。
3、最後は、上地した土地を、緊迫化した外交問題に備えるための基地や、移動 の簡略化が、目的とされている。
以上である。
提案者の水野は既に、幕府から頂戴した土地を率先して、上げ地している
とはいえ、一般の旗本達にはその様な事、考えている場合では無い。
明日からの米の問題である。
さて、それらは城中であるから、上司や、シーシーと坊主が声を上げながら、城中を見廻る老中一行が来るとピタっと静かに平伏する。
通り過ぎた途端、三、四人集まって、上地令についてあれやこれやと話し合う。
その様子を、南町奉行の妖怪は、奉行の控え部屋に一人座り、満足そうにしている。
これで、改革が完成に近づくからだ。
これにて、軍政、財政、文化など一連の障害に片が付く。
そして、ご本人仇敵とも感じている西洋文化に、対抗できる体勢が構築出来ると思い込んでいるのだ。
「ふふ、こうでなければいかん」
矢部定謙や高島秋帆など、無理矢理に罪を被せ、牢に放り込んできた彼だ。
ある意味当然だろう。
さて、大騒ぎだった城を下がり、遠山は新橋の屋敷に戻った。
すると、妻のおけいと一緒に、お華が、
「お戻りなさいませ」
と、平伏している。
遠山は驚き、
「なんじゃ? お華。戻ったんじゃないのか?」
と、些か笑いながら尋ねると、お華は少し、肩を落とし、
「兄に、奥様のお手伝いをせよと捕まってしまいまして……」
「はは、なるほど、浩太郎がの」
と、加藤を引き連れ、屋敷に入っていった。
そして、裃を着替え、居間の自分の位置に座る。
「どうじゃった?」
と、おけいに聞くと、おけいは笑って、
「驚くほどのお客様でしたが、それほどの事はございません。いえね。何より、お華ちゃんが、後ろからああだこうだ言うものですから、おかしくなってしまいまして……」
と、来客一覧表のようなものを遠山に渡しながら、身体を前に折って、クスクスと笑う。
遠山は不思議な顔で、
「なんじゃ? なにが可笑しいんじゃ?」
すると加藤が、
「お華は、やって来たお留守居や、用人を一人一人、品定めしていたのですよ」
「なんじゃと?」
お華は仕方無く、若干前によって、
「あの~殿様。今回の事でお家の危機ということで、皆さん奥様にお願いなさっていらっしゃるのですが、私は深川の芸者。しかも先頭立ってやってましたので、どこどこのお留守居とか、用人と聞くとピンとくるのですよ」
遠山は、面白がって、
「ああ、なるほど。普段が分かるって事か」
「ええ、あるお留守居は、酔っ払うと「わしは紀伊國屋じゃ」なんて言って、みんなご祝儀じゃとか言って、小判を座敷にばらまくようなお人もいましてね。今になってお家が危ないなんて。今さらなんだと、いちいち、奥様に、言いつけていたのです」
これには、さすがみんな大爆笑だ。
「まあ、あのお触れもどうかと思いますが、一概に……」
というお華に、遠山は大きく頷いて、
「たしかに、この屋敷にお華太夫さんがいるとは、思わないだろうしな。うんうん、言う通り、迂闊にどっちが悪いとは言えないな」
すると加藤が、
「思い知ったのではありませんか。うっかり出来ないことを」
そんな談笑をしていると、若い女中が廊下にやって来て、
「お話中申し訳ありません。伊達様、お留守居役の方が是非と、玄関先においででございますが、いかがしましょう」
と、奥方に告げた。
「殿様、いかがします?」
すると遠山は、
「おお、伊達様か。お華にも縁があるだろう? お会いせずは参るまい。屋敷もお隣だしな。よし、お華はそのままそこに座ってお待ちせよ」
「はい」
ということで、おけいと加藤が、応対に出た。
その留守居は、居間に、足音も立てず、礼儀正しく遠山の前に出た。
「さっそく、お会い頂き、誠にありがとう存じます。私、伊達家留守居役、
白井庄左衛門と申します、本来なら、我が家の江戸家老が、ご昇進のお祝いなど申し上げるところでございますが、お恥ずかしいことに、我が家中、少々、混乱しておりまして、遠山様なら、私が良いだろうと参りました。誠に勝手ながら、ご納得頂けると有り難く存じます」
丁寧に、さすが留守居らしいというセリフを述べて挨拶する。
いかにも実直そうな、年配の武士である。
おけいが、茶を運んでくる。
すると、加藤が、
「ご昇進お祝いと言うことで、頂き物もございます」
と、口を添える。
遠山は、
「これはこれは、ご丁寧なご挨拶痛み入りまする。今後ともよろしくお願い申し上げまする」
深く、挨拶を返す。
そして、
「伊達様のお留守居役が、わざわざのお越しとは、やはり本日の政令の件でございますかな?」
「はっ。お祝い言上に併せて、いきなりこの様なお話はしたくないのですが、わが家中も大騒ぎになっておりまして。どうかお許し下さいますようお願い申し上げます」
「それはお察し申し上げますが、私もまだ大目付になったばかりなのでね。お力になれるかどうか微妙ですが、では、伊達様も江戸近辺に飛び地をお持ちで?」
「はい。実は、常陸に一万石ほどございます、こちらは、権現様より拝領の土地。いかがしたらよろしいかと存じまして……」
「左様にございますか。ただあれですな、例の喧嘩は、早く終わっといて良かったですな」
と、思っていなかった事を言われ、白井は額に手を当て、
「ああ、やはりご存じで。さらに大騒ぎになるところにございました。本当に良かったと存じております」
「あれには、そうとう大変な思いをされたとか」
白井は、遠山の話しやすさに安心したのだろう。緊張が解けた様子で、笑いながら、
「ええ。あらゆるところに手を回し、大事にならぬよう、些か大変にございました。今ですから申しますが、あの当時、遠山様ご配下の同心の方までお頼みした次第にございます」
それには、さすがに後ろでお華が、笑顔になる
「ああ、あれは確か、御家中の優斎という医者の繋がりでしたな」
「え? その様な事までご存じで。左様にございます、幕臣の皆様方がどう思われているのか、少々気になりまして」
「それで、同心の桜田に頼んだと。そして姉小路様ですか」
さすがにその名前に、白井は驚愕し、
「ひぇ~、そこまでご存じなのですか。いやさすがに北町の名奉行といわれるお方。驚きました」
すると、遠山は、お華を指差して、
「あれを使ってでございましょう」
白井は後ろを振り向く、平伏しているお華を見ても覚えが無い。いや、そもそもなぜ、この様な女が後ろに控えているのかが、そもそもの疑問ではあった。
「い、いえ、あ、あの」
と言葉に詰まっていると、お華が笑顔で、
「始めてお目に掛かります、お留守居様。私が、深川のお華太夫こと、桜田のお華にございます」
と、述べて、再び深く平伏した。
白井は、もう、いきなり座っている身体を横にずらし、お華に平伏してしまう。
さすがに遠山が、
「白井殿、ただの同心の妹にござる。そうそうお気を遣わぬでも……」
と笑いながら声をかける。
するとお華が、
「私も、後から優斎先生から聞いた話ですが、折角のお話。お断りしてしまって誠に申し訳ありませんでした」
白井は、手を振りながら、
「いやいや、いきなりこちら勝手にお願いした事でござる。こちらの方こそお詫びせねばなりません」
と、こちらも深く平伏する。
するとお華は、いつもの調子で、
「私も、姉小路様を知ってるとはいっても、お世話になっているばかりですし、先日など、参拝の護衛をして差し上げたのですが、褒美じゃと飴をくれる位の間ですし、伊達様の件などお願いしたら、返って悪い結果になったかもしれません。今回の件はどうか、ご容赦下さいませ」
「いえいえ、どうも驚きました。まさか本日お会い出来るとは。どうか今後とも、ご協力頂ければありがたく存じまする」
するとお華は、
「いま、お屋敷に、ご当主様の妹様のところに私の妹芸者が通っております。ありがたい事に、喜んで頂いているとの事。こちらこそ、使って頂いてありがとうございます」
「あ~、あの方が。ま、全く知りませんでした。こちらが既にお世話になっているとは、誠に申し訳ございません」
と、また平伏する。
すると遠山が笑って、
「まあまあ、私も、あの桜田が、伊達様と良いお付き合いをしているので安心しています。大目付にはなりましたが、今後ともよろしくお願い申す」
遠山は、奉行所の同心が大名に出入りして、羽織を貰うような関係は、あまり賛成ではなかったが、そういう事に拘らぬ、浩太郎を認めていたのだろう。
「さて、土地の件でございますがな」
と、遠山が、話を戻した。
「先程の喧嘩も、ご老中自ら、詫びを入れたのは誠にございますか?」
白井も二、三回頷き、
「それにございます。まあ、あれはそれで片が付き、良かったのですが、何か理由があるのではと……」
遠山は頷き、
「お華が行かなくて良かったな。使うなら、やはりこの件です。この女、なんと上様にも声が届く者。もったいのうございます」
「いや~誠に。では遠山様は、やはり、これでは終わらぬと」
すると遠山は笑い、
「そこもとも、そう思われて、私の方に参られたのでしょう」
白井は頭に手をやり、
「いやいや、さすがお見通しにございますな。問題はそこなのでございます」
「伊達様は、上方にはどの程度お持ちでしたか」
「はい。近江の方に一万石ほど」
遠山は頷き、
「それは多い。やはりそちらの行く末が大事ですな」
するとお華が、話に入って来て、
「殿様? 江戸のお話ではないのですか?」
「そうじゃ。江戸の今回のご命令は、実は本質ではない。狙いは上方なのじゃ」
お華は驚き、
「なんと。また何か狙っているんですか?」
それには、遠山も白井も笑い。遠山が、
「その通りじゃ。江戸の事は大した事ではない。たとえ、家中の台所が苦しくてもそれなりの手当をすればよい。例えば、最悪、徳政令でも出せば済む。しかし上方はそうはいかん。のう、白井殿」
「はい。大名の場合は、それでは済みません。領民との関係も大きな問題」
「そう、数年前の三方領地替えも、それで潰れてしまったからの」
三方領地替えとは、
天保11年、当時の将軍、徳川家斉が、我が子、斉省が養子に行った川越藩に、実高が多く、裕福と言われた庄内藩を狙って仕掛けたものである。
当時、担当の老中であった水野忠邦は、将来望む、上地令によいモデルケースとして、熱心に取り組んだ。
ところが、庄内藩の住人達は、
「百姓もたりといえども二君に仕えず」を合い言葉に、大々的な反対運動を起こした(天保義民事件)。
その勢いは、幕閣上層部に大きな影響を与えた。
「罪も無いのに、殿様とお別れしたくない」という言い方は、特に大奥などに影響を与え、ついに12代将軍となった、徳川家慶の「天意人望」に従うとして、沙汰止みとなった事件である。
三方領地替えは、幾つもあるのだが、領民が中止に追い込んだという、珍しい結果を呼んだ。
しかし、水野はに分かっていた。
領民達の反対は、領主に対する忠義などではなく、借金や、年貢の先取りなど、負債を残したまま移動されては、村は立ち行かなくなり大変な事になってしまう。
新領主が、精算してくれる事など、決してないからだ。
結局、人情に負けてしまった。
実は、水野。上地令には、当初乗り気で無かったとも言われている。
この失敗が、影響していたのかもしれない。
しかし、やはり、当初の信念を曲げる事は出来ず、とうとう、発令してしまったのだ。
すでに落ち着いた様子の白井が、お茶を飲みながら、
「私どもは、関ヶ原の合戦の折、権現様より、五千石の領地を頂戴しております。あとの五千石は、関白豊臣秀吉様から頂戴したものなのです」
お華は、その名前には驚き、
「た、太閤様にございますか~」
遠山が頷きながら、お華に、
「おう、お華よく知ってたな。そうじゃ。あと、前田様や島津様もおる。前田様は織田信長様から。そして島津様など、なんと源平の頃からじゃ。残念ながらそう簡単にはいかぬ。しかもみな藩札なども発行しておられる。これらを考えると、必ず、一騒動ある」
「へ~」
とお華は、もの凄くスタンスの長い話を始めて聞いて、心の底から驚いている。すると、留守居の白井が、
「実は、大坂には、老中土井様。伊勢には、御三家の紀伊様の所領もございます」
「そうなのじゃ。迂闊に命令を出すと大変な事になる。それならば、白井殿」
「はっ」
「伊達様は、今回江戸のお話は、しばらく黙っておられる方が良い。賛成も反対もせぬのじゃ。やはり、数日後、上方の様子がハッキリしてからの方が良いと存ずる」
白井も大きく頷き、
「左様にございますな。いや、ご親切にお話をお聞かせ頂き誠にありがとうございます。これにて、方向は決まりました」
しかし、彼は少し笑い、
「ただ、私には何より、お華様にお会いしたのが、一番の驚きにございますよ」
と、遠山と白井は大いに笑った。お華は上目使いで、ニコニコしている。
遠山は、
「では、お近づきの印に、一杯お付き合い下され。丁度、芸者もおりますからな」 それには、三人でまた大笑いとなった。
~つづく~
まず、擾乱は、例の「観能の擾乱」からか?と思って居られる方。
それは正解です(笑)
江戸時代ですから、特に繋がりはありませんが、なんとなく雰囲気が似ているような気がして……。
まあ、勿論あの頃(室町)の様に、軍勢動かして、殺す殺さないまでにはなりませんけどね。
このお華の物語も、佳境に入ってきました。
実は、この「お華の首飾り」は、天保編、安政編、幕末編を考えております。
そのようやく、一つが終わりに近づき、嬉しい限りです。
さて、終わりとは言っても、まだ擾乱の前編。
これからがちょっと大変です。
なるべく史実に併せてやっておりますので、そこら辺併せてお楽しみ頂ければと考えております。
そして、次回は後編。
幕府に大変動が起こります。
ただ、お華が簪を打つような、派手な事にはならない気がします。
どちらかというと、内部のお話なんで。
お華には少々気の毒ですが、中々面白いと思います。
次回もよろしくお願い申し上げます。




