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お華の髪飾り  作者: 本隠坊
23/37

㉑天保の擾乱・前編

(1)


 その日、お華は芝増上寺につづく、大道を、風呂敷に包んだ荷物を抱え、歩いていた。

 朝、お吉のところでおゆきと遊んでいると、お吉に、

「お華ちゃん。悪いんだけど、お使いお願いできないかしら」

 と、増上寺近くで、小間物屋を開いている、お吉の知り合いに、祝いの品と挨拶を頼まれたのだ。

 お吉の昔の芸者仲間で、勿論引退し、良い年の女だが、近頃、孫が生まれた様だ。 本来ならば、お吉本人が挨拶に行きたいところだが、おゆきを連れて行くには、少々遠い。

 そこで、お華と言う訳だ。

 今日は、お手先としての仕事も無いし、お吉がしっかりとした訪問着を用意してくれたので、軽く了承し、天気の良い品川を、如何にも玄人っぽく進んでいく。

 相変わらず、改革のお調べは厳しいが、芸者として歩いていなければ、そう心配することは無い。ましてやお華である。


 さて、東海道の増上寺前で、ちょっと止まって挨拶し、中門前二丁目、今の浜松町二丁目あたりにある目的の小間物屋に到着した。

「あれ~お華ちゃんじゃないの~」

 店に出ていた女将は、笑顔で迎えてくれた。

 お華も以前から知っている女将なので、ニコニコと挨拶と、来訪の目的を話すと、女将は、

「わざわざ、申し訳無いわね。お吉さんはお元気なの?」

 お華は微笑み、

「ええ、変わりなく。本来は、おかあさんがご挨拶に来るところなんですけど、実は家でも子供が出来て……」

 すると女将は驚き、

「え! お華ちゃんの?」

 それには、笑いながら手を振り、

「私じゃ無いの。おかあさんがね」

 すると、女将はもっと驚き、

「ええ! お吉さんの?」

 お華は、やはりそうなるかと思いながら、

「いえいえ、あのね……」

 と、おゆきの件を教えてあげた。

 すると女将は、声を上げて笑い、

「あっはは、あの人らしいわね」

 と、お腹に手を当て笑っている。そして、

「お吉ちゃんは昔からそうなのよ。捨ててあると、犬でもネコでも、子供でも拾って来ちゃうの。いっつも、その頃のおかあさんに怒られててね~」

 お華も、なるほどと、

「そうなんです。まあ、本人楽しそうに世話しているんで、私たちも有り難いと思っています」

 すると、女将は、

「やっぱり、厳しいの今?」

 お華は苦笑いで手を振り、

「今、芸者なんか、おおぴらにはできゃしませんよ」

「そう~。困った時代になったわね」

「はい。私は兄の手伝いなんかやらされて、何とか食べています」

 女将は、大きく頷き、

「あなたは幸せよ。何とかする道が残されているもの、感謝しなきゃだめよ」

 などと、言われてしまうお華。

 お店も暇の様で、長々と喋り、夕方近く、お華は挨拶してお店を出た。


(2)


 喋り過ぎと、品川くんだりまで出てきてしまったものだから、

 お華は、一杯飲んで帰ろうと、源助町の横、少し奥まった居酒屋の暖簾を潜った。

 やはり、そういうところは芸者だ。怖さを全く感じない。

 普通、この頃の女性は、よほど知っている店であれば、飲み屋でも入れるが、一見の店に一人では、そこそこの勇気が必要だ。

 だが、お華だから、そんな事、一切気にしない。

「ごめんなさい」

 と、一言言って、中に入る。

 そこは、両国のすみやの半分以下の広さで、奥で板前らしき年寄りの男が、燗の様子をながめながら、

「いらっしゃい」

 の声が、低く飛ぶ。

 中は、小上がりが二つ、そして壁側に長椅子が並んでいるだけの店だった。

 ただ、この時代には珍しく、対面式カウンターがある。

 まだ刻限が早いからか、客も奥の、そのカウンターの席に一人の侍だけだった。

「ごめんなさいね」

 と軽く、その侍に言葉をかけ、長椅子に座り、お酒でも頼もうと調理場に顔を向けると、その侍もお華の方に顔を向けた。

 そして、その男の顔を見た、お華は、眉と両目が嘗て無いほど広がった。

 慌てて立ち上がり、二三歩その男に近づく、すると、その男は、気楽な様子で、

「おう、お華、珍しいところで会うな」

 と笑っている。

 とっさに声が出なかったお華だったが、大きく息を吸い、

「な、何故、この様な所に?」

 声が震えている。

 そう、それは遠山左衛門尉だった。

「ん? わしはこういう所で飲むのが好きなんじゃ」

 などと、気楽に笑いながら答える。

 しかし、お華にはそれどころではない。何しろ、先の北町奉行。そして今は旗本最高位と言っても良い、大目付の殿様が、町場の小さな飲み屋で一人きり飲んでいるのだ。

 お華ではなくても、驚く。

「お、大」

 と言った時、遠山は口に指を置く。「それは言うな」という事だ。

 止められた、お華は首を大きく捻り、

「と、殿様? あの、あちらの小上がりに移りましょう」

「ん、あっちが良いか?」

 良いに決まっている。

 飲み屋の親父が、

「あれ、こちらのお殿様は、お嬢さんのいい人かい?」

 と、調理場から声をかけると、お華は眉を寄せ、

「そんな事言ったら、あたしゃ生きていけないよ!」

 苦笑しながら小さく言うと、まるで引っ張るように、小上がりに遠山を連れてった。

 改めて、但し小声で、

「大目付様、お一人でいらっしゃったのですか?」

 お華が言うと、

「おお、最近屋敷が変わったからな、城の帰りにここ見つけて、来てみようとな」

 嬉しそうに話す。

「あ、そうでしたね。本所から変わられたのは存じておりますが、お、いや、殿様、屋敷移られて、早速、飲み屋探しですか……」

 遠山は笑って、

「おけいと同じ事言いやがる」

 と、頭に手を当て、

「役目が変わると、えらい暇でな。こりゃいいってなとこさ」

 全く、とお華は項垂れると、そこに親父が酒を一本持ってきた。

 すると、お華の顔が、例の小悪魔の様な顔に変わった。

「親父さん、もう四、五本持ってきて、お代はこちらのお殿様が払うからね」

 遠山は、少々驚き、

「おいおい、大丈夫か?」

 と言うのだが、お華は、

「それより、お殿様は大丈夫なのですか? お迎えは?」

「あ~、あとで加藤が来るよ」

 お華は本当に安堵し、

「それは良かった。小さい座敷で申し訳ありませんが、それなら、ここは私、お華太夫がお相手致します」

 などと言うもんだから、遠山も、

「おうおう、それは良いな。今日は護衛と、芸者付きじゃ」

 と大笑いだ。

 すると、遠山は、

「先日、参拝では、世話掛けたな」

 お華は手を振り、

「世話なんて。それより、あれで良かったのでしょうか?」

 遠山は大きく頷き、

「いや、あとで局様から礼状頂いてな。喜んで頂いている様じゃ」

「それは良かった。あの折は、本当に人が多くて、間違いがあっちゃいけないと苦労しました」

 すると、遠山は笑いながら、

「子供の世話が大変だったか?」

 お華も恥ずかしそうに、

「姉の小太刀は基本、低いところで抜く事が多いものですから、どうしても私の方に寄せておかねば危険にございます」

 遠山は、猪口で飲みながら、頷く、

 お華は笑い、

「私の方にいれば、危険はありませんし、折角のご参拝を血で汚さぬよう考えますと、どうしても子供の相手を……」

 彼女も猪口を呷る。

「うん。局様も、それがありがたいと書かれておられた。だから、褒美に飴か!」

 これには遠山も大笑いする。

 お華も苦笑し、

「兄上には、子供の使いか? とからかわれてしまうし、本心どんなものなのでしょう?」

「髪の毛と帯を吹っ飛ばしたんじゃ、わしには感心な事じゃが、よく考えれば、単に元結いと帯を斬っただけじゃからの。飴で充分じゃと言う事じゃ」

 遠山の言葉に、お華も頷き、

「そうでございますね。よくよく考えればそれだけですから」

と、大笑いした。

「まあ、飴は洒落ってことさ。それより、そんな洒落引き出すなんぞ、それはそれでご好意を持たれているという事じゃ。今後、楽になる」

「はい。お局様には、また頼むと言われました。そういうことなんですね」

 遠山は頷き、

「そういうことじゃ」


 そんな笑顔の中、しばらく、飲んでいると、遠山が些か小声で、

「今、どうじゃ、奉行所は」

 お華は、如何にも面倒くさそうに、

「今は、あれですよ、田舎から出てきた者を、田舎にまた戻れって言い回ってますよ」

「あ~あれか。あれは難しいじゃろう」

 お華は手を振り、

「一人でふらふら江戸に来た者なら、まだしも、家族で出てきている者達にその様な事言ったって、言うこと聞くわけありません。私だってそうだろうなと思ってしまいますもの」

 それは、人返しの法についての話である。

 農村の労働力確保と、江戸の貧民増大を防ぐ目的で出されたものである。

 因みに、この法令は、前回の寛政の改革でも「旧里帰農令」というものが出されている。目的も同じである。

 ただ、強制力もなく、また費用の交付も無かったので失敗とされている。

「人返しの法」は、人別帳の管理を厳しくし、安易に江戸に住む事を禁止し、戻る者には、なにがしかの金銭支給もあったが、低すぎる金額では、また田畑をやろうとする気になる筈も無い。

 当然、こちらも効果が無く、失敗に終わった。


「まあ、仕方あるまいの」

「はい。このご時世にもかかわらず、お江戸に居る方が、自分も子供も幸せだなんて言われてしまうと、私には何も言えなくなってしまいます」

「そうじゃな、致し方あるまい」

 すると、お華は思い出した様に、

「殿様? 先程お暇になられたと仰ってましたが、我が家の近所の話では、却って忙しくなられるんじゃないかとの話でしたが、どうなんでございます?」

 遠山は笑って、眉を寄せ、

「ああ、伊達様か?」

「はい」

 遠山は頷いて、

「そうかも知れんな。わしもちょっと心配してるのじゃ」

「そうなんですか。でも私がお手先のままで、何かやることがあるのでしょうか?」

 それには、遠山も大笑いして、

「さすがに、お華に頼む様な事はないよ。せいぜい、けいの話し相手と、わしが飲み屋に行くときの護衛じゃ」

 それにはお華も大笑いして、

「そういう事なら、私にもありがたいことですけど」

 などと、言っていると、暖簾を潜って、侍が一人入って来た。

「殿!」

 加藤である。

 奉行所勤務が終わった加藤は、今は大目付の与力をしているが、やっていることは何も変わらない。

 入って来た加藤は、振り向き、

「これは加藤のお殿様」

 の声に驚いた。

「な、なんじゃお華。なんでおるんじゃ?」

 それにはお華が苦笑し、

「私が言いたいですよ。ちょっと飲みに入ったら、こちらのお殿様ですもの。そりゃ驚きましたよ」

 お華の隣に腰掛けた加藤は、

「そりゃそうだろうな。なんだ、それじゃ私が来る必要ありませんでしたね殿」

 遠山も大きく頷き、

「大奥公認の用心棒じゃ。これ以上の酒の相手はないわ」

 笑って手を叩いた。そして、

「お華。屋敷に寄ってけ。おけいも喜ぶじゃろ」

 するとお華は、満面笑みで嬉しそうに、

「本当ですか、うれしゅうございます」

 三人は、座敷を立った。

 加藤が支払いをし、遠山とお華並んで外に出た。もう殆ど夜になっていた。

 正面には、こんもりと先の日比谷稲荷の木々が、黒い影として見える。

 その時だった。


 遠山の目が大きく見開く。

 間髪入れず、微かに音を立て、何かが飛んできた。

 さすが、一刀流の剣客でもある遠山。

 とっさに抜き放ち、それを見事に叩き斬った。弓矢であった。

 が、それより、遠山は刀と抜いたと同時に、自分の頬に、一筋の風が通り抜けたのに、少々、えた。

 そう、お華が既に、右腕を高々と上げていたのだ。

「まさか……」

 明らかに自分を狙った弓矢だったが、それをとっさに見極め、しかも反撃している。

 後ろで見ていた加藤も驚愕している。

「加藤! あの林じゃ、ちょっと見てこい」

 と、指差す遠山に命じられた加藤は、慌てて走って行く。

 すると、遠山は、横のお華に、

「よ、よく分かったな」

 と言われたお華だが、一瞬の集中が解けたからか、酔っ払い気味で、

「あ……、音がしましたから。弓は前に聞いたことあるし」

 などと言って、

「殿も剣がお強いんですね~」

 などと、笑いながら言うお華に、遠山はガックリしながら、刀を収めた。

 すると、加藤が、やって来た。

「殿、曲者は簪、顔に受けて、ひっくり返っております。如何なさいますか」

(やはり、当たっていたのか……しかも顔に)

 遠山は感心しながら、

「よい。放っとけ。関わると面倒じゃ」

「はい」

 加藤は返事をしたが、お華がすまなそうに、

「すみません、加藤の殿様。簪は抜いておいて頂けますか。お金かかっちゃうんで」  

 などと、言うから、二人は大笑いだ。

「よしよし」

 と、加藤はまた駆け出して行った。


 さて、遠山の屋敷に三人で戻ると、おけいが目を丸くして驚く。

「お華ちゃんじゃないの」

 遠山は、苦笑いで、

「おけい。こいつをよろしく頼む。寝かせてやってくれ。あと浩太郎の所に誰か知らせてやってくれ」

 と言いながら、遠山は肩を回しながら、自分の寝所に向かう。

 おけいは、加藤から詳しい事を聞き、大笑いだ。

「全く、困ったものねぇ」

 と、自らお華に肩を貸し、寝所に連れて行った。

 

(3)


 さて、翌日。

 使いを貰った浩太郎は、とりあえず奉行所に顔を出しただけで、すぐに新橋方面へ向かった。

 当然ながら、謝りに行くためである。

 そりゃそうだ。同心の妹が、酔っ払って、大目付の屋敷で寝込むなど前代未聞である。

 浩太郎が、大目付の屋敷に着いたのは、八半過ぎ。今で言う11時頃だ。

 屋敷の敷地内に入ると先客がいた。

 おけいが、応対している。

 それが帰ったのを見送って、浩太郎は、けいの前に滑り込み、

「奥方様! 昨夜はお華が大変なご無礼、誠に申し訳ございません」

 と玄関前で、深々と平伏した。

 すると、おけいは、「ほほ」と大笑いし、

「これは、浩太郎さんではないの。やはりいらしたのね」

 と、腹を抱え笑っている。

「誠にもって、大目付様には大変なご無礼、直ちに連れ帰り……」

 が、浩太郎の言葉を途中で止め、

「お華ちゃんはもう逃げたわよ。あなたに叱られるって」

 さらに、おけいは笑った。

「う……。あいつめ!」

 と浩太郎は、自分の桃に拳を叩き付け、悔しがる。

 しかし、おけいが、

「浩太郎さん。お華ちゃんを怒っちゃ駄目よ」

 と笑いながら言うので、浩太郎は、

「へ?」

 とした顔で、おけいの顔を見詰める。

「あのね……」

 おけいは昨夜の出来事を語った。

「まあ、たまたまみたいよ。でもね、店を出た途端、弓矢で襲われたんだって」

 それには浩太郎も驚愕した。

「弓ですか!」

「ええ。まあ、旦那様が刀で打ち落としたみたいだけど、もの凄い早さで、お華ちゃんが簪を打ったみたいよ」

「へ~」

 と、浩太郎は意外な話に、目をぱちくりする。

 すると横の方から、加藤が出てきた。

「おお! 浩太郎」

 浩太郎は、直ぐ、

「これは加藤様。お華が大変申し訳ありません」

 と、再び平伏するが、加藤は、おけいの横の方に座り、笑いながら、

「奥様の仰るとおりじゃ。お華のお陰で助かったわ」

 すると、おけいは思い出した様に、

「旦那様は、お華ちゃんに、殿も、剣がお出来になるですね。なんて笑って言ったそうよ」

 また、おけいは大笑いするが、浩太郎は凍り付いた。

「これは、誠に持って無礼なことを……あいつめ~」

 顔を横に向け、怒りの顔になる。

 しかし、加藤も笑い。

「さすがに殿は、わしゃもう刀を捨てる。って仰っていたよ」

「もう何とお詫び申し上げればよろしいのか。誠に申し訳ございません」

 しかし、おけいは、手を振り、

「いいのよ。それぐらい。旦那様も、いい加減お年だしね。お華ちゃんに言われれば、文句言えないわよ」

 浩太郎は、苦笑する。

 そして、加藤に、

「しかし、まだ、殿を狙ってなど、しているのですね。相変わらずしつこうございますな」

 少々憤然と言った。

 加藤も頷き、

「ありゃ、病気じゃ」

 すると、浩太郎は顔を上げ、

「あの、先程のお客様は、お大名の家臣の方にお見受けしましたが、何かあったので?」

 加藤は大きく頷き、

「ああ、奉行所にはまだ話はいってないのか。あのな、本日朝一番で、新たなお沙汰が下ったのじゃ」

「お沙汰にございますか」

「うん。例の上地令じゃ」

「え? やはり出されたのですか?」

「そうじゃ、江戸一円、十里四方の領地をお上にお返しするということでな」

「では、もう、大目付様にご相談に来ているのですか?」

「そうじゃ。使いがあったのじゃろう。殿様はまだ城におるというのにな」

 加藤は、呆れて笑う。

「しかし、あれは、いずれのお家にも死活問題と聞きます。それでは本日は……」「その通り、大忙しになるだろう」

 と、おけいに軽く頭を下げる。

 すると、浩太郎は、

「それは一大事。さっそくお華をとっ捕まえて、こちらのお手伝いによこします」早速、立ち上がるが、おけいは手を振って、

「いいのよ、お華ちゃんまで」

と、優しく言うのだが、

「いえいえ、あの馬鹿にはそれぐらい当然にございます。直ちに手配致します」

 と、大玄関に向かってしまった。

 残った二人は、大笑いだ。


 それから浩太郎は、新橋あたりを奉行所に引き返している途中、前方で歩く、見覚えのある二人を見つけた。

 浩太郎は、大きく手を振り、

「優斎先生!」

 と駆け寄る。

「旦那様!」

「これは、浩太郎さん。おや? このような所になにゆえ?」

 浩太郎は、微かに笑い、

「遠山様に、お華の件で、お詫びに参ったのじゃ」

 優斎よりも、おみよが先に、

「え? お華姉さん? 昨日はその様な事は」

 話は無かったと言う顔で、言うと、

「あ、はは、そなたには黙っていたのじゃ。あまりに情けない事しでかしたんでな」

 優斎が、首を捻り、

「何したのです?」

 浩太郎は、眉を寄せ、

「酒飲んで、酔っ払い、大目付様のお屋敷で行き倒れじゃ」

 それには、さすがに二人も驚愕した。

「なんと!」

 と、声を上げる優斎に、浩太郎は奥方からお聞きした一連の話をした。

 それには、優斎も手を叩き喜び、

「なんだ。それはご立派な事ではありませんか。相変わらず大したものですな」

 おみよも、若干安心したのか、微笑んでいる。

 すると、浩太郎は優斎に、

「それより、今日はなんだい? 伊達様に往診しに行かれたのでは?」

 優斎は頷き、

「ええ、本来はその予定だったのですが、緊急な事態になりまして、挨拶しただけで、早々に、引き取ってきたのですよ。浩太郎様、お聞きですか? 新しいお触れが出たの」

 浩太郎は、両目を見開き、

「おお、それじゃ、それじゃ。今、お屋敷の加藤様にお聞きしたところじゃ。しかし、あれは関東の話、伊達様に何か不都合があるのかい?」

 頷いた優斎は、海の方を指差し、

「実は、伊達も、常陸に飛び地がありましてな。一万石ほどでございます。やはりそれはそれで、問題でございます」

「なるほど。確かに、お触れでは、房州一体から江戸城を中心に鎌倉あたりまで、一体というお話だからの」

「そうなんですよ。まさかやるとは思いませんでしたが、困ったもんです」

 浩太郎は笑い、

「おみよもせっかく行ったのに、三味線弾けなくて、残念な事じゃの」

 お美代は、手を振り、

「いえいえ、わたくしなんぞ。ただ、お嬢様のお具合に触らなければ良いと思っております」

 と歩きながら、頭を下げる。

 そんな話をしながら、三人は、現代で言う、銀座四丁目の交差点を、京橋方面にまっすぐ歩いて行く。


(4)

 

 話題沸騰のお触れ、上地令だが、筆頭老中水野忠邦、天保の改革、最重要の案件である。

 これにて、彼にしてみれば、改革の完成と言っても良い。

 そしてその、完成直前の江戸城である。

 当然ながら、混乱の坩堝と化している。

 城中で、大騒ぎなのは、旗本の連中だ。

 当然である。

 結局、収入の問題であるから、家の先行きに不安を感じてしまう。

 但し、これは知行地を持っている家に限られる。

 低家禄の者は、今後、蔵前取りに変更され、なお十両の金子を与えられる。

 これは、一つの反乱対策と言える。

 しかし、その程度で抑えきれるものなのかには疑問が残る。


この上地令の目的は、

 1、逼迫する幕府財政の補強。

   つまり、取れ高の良い田畑を幕府直轄にして、財政の助けにする。

 2、幕僚と大名など私領の年貢収入の平均化。

3、最後は、上地した土地を、緊迫化した外交問題に備えるための基地や、移動   の簡略化が、目的とされている。

以上である。

 提案者の水野は既に、幕府から頂戴した土地を率先して、上げ地している

 

 とはいえ、一般の旗本達にはその様な事、考えている場合では無い。

 明日からの米の問題である。

 さて、それらは城中であるから、上司や、シーシーと坊主が声を上げながら、城中を見廻る老中一行が来るとピタっと静かに平伏する。

 通り過ぎた途端、三、四人集まって、上地令についてあれやこれやと話し合う。

 その様子を、南町奉行の妖怪は、奉行の控え部屋に一人座り、満足そうにしている。

 これで、改革が完成に近づくからだ。

 これにて、軍政、財政、文化など一連の障害に片が付く。

 そして、ご本人仇敵とも感じている西洋文化に、対抗できる体勢が構築出来ると思い込んでいるのだ。

「ふふ、こうでなければいかん」

 矢部定謙や高島秋帆など、無理矢理に罪を被せ、牢に放り込んできた彼だ。

 ある意味当然だろう。


 さて、大騒ぎだった城を下がり、遠山は新橋の屋敷に戻った。

 すると、妻のおけいと一緒に、お華が、

「お戻りなさいませ」

 と、平伏している。

 遠山は驚き、

「なんじゃ? お華。戻ったんじゃないのか?」

 と、些か笑いながら尋ねると、お華は少し、肩を落とし、

「兄に、奥様のお手伝いをせよと捕まってしまいまして……」

「はは、なるほど、浩太郎がの」

 と、加藤を引き連れ、屋敷に入っていった。

 そして、裃を着替え、居間の自分の位置に座る。


「どうじゃった?」

 と、おけいに聞くと、おけいは笑って、

「驚くほどのお客様でしたが、それほどの事はございません。いえね。何より、お華ちゃんが、後ろからああだこうだ言うものですから、おかしくなってしまいまして……」

 と、来客一覧表のようなものを遠山に渡しながら、身体を前に折って、クスクスと笑う。

 遠山は不思議な顔で、

「なんじゃ? なにが可笑しいんじゃ?」

 すると加藤が、

「お華は、やって来たお留守居や、用人を一人一人、品定めしていたのですよ」

「なんじゃと?」

 お華は仕方無く、若干前によって、

「あの~殿様。今回の事でお家の危機ということで、皆さん奥様にお願いなさっていらっしゃるのですが、私は深川の芸者。しかも先頭立ってやってましたので、どこどこのお留守居とか、用人と聞くとピンとくるのですよ」

 遠山は、面白がって、

「ああ、なるほど。普段が分かるって事か」

「ええ、あるお留守居は、酔っ払うと「わしは紀伊國屋じゃ」なんて言って、みんなご祝儀じゃとか言って、小判を座敷にばらまくようなお人もいましてね。今になってお家が危ないなんて。今さらなんだと、いちいち、奥様に、言いつけていたのです」

 これには、さすがみんな大爆笑だ。

「まあ、あのお触れもどうかと思いますが、一概に……」

 というお華に、遠山は大きく頷いて、

「たしかに、この屋敷にお華太夫さんがいるとは、思わないだろうしな。うんうん、言う通り、迂闊にどっちが悪いとは言えないな」

 すると加藤が、

「思い知ったのではありませんか。うっかり出来ないことを」


 そんな談笑をしていると、若い女中が廊下にやって来て、

「お話中申し訳ありません。伊達様、お留守居役の方が是非と、玄関先においででございますが、いかがしましょう」

 と、奥方に告げた。

「殿様、いかがします?」

 すると遠山は、

「おお、伊達様か。お華にも縁があるだろう? お会いせずは参るまい。屋敷もお隣だしな。よし、お華はそのままそこに座ってお待ちせよ」

「はい」

 ということで、おけいと加藤が、応対に出た。

その留守居は、居間に、足音も立てず、礼儀正しく遠山の前に出た。

「さっそく、お会い頂き、誠にありがとう存じます。私、伊達家留守居役、

 白井庄左衛門と申します、本来なら、我が家の江戸家老が、ご昇進のお祝いなど申し上げるところでございますが、お恥ずかしいことに、我が家中、少々、混乱しておりまして、遠山様なら、私が良いだろうと参りました。誠に勝手ながら、ご納得頂けると有り難く存じます」

 丁寧に、さすが留守居らしいというセリフを述べて挨拶する。

 いかにも実直そうな、年配の武士である。

 おけいが、茶を運んでくる。

 すると、加藤が、

「ご昇進お祝いと言うことで、頂き物もございます」

 と、口を添える。

 遠山は、

「これはこれは、ご丁寧なご挨拶痛み入りまする。今後ともよろしくお願い申し上げまする」

 深く、挨拶を返す。

 そして、

「伊達様のお留守居役が、わざわざのお越しとは、やはり本日の政令の件でございますかな?」

「はっ。お祝い言上に併せて、いきなりこの様なお話はしたくないのですが、わが家中も大騒ぎになっておりまして。どうかお許し下さいますようお願い申し上げます」

「それはお察し申し上げますが、私もまだ大目付になったばかりなのでね。お力になれるかどうか微妙ですが、では、伊達様も江戸近辺に飛び地をお持ちで?」

「はい。実は、常陸に一万石ほどございます、こちらは、権現様より拝領の土地。いかがしたらよろしいかと存じまして……」

「左様にございますか。ただあれですな、例の喧嘩は、早く終わっといて良かったですな」

 と、思っていなかった事を言われ、白井は額に手を当て、

「ああ、やはりご存じで。さらに大騒ぎになるところにございました。本当に良かったと存じております」

「あれには、そうとう大変な思いをされたとか」

 白井は、遠山の話しやすさに安心したのだろう。緊張が解けた様子で、笑いながら、

「ええ。あらゆるところに手を回し、大事にならぬよう、些か大変にございました。今ですから申しますが、あの当時、遠山様ご配下の同心の方までお頼みした次第にございます」

 それには、さすがに後ろでお華が、笑顔になる

「ああ、あれは確か、御家中の優斎という医者の繋がりでしたな」

「え? その様な事までご存じで。左様にございます、幕臣の皆様方がどう思われているのか、少々気になりまして」

「それで、同心の桜田に頼んだと。そして姉小路様ですか」

 さすがにその名前に、白井は驚愕し、

「ひぇ~、そこまでご存じなのですか。いやさすがに北町の名奉行といわれるお方。驚きました」

 すると、遠山は、お華を指差して、

「あれを使ってでございましょう」

 白井は後ろを振り向く、平伏しているお華を見ても覚えが無い。いや、そもそもなぜ、この様な女が後ろに控えているのかが、そもそもの疑問ではあった。

「い、いえ、あ、あの」

 と言葉に詰まっていると、お華が笑顔で、

「始めてお目に掛かります、お留守居様。私が、深川のお華太夫こと、桜田のお華にございます」

 と、述べて、再び深く平伏した。

 白井は、もう、いきなり座っている身体を横にずらし、お華に平伏してしまう。

 さすがに遠山が、

「白井殿、ただの同心の妹にござる。そうそうお気を遣わぬでも……」

 と笑いながら声をかける。

 するとお華が、

「私も、後から優斎先生から聞いた話ですが、折角のお話。お断りしてしまって誠に申し訳ありませんでした」

 白井は、手を振りながら、

「いやいや、いきなりこちら勝手にお願いした事でござる。こちらの方こそお詫びせねばなりません」

 と、こちらも深く平伏する。

 するとお華は、いつもの調子で、

「私も、姉小路様を知ってるとはいっても、お世話になっているばかりですし、先日など、参拝の護衛をして差し上げたのですが、褒美じゃと飴をくれる位の間ですし、伊達様の件などお願いしたら、返って悪い結果になったかもしれません。今回の件はどうか、ご容赦下さいませ」

「いえいえ、どうも驚きました。まさか本日お会い出来るとは。どうか今後とも、ご協力頂ければありがたく存じまする」

 するとお華は、

「いま、お屋敷に、ご当主様の妹様のところに私の妹芸者が通っております。ありがたい事に、喜んで頂いているとの事。こちらこそ、使って頂いてありがとうございます」

「あ~、あの方が。ま、全く知りませんでした。こちらが既にお世話になっているとは、誠に申し訳ございません」

 と、また平伏する。

 すると遠山が笑って、

「まあまあ、私も、あの桜田が、伊達様と良いお付き合いをしているので安心しています。大目付にはなりましたが、今後ともよろしくお願い申す」

 遠山は、奉行所の同心が大名に出入りして、羽織を貰うような関係は、あまり賛成ではなかったが、そういう事に拘らぬ、浩太郎を認めていたのだろう。

「さて、土地の件でございますがな」

 と、遠山が、話を戻した。

「先程の喧嘩も、ご老中自ら、詫びを入れたのは誠にございますか?」

 白井も二、三回頷き、

「それにございます。まあ、あれはそれで片が付き、良かったのですが、何か理由があるのではと……」

 遠山は頷き、

「お華が行かなくて良かったな。使うなら、やはりこの件です。この女、なんと上様にも声が届く者。もったいのうございます」

「いや~誠に。では遠山様は、やはり、これでは終わらぬと」

 すると遠山は笑い、

「そこもとも、そう思われて、私の方に参られたのでしょう」

 白井は頭に手をやり、

「いやいや、さすがお見通しにございますな。問題はそこなのでございます」

「伊達様は、上方にはどの程度お持ちでしたか」

「はい。近江の方に一万石ほど」

 遠山は頷き、

「それは多い。やはりそちらの行く末が大事ですな」

 するとお華が、話に入って来て、

「殿様? 江戸のお話ではないのですか?」

「そうじゃ。江戸の今回のご命令は、実は本質ではない。狙いは上方なのじゃ」

 お華は驚き、

「なんと。また何か狙っているんですか?」

 それには、遠山も白井も笑い。遠山が、

「その通りじゃ。江戸の事は大した事ではない。たとえ、家中の台所が苦しくてもそれなりの手当をすればよい。例えば、最悪、徳政令でも出せば済む。しかし上方はそうはいかん。のう、白井殿」

「はい。大名の場合は、それでは済みません。領民との関係も大きな問題」

「そう、数年前の三方領地替えも、それで潰れてしまったからの」


 三方領地替えとは、

 天保11年、当時の将軍、徳川家斉が、我が子、斉省が養子に行った川越藩に、実高が多く、裕福と言われた庄内藩を狙って仕掛けたものである。

 当時、担当の老中であった水野忠邦は、将来望む、上地令によいモデルケースとして、熱心に取り組んだ。

 ところが、庄内藩の住人達は、

「百姓もたりといえども二君に仕えず」を合い言葉に、大々的な反対運動を起こした(天保義民事件)。

 その勢いは、幕閣上層部に大きな影響を与えた。

「罪も無いのに、殿様とお別れしたくない」という言い方は、特に大奥などに影響を与え、ついに12代将軍となった、徳川家慶の「天意人望」に従うとして、沙汰止みとなった事件である。

 三方領地替えは、幾つもあるのだが、領民が中止に追い込んだという、珍しい結果を呼んだ。

 しかし、水野はに分かっていた。

 領民達の反対は、領主に対する忠義などではなく、借金や、年貢の先取りなど、負債を残したまま移動されては、村は立ち行かなくなり大変な事になってしまう。

 新領主が、精算してくれる事など、決してないからだ。

 結局、人情に負けてしまった。

 実は、水野。上地令には、当初乗り気で無かったとも言われている。

 この失敗が、影響していたのかもしれない。

 しかし、やはり、当初の信念を曲げる事は出来ず、とうとう、発令してしまったのだ。

  

すでに落ち着いた様子の白井が、お茶を飲みながら、

「私どもは、関ヶ原の合戦の折、権現様より、五千石の領地を頂戴しております。あとの五千石は、関白豊臣秀吉様から頂戴したものなのです」

 お華は、その名前には驚き、

「た、太閤様にございますか~」

遠山が頷きながら、お華に、

「おう、お華よく知ってたな。そうじゃ。あと、前田様や島津様もおる。前田様は織田信長様から。そして島津様など、なんと源平の頃からじゃ。残念ながらそう簡単にはいかぬ。しかもみな藩札なども発行しておられる。これらを考えると、必ず、一騒動ある」

「へ~」

 とお華は、もの凄くスタンスの長い話を始めて聞いて、心の底から驚いている。すると、留守居の白井が、

「実は、大坂には、老中土井様。伊勢には、御三家の紀伊様の所領もございます」

「そうなのじゃ。迂闊に命令を出すと大変な事になる。それならば、白井殿」

「はっ」

「伊達様は、今回江戸のお話は、しばらく黙っておられる方が良い。賛成も反対もせぬのじゃ。やはり、数日後、上方の様子がハッキリしてからの方が良いと存ずる」

 白井も大きく頷き、

「左様にございますな。いや、ご親切にお話をお聞かせ頂き誠にありがとうございます。これにて、方向は決まりました」

しかし、彼は少し笑い、

「ただ、私には何より、お華様にお会いしたのが、一番の驚きにございますよ」

 と、遠山と白井は大いに笑った。お華は上目使いで、ニコニコしている。

 遠山は、

「では、お近づきの印に、一杯お付き合い下され。丁度、芸者もおりますからな」 それには、三人でまた大笑いとなった。


~つづく~

まず、擾乱は、例の「観能の擾乱」からか?と思って居られる方。

 それは正解です(笑)

 江戸時代ですから、特に繋がりはありませんが、なんとなく雰囲気が似ているような気がして……。

 まあ、勿論あの頃(室町)の様に、軍勢動かして、殺す殺さないまでにはなりませんけどね。


 このお華の物語も、佳境に入ってきました。

 実は、この「お華の首飾り」は、天保編、安政編、幕末編を考えております。

 そのようやく、一つが終わりに近づき、嬉しい限りです。

 さて、終わりとは言っても、まだ擾乱の前編。

 これからがちょっと大変です。

 なるべく史実に併せてやっておりますので、そこら辺併せてお楽しみ頂ければと考えております。

 そして、次回は後編。

 幕府に大変動が起こります。

 ただ、お華が簪を打つような、派手な事にはならない気がします。

 どちらかというと、内部のお話なんで。

 お華には少々気の毒ですが、中々面白いと思います。

 次回もよろしくお願い申し上げます。

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