⑰華の恩返し
(1)
老中筆頭となる前に水野忠邦は、今の本所白川で隠居生活をしていた晩年の松平定信(楽翁)に、改革における指導を受けたという。
本当だろうか?
確かに、定信が陣頭指揮を執った、寛政の改革は、祖父、吉宗の享保の改革よりも数段厳しく取り締まり、江戸庶民を苦しめた。
しかし、定信と忠邦の改革は違う。
厳しいとは言っても、定信は、江戸の火を消そうとまでは考えなかった。
しかし、忠邦は、江戸の繁盛など、消えて無くなる事に容赦しなかった。
たとえ、江戸が寂れ、将軍の権威が薄れても、また作り直せば良いと言う考えだった。
ちなみにこの考え、幕末の西郷隆盛が言っていた言葉に似ている。
「日本を焦土と化し、天皇中心の国に作り替える」
これである。
忠邦はまず、深川の破壊には成功した。
さて、そんなことには全く関わっていない、お華は、深川佐賀町の置屋にいた。 先日、新たに妹となった、おゆきと遊んでいる。
「おゆき。お歌とか知ってるの?」
当然ながら、
「お歌?」
おゆきは首を捻る。
すると、横のお吉が、
「お華ちゃん。まだ分かるわけ無いでしょ」
とたしなめると、おゆきは、
「こんぴらふねふね~」
と突然、歌い出した。
二人は、さすがに驚いて、
「おゆきちゃん。こんな歌、知ってるの?」
周知の通り、香川県の民謡だ。
この時代、江戸の宴席では、芸者連中が、「騒ぎ歌」と称し、よく歌われていた。
当然ながら、芸者のお華も知っている。
この子の場合、女浄瑠璃で上演中、客を盛り上げるために歌っていたのを聞いていたのかも知れない。
おゆきは、お華の言葉に、嬉しそうに頷き、
「いつも聞いてた」
まだ、傷が治っていないので、完全に座れないが、佐助が、お尻に負担がかからない座椅子のようなものを作ってくれて、その上で、明るくおしゃべりしている。
やはり、生活に恐怖がなければ、その子の本当が出てくるのだろう。
お華は、
「よしよし、後は決まったな」
などと言うから、
「もうお華ちゃん。この子の事はゆっくり考えるの。傷が治らない内はおとなしくしてなきゃだめなんだから」
「はは、そうだったね。先生に怒られちゃうか」
しばらく、相手をしてやり、お華は、事務処理が忙しい兄に変わり、深川の見廻りに立ち上がった。
おゆきの、満面の笑顔に見送られて、通りに出たお華である。
さてこの頃、天保十三年一月、江戸では、この改革有名な、株仲間解散令が発布されている。
結局は、自分の首を絞める事の一つになる改革である。
高騰していた物価対策の一つで、商売の自由化によって、諸物価の低下を期待したが、結局は経済の大混乱を呼ぶことになる。
この日、お華は、休みの浩太郎に変わり、物価調査の目的の見廻りに出なければならなかった。
しかしながら、お華にそんな、細かいことはわかっていない。
ただ、各商家を回り、値段の調査を頼まれていた。
ようは、店を回り、「これいくら?」と聞いて、帳面に書くだけである。
深川は、遊ぶところは破壊されていたが、商店自体に被害があったわけではないので、それらは通常通り、店を開けていた。
しかしながら、徹底破壊の影響で、いつもの人出はサッパリ。
商店側も、暇を持て余すといった様子であった。
お華は、米屋、小間物屋など、回ったが、どこも買い物客など見受けられない。
ただ、値段を聞いていく。
「ぜんぜん安くなってないじゃない!」
独り言で怒りながら、お華は歩く。
問屋廃止で、問屋連中は大騒ぎ、物流は、船の禁止で、全面停止の状態。さらに客がいないでは、とても安くなる状況ではない。
この頃、深川の経済は、すでに、破綻していたのだ。
お華が東平野町の亀久橋を渡っていると、向こう側から佐助がやって来た。
「お嬢様!」
佐助は笑顔でやって来た。
「どうしたの佐助さん」
「へえ、旦那様が、お嬢様を手伝ってやれと仰って……」
「あら、ありがとうね。と言いたいところだけど、手伝う程の事は無いわよ」
佐助は笑って、周りを見回し、
「確かに、その様でございますな」
佐助にも、町が死んでいることがわかったらしい。
「あとね。呉服屋だけ。呉服屋なんぞ、行かなくてもわかるけどね」
「へえ、なんでです?」
お華は大笑いして、
「だって、深川のお華太夫が、こんな事してるんだもん」
「はは、それは仰る通りで」
二人は、富岡八幡宮近くの、お華が芸者としてよく使っていた、呉服屋に向かった。
この辺になると、割と人も多くなるが、それでも、閑散としている。
「これは、太夫ではございませんか!」
帳場の主人は、お華の顔を見た途端、和やかに近づいてくる。
「こんにちは、ご主人」
店の端の方に座った、お華と佐助の前に、店主が頭を下げながら笑顔で座る。
お華が、
「やっぱり、調子悪そうね」
主人は、手を首筋にやり、
「とても、とても」
と首を振り、
「さすがにあの後では」
「そうよね。とても、着物買うって気にならないものね」
すると、主人は気が付いたように、
「そういえば太夫。なんでこんなところに?」
言われたお華は、情け無さそうな顔で、
「兄の手伝いよ。ねえ、着物、小袖なんざ少しは安くなったの?」
主人は、お華の詳しい事を知っているから、
「とんでもありません。最近は仕入れも満足に出来ない有様で、安いどころか、高くしたいところですよ」
と正直だ。
「やっぱり、組合のゴタゴタかい?」
佐助が、口を挟む。
「へえ。しばらくはどうにもなりません」
「やっぱりね~」
と言った時、ふと反対側、端の一人の客が目に入った。
お華は、小声で、
「ありゃ、知ってる客かい?」
主人は、眉を寄せ、
「いや、存じ上げません」
その客が、手代に、割と大きな声で、
「本繻子の帯が欲しい、わしは旗本、渋川様の使いじゃ」
などと言っている。
それを聞いたお華の額に皺が寄った。
明らかに、ご禁制の品物を要求している。
お華は、小声で主人に、
「ねえ! 本繻子なんて置いてるの?」
さすがに主人は、
「とんでもございません」
ご禁制になる前に仕入れた物を所持しているのは、お上も許可している。
当然と言えば当然だが、しかし、今。それを売れば大変な事になる。
その妙な男の相手をしていた手代は、主人の所に来た。
お華が、これも小声で、
「いい! 絶対売っちゃだめよ。ご禁制で手持ちが無いだの言って、断りなさい!」
厳しい声で、二人に言った。
すると、手代に変わり主人が、その男の前に進んだ。
そして、
「あいにく、ご要望の着物はご禁制の品物でございます。勿論手元にもございませんので、お許し下さい」
頭を下げ、丁寧に断りを入れた。
「何だと?」
と男は、居丈高に怒鳴り散らしたが、そう言われてしまえば、どうしようもない。「フン」などと言いながら、立ち上がり、お華の方を一瞥して外に出た。
お華は、すぐに佐助に、
「ちょっと、様子を見てきて!」
と頼んだ。
そして立ち上がり、
「ちょっと、ご主人!」
と手代と一緒に呼んだ。
お華は怖い顔で、
「いい! ご禁制の品は絶対売っちゃだめよ!」
と叱りつけ、
「あんなのに、迂闊に繻子なんぞ持って行ったら、途端にお縄になるわよ。わかってるの?」
そこに佐助が戻って来た。
「お嬢様、やはりあれは南の同心とつるんでいる男でした」
「やっぱり」
主人以下、店の者はみんな青くなった。
「ああやって、お縄にすんのよ。持ってても売っちゃだめよ。捕まったら、店は没収。ご主人は江戸所払いになるわよ」
危うく犯罪者になるところ、救って貰った主人は、涙を流して平伏する。
二人が店を後にすると、佐助が、
「しかし、お華様。よく分かりましたね」
と言うと、お華は、軽く笑い、
「実はね……」
と昨日の晩、居間での話を始めた。
ちょうど、お華と優斎、そして浩太郎が居間で話していた。
優斎が、
「やはり、組合の取り潰し始まりましたね」
それには浩太郎も、項垂れた様子で、
「ああ、お陰で余計な仕事が増えちまったよ。日本橋辺りでは大騒ぎで、今後どうしようってね話で持ちきりだったってよ。おそらく今頃、善後策であたふたしてるだろう」
「私のところでも、どう対応するのかと、国元への書状が倍に増えたって言ってましたよ。我が兄も、江戸に出てくるかも知れません」
「へ~、しかし、伊達様あたりではそれ程問題は無いんじゃないか?」
すると優斎は大きく首を振り、
「とんでもない。先日お話したように、輸送も滞ってしまいましたから、これは家中の財政にも大きな影響となるでしょう」
「そうか、まあな。上方からも、問屋が無くなったら、本の出版はどうするんだてな、問い合わせがあったらしくて、検閲なんぞどうするんだって言ってたからな」
それには、お華が、
「本? 本てなんで?」
と口を挟む。
それには優斎が笑顔で、
「無断で真似した本がないかとか、お上のご禁制に触れる本かどうか調べるのが、実は問屋組合だったりするんですよ。だからこれから本を出すのも、えらく時がかかるでしょう」
「ふ~ん、そうなんだ。色々と面倒なんだね」
「そうですよ。私も、医療の本が手に入りにくくなるし、困ったもんです」
すると浩太郎が、
「話は変わるが、困ったと言えば、最近、奉行所の取締が過酷だと言われててな」
それにはさすがにお華が、
「なに? どういうこと」
「いやな、どうも、どっかの同心が変装して、店にご禁制の品物を売れといって、出した途端、お縄にするらしい」
これには、優斎もお華も驚いた、お華が、
「それって……」
優斎は、
「そんな事までするのですか?」
と驚愕する。
いわゆる「囮捜査」である。
今現在でさえ、賛否両論の捜査手法である。
この頃では、単に卑怯なやり方と言われるものだ。
浩太郎は、首を捻り、
「なんでも、四谷や浅草の呉服屋、人形屋でやってるようなんだが、そこまで、手柄がほしいかね。北では、そんなやり方認めてないが、南がやっちまったら、奉行所全体が、批判の的になっちまう」
という話を聞いた翌日である。
お華が、気が付くのも当然だ。
「そうなんですか。じゃ、とうとう深川でも」
「そうね。全く……」
といったお華は、
「兄上は、南でなんて言ってたけど、北では本当にやってないんでしょうね」
ブツブツ言いながら、怒りが込み上げているようだ。
(2)
やる気の無くなったお華は、この事、浩太郎に報告しておこうと、
「もう、屋敷に帰りましょう」
佐助に言って、門前中町から真っ直ぐ墨田川の方に向かった。
御船手の横まで行くと、永代橋が見えてきた。
すると、橋の上に人だかりが出来ている。
人が居なくなった深川だから、余計に目立つ。
二人が近くまで寄ると、
騒ぎが起きていた。
一人の娘に向かって、町同心と手下らしき男が、声を上げている。
輪の外で見ている二人。
すると佐助が、
「あ! あれさっきの男ですよ」
と指を指す、
お華もすぐに気が付いた。
いや、その時、違う場面でのあの男に気が付いた。
「あれは、確か、本所の時も……」
それはともかく、どうやら、その二人は、娘がご禁制の着物を着ているのを咎めているらしい。
すると、その同心は、十手を向けて、なんと全部着物を脱げと言っている。
当然だが、橋の上で、万人監視の元、裸になれと言っても、娘は泣きながら嫌がる。
「ご禁制の着物なんぞ来やがって、その上お上に楯突くなど許しがたい! さっさと脱げ! 嫌だと申すなら、ほれ、脱がしてやれ!」
などと、叫んでいる。
周りで見ている町人から、非難の声が上がる。
すると、それには、
「その方達も、同罪として、お縄にするぞ!」
などと、ニヤニヤしている。
さすがにお華も、険しい目になった。
いい加減、怒りが頂点に達したようだ。
「この~」
と唸るような声を隣で聞いた、佐助は、ハッと気づいた。
「お嬢……」
と言って止めようとしたが遅かった。
お華は素早く、娘の着物に手を掛けている男に近づき、掴んでいる手首を捻り上げる。
驚いた男が何か言おうとしたが、それより先、掌を男の顎に当て、体当たりした。
すると、男は勢い良く、橋の欄干に突き当たり、そのまま乗り越えて、悲鳴を上げながら、下に落ちていった。
佐助は、慌てて、橋の上から除いたが、意識はあるようで、必死に泳いでいる。
しかし、まわりの見物人は、思わぬ女の出現に、大歓声をあげている。
そして、お華は娘を背に、同心に、
「あんた! 同心のくせに、こんな事して恥ずかしくないのかい?」
威勢良く、しかし、冷厳な言葉を放つ。
お華の勢いに押されているが、その同心も、
「これは、お上の取り締まりである。無礼をすると許さんぞ!」
とわめいたが、お華は、
「ほう、女を取り締まるのに、橋で裸にして良いと誰が言ったんだい? 鳥居様かい? 筆頭老中水野様は、女は奉行所で女に調べさせるようにとお達しがあったと思うけどね」
さすがに、これには同心も驚いた。
まさか、老中の言葉まで知っているなど、思ってもいなかったからである。
しかし、こうなったら、
「ええい、やかましい。事もあろうに鳥井様を愚弄するとは許せん!」
十手をしまい、刀に手を掛けた。
その様子を見ていた佐助は、
「やっぱりこうなった……」
と首を捻った。
そして、こいつ、お華様の事知らないのだ。と理解した。
となると、当然、
「そんな、ナマクラで、あたしを斬れると思ってるのかい?」
などと言われ、同心も怒りで我を忘れ、刀を抜き打った。
しかし、お華だ、そんなものはサラッと躱しながら、髪の簪を、同心の首に当てた。
少し、刺さった様だ、僅かに血が流れている。
これには、また周りの町人連中は、大歓声だ。
佐助が周りを見ると、いつの間にか人だかりになっている。
そしてお華は、反対側の手で、同心の顔を大きな音を立てて叩いた。
「文句があるなら、北町の桜田に言いな! いつでも買ってやる」
まるで、芝居の女方が見栄を張る様な、お華太夫がきっぱりと言う。
その同心は、あまりの事に恐れをなし、刀を納めることもわすれ、一目散に逃げていく。
それを見送り、回りからは、拍手が上がる。
佐助が、橋から下を見ると、落とされた男もようやく岸に上がった様だ。
お華は、後ろで怯えている娘に近づき、
「あんたも、それが御法度だって知ってるでしょう。着たい気持ちはわかるけど、今は、そういう時じゃない。さっさと家に戻って、着替えな!」
と叱りつける。
そして、佐助に向かって、
「奉行所に行くよ!」
と、一言。
さっさと橋を渡っていった。
佐助は、
「ぶ、奉行所?」
慌てて、後を追った。
(3)
お華は、ズンズン進んでいく。
佐助は、後を追いながら、
「お嬢様! まずはお屋敷に戻りましょう!」
声を掛けるのだが、お華は止まらない。
佐助は、足の速いのが自慢だが、それとは全く別のお華の勢い。
佐助の言葉など、
「よい!」
の一言で呉服橋の方に向かって行く。
お華が、やり過ぎないよう側についていた佐助だったが、起きた事件が悪すぎた。
もう、止められない。
やがて、奉行所の正門まで行き、門番に目もくれず、中に入って、すぐ右にある同心部屋の戸口に立った。
お華は、スパンと、良い音をさせて、腰高障子を開けた。
その時、同心部屋には、
筆頭の高橋と、吟味の打ち合わせでたまたま居た吟味与力の佐久間が、話し合っていた。
そして、この日は見廻りが終わって、部屋に帰っていた同心連中が、談笑しながら座っていた。
しかし、高らかに音を立てて、入って来たお華を見て、一同、瞠目した。
「高橋さま!」
叫びながら入って来たお華の勢いに、高橋は勿論、佐久間も座りながら後ずさった。
高橋はやっと、
「な、なんじゃ、お華ではないか」
まじろぎながら言う。
お華は、佐久間に築き、
「これは、佐久間の殿様。ちょうど良い、些かお聞きしたい事がございます!」
佐久間も、ちょうど良いと言われ、高橋と同様緊張しながら、
「な、なんだお華。一体どうしたのじゃ」
と、宥めるように言う。
回りの同心達は、突然の事に、みんな驚いた顔をしている。
佐助は、入り口外で、力尽き蹲っている。
お華は、自分の胸に手を遣り、怒りを押しとどめているという様子で、ピッと顔を上げ、
「佐久間様! 北町奉行所では、ご禁制の着物を調べるのに、どういうやり方を命じておられるのでしょう」
高橋も佐久間も目が丸くなった。
佐久間が慌てた様子で、
「男はともかく、女は奉行所にて、女が調べる事になっておるが……なあ、高橋」
「はい。その通りにございます」
すると、お華は重ねて、
「女を調べる場合には、奉行所なんでございますね」
と、睨み付けるように聞く。
佐久間は吟味与力だが、どうも、お華に吟味されている気分になってきた。
「勿論じゃ、これは、老中様からもそういったお話がある。いや、もともと、女のお調べは、奉行所にてやることになっておる」
すると、お華は、回りで成り行きを見守っている、同心たちにをぐっと嘗め回すように見て、
「あんた達、妙な事やってないでしょうね!」
と叫ぶ。
同心達は、突然、矛先が自分たちに回り、驚いている。
皆、首を振り否定している。
そんな時、端に座っていた、浪人姿の男が笑いながら立ち上がった。
ゆっくり、お華の側に寄り、
「おい、お華。相変わらずだな」
と笑って座った。
隠密同心、佐川であった。
佐川は、お華の亡くなった父、段蔵と懇意で、お華も子供の頃から知っている。
さすがに、佐川には、お華も笑顔で、
「あら、佐川様。お久しぶりにございます」
頭を下げた。
隠密同心は大抵、町回りを引いた同心が就く役職で、当然、年配者が多い。
名前の通り、奉行、与力から隠密な仕事を承るのが、本筋だが、大抵は、各地域の経済状態、例えば商家などの経営状態や、諸物価などを密かに調べたりすることが多い。
それはともかく、
「で、どうしたんだ。お華。同心部屋なんぞ殴り込んできて」
笑いながら聞く。
すると、お華は、永代橋の出来事を詳細に語った。
さすがに、佐久間などは、額に皺が寄る。
「誠か? お華」
「冗談じゃございません。南の同心だとすぐわかりましたが、私は、北もこの様な事しているんじゃないかと、無性に腹が立ちまったんですよ」
「いや~」
と、高橋は唸る。
「もうね、あそこは上が妖怪だから、仕方が無いとは思ってるんですけど、せめて北だけは、奉行所の同心として。いやせめて、侍として恥ずかしい事をやって欲しくないと思いましてね。父が生涯掛けて勤めた場所が、世間の笑いものになるのは許せないのです」
そのお華の気持ちは、段蔵と同僚だった佐川には、よく分かる。
しかも、お華に言われると、我が娘に言われている様な、妙な気分になる。
そして佐川は、
「心配するな、みんな筋の通らぬ事はやらん。な、みんな」
回りの連中に声を掛ける。
お華は、ひとまず安心したようで、薄く笑う。
するとお華は、
「そうそう、佐久間様。南は罠を掛けて、呉服屋の主人をお縄にしようとしてましたよ」
その言葉に、佐久間は驚いた。
「お、おいお華、どういうことだ」
また、お華は深川の出来事を語った。
これには、佐久間も高橋も驚愕の顔だ。
「おいおい、誠か? おい佐助、間違いないか?」
と佐久間は、土間に跪く、佐助にまで確かめた。
「へい。その通りにございます。実はそのお手先らしき男と外で待ってた同心の旦那が、お華お嬢様に、橋で河に投げ込まれた奴でございまして……」
これには、厳しい顔で、佐久間は考え込む。
すると、隠密同心の佐川も首を捻り、何か考えているようだ。
この囮捜査のやり方は、江戸時代にも知られている。
通常、「買試し」と呼ばれる。
しかし、奉行所では、この様なやり方は、一切、認めていない。
すると、佐川が、
「実は、佐久間様。その話、私も神田の人形屋で、その様な買試しがあったと聞いた事があるのです」
低い声で報告した。
「何だと!」
「私は、その実際を見ておりませんので、噂の一つと捨てておりましたが、お華の言うことが正しいなら、これも間違いない事かと」
すると、お華が、
「正しいですよ~」
文句を言うので、佐川は笑いながら、
「と、仰ってます」
しかしながら、買試しと、女に無体な真似など働いているとあっては、捨ててはおけない。
「高橋、先程の件はとりあえず良い。それよりこの事。わしはお奉行に、至急お伝えせねばならない」
佐久間は、立ち上がり、お華の肩をポンと叩き、部屋を出て行った。
それを見送り、佐助も立ち上がり、急いで、奉行所を後にした。
屋敷の浩太郎に伝えねばならない。
「おい、お華。お手柄だぞ! お前、お手先より隠密同心になった方が良いな!」 と佐川は、大笑いする。
他の同心も頷いている。
「あら、そうですか?」
お華は、妙な笑顔で、若い同心が入れてくれたお茶を飲む。
そんなことで、浩太郎が居ない事を良いことに、しばらく、佐川と昔話などしていると、お華はお奉行に呼ばれた。
佐川の、
「怒られるぞ~」
などといった冷やかしを背に、お華は、奉行居間に呼ばれた。
佐久間の報告を聞いた、遠山が呼んだのだ。
「これはお奉行様、お呼びにより……」
と言った途端、遠山は、
「おいおい、同心、河に放り込んだって?」
と大笑いされる。
お華は、慌てて手を振り、
「違いますよ、放り込んだのは、お手先。同心は顔をひっぱたいただけです」
遠山は、首を捻り笑いながら、
「ひっぱたいただけって、お前……」
隣に座る、奥方けいも、口を押さえ、笑いを堪えている。
お華は、口を尖らせて、
「いくら、お調べの為とは言っても、みんなが見ている橋の上で、刀を抜き、そこで裸になれなんぞ、奉行所の同心、いや武士のやることとは私には到底思えません。これが武家だったら、どうするんでしょう。武士の娘なら即刻自害です。その覚悟もない、なまくらな侍に腹が立ったのです」
これには、けいも大きく頷き、
「お華の言う通り。全く許し難い事にございます。旦那様」
遠山も、
「ったく、ふざけた事よ。御老中に早速申し上げたいところじゃが、わしは今、差し控えじゃしの」
苦笑いで答える。
この頃、遠山は、株仲間解散令の触書を、町方に触れ流すのを故意に引き延ばしたとして、水野忠邦より、将軍に対し、御目通り差し控えの処分を受けていた。
さて、同じ時。
浩太郎は、佐助の報告を聞いて、仰天していた。
おさよが、お茶を運びながら、
「旦那様、どうなされたの?」
「お華が、北町に殴り込みにいったそうじゃ」
さすがに、おさよも驚いて、
「な、殴り込み?」
「ふふ、いや、意見しに乗り込んだらしいのじゃ」
おさよは、胸を撫で下ろし、
「あ~驚いた。お華ちゃんがそんなことしたら、奉行所全滅じゃないですか」
浩太郎は何回も頷き、
「本当じゃ。俺が居ても止められるかどうか」
あきれ顔で笑う。
「で、お華ちゃんはなんで?」
佐助の報告を説明してやると、おさよは、力強く頷き、
「そりゃ、そうするでしょ。冗談じゃありません」
すると、浩太郎も、
「深川が潰されたお華にとって、お父上が、生涯掛けて守った仕事まで、滅茶苦茶にされるのは許せなかったのであろう」
おさよは頷く。
「さすがに、俺でも同じ事するかも知れん。するんだが、お華じゃ、今頃、お奉行様にも文句言ってるよ。明日、朝から謝らねば……」
浩太郎は両手を顔に浸け、肩を落とす。
「それは、それは、ご苦労様にございます」
おさよは微笑みながら、頭を下げる。
浩太郎は顔を上げ、庭を見ながら、
「まあ、遠山様は笑ってお許しになるだろうが、南はどうかな……」
静かに言った。
おさよは、眉を寄せ、
「やはり、何かしてくると?」
「ひっぱたかれた同心の様子を聞いた、妖怪が何をしてくるかじゃ。ただでは済まんと思うのじゃ。なにしろ妖怪だからな」
おさよは、微笑み、
「その時は、南が壊滅しますよ。お華ちゃんに勝てる訳ありません」
浩太郎も苦笑いで、
「そうなのじゃ。あれほど危ない女は、お華とおさよだけ、だからな」
「まあ!」
笑う、おさよだった。
~つづく~
お華が、怒っていた、南町の取締は有名で、今でも資料として残っているぐらいだから、かなり恨まれたのだろう。
特に、裸にして~というのは、江戸の一般市民だけで無く、武士の家にとっても冗談ではない話である。
娘は勿論、たとえ下女であっても、面目に関わってしまうからだ。
お華は、「武士の家ならば、即刻自害 」と言っているが、商家の娘であっても、恥を掻けば自害する。
改革とは別だが、着物の仕立ての悪さで、外出中、着ていた小袖が解けてしまい、下半身が露出してしまった娘が、生涯の恥と、大川に身を投げたなどの記録も残っているぐらいだ。
この時の過酷・破廉恥な取締方法は、ひょっとしたら、ある意味、改革の命運を分けた失敗とも言えるかも知れない。
これは、後になって証明される事になる。
さて、いよいよお華の戦いが始まりました。
しかし、これはまだ初戦、序の口にございます。
今回もありがとうございました。
次回もよろしくお願い申し上げます。




