⑯思わぬ出会い
(1)
「佐平次! 斬られて帰っただと!」
南町奉行の鳥居耀蔵は、大声で怒鳴りつけた。
庭に片足を投げ出し、蹲る町人の様な風体の男、佐平治は、
「申し訳ございません。簡単に行くと思っておりやしたが、そこの奥方が、また、えれえ強かったものですから……」
鳥居は、両目を釣り上げ、
「ん、ん、我が家臣が、女にやられるとは、情けないやつじゃ! しばらく部屋でおとなしくしておれ!」
その時、ちょうど縁側に、南の年番与力、佐々木が、一切の表情を消し、座ってその様子を聞いていた。
佐々木も、昨夜その話を聞いていた。
しかし、その折、
「これは如何にも強引な事。遠山様のご承諾も無く、その様な事、あまりにやり過ぎでは……」
と反対したのだが、その時は当人達も、
「ここが狙い目じゃ。そこには、女しかおらぬ。ちょうど良い」
などと、大笑いしていたのだが。
実は、佐々木。こうなることは最初から分かっていた。
何しろ、おさよ相手だったからだ。
八丁堀で人気なのは、お華。
と言うことは既に述べたが、実は、八丁堀で、幼い頃から、武勇で有名なのは、おさよなのだ。
お華の武芸は手裏剣。
しかも、芸者になってしまったのもあって、知っている者は殆ど居ない。
しかし、おさよは違う。
おさよは、小太刀だから、八丁堀の道場などにも稽古に行っていた。
小太刀でありながら、彼女に勝てる者は、常に一人の同心だけ。
そんな、おさよに付けられた渾名は「鬼娘」である。
おさよに、なかなか縁談が来なかった一番の理由がそれだった。
ちなみに、唯一勝った男。それが浩太郎である。
要するに、最初から、そこに嫁に行くしかなかった娘なのである。
今となっては、母親のお久に、大笑いされるが、おみよは、
「あれが、お華姉さんと修業したという」
話の通りの、実際の強さを見せつけられ、驚愕している。
南、とは言っても、当然、その話は佐々木も知っている。
佐平治程度の男が、威張ってはみても、跳ね返されるのは、最初からわかっていたのだ。
いやむしろ、殺されなくて幸運とさえ、思っている。
しかし、一切表情には出さない。
「致し方ない。そちらの方は、一端、手を引く」
無念そうに言う、鳥居の言葉に、胸を撫で下ろした佐々木であった。
しかし、
「今は、御改革を断固、推し進めなければならない。より一層、町中の取締を厳しくせよ!」
佐々木に厳命した。
佐々木にとっては、これはこれで面倒な事ではあるが、恭しく、
「はっ。そのように皆に申し伝えます」
と頭を下げた。
(2)
ところで、翌日朝。
まだ、春は遠く、寒い朝だった。
屋敷の居間で、
おさよは、正吉に調べさせた男の事を、浩太郎に伝えた。
「ほう。南は、南なのか」
「ええ。御家来の様です。奉行所に帰る途中、羽織を脱ぎ、髷を潰していたそうにございます」
それには、浩太郎は大笑いし、
「ご苦労な事だな」
おさよも笑みで頷く。
「さて」と、月番の浩太郎は、見廻りへと向かった。
今日は元気の無い、お華と一緒である。
しばらく見回り、三十三間堂町の番屋で、二人は一服した。
「しかし、綺麗に取り払ったものだな……」
浩太郎は、呆れた様にぼやく。
この時の深川は、岡場所や茶屋は勿論、寄席、宮地芝居も殆ど取り払われ、庶民のわずかな楽しみと言った物は、全て無くなったと言って良い。
たとえば、僅かに残った寄席は、江戸中で十五件。
しかも、神道講釈・心学(現在で言う道徳)・軍書講釈・昔話、といった四演目のみの上演を命じられた。
これでは、とても庶民が、金を出して聞きに行こうと言う様なものではない。
横で苦悩の顔で、茶をすする、お華。
「どうしたお華」
浩太郎の言葉に、お華は額に手を当て、
「わかるでしょ。お座敷というお座敷。全て無くなっちゃったのよ」
「そうだな。女将と相談したんだろ?」
お華は頷き、
「まあね。結句、柳橋に行くってなるんだけどさ」
浩太郎は頷き、
「そうだな、深川の連中は、みんな柳橋に移った様だからな。あそこに手が入らなかったのが、むしろ不思議だよ」
お華は下を向き、
「芸者連中が、なんとか生きる道が、残ったのはありがたい事だけどね……」
浩太郎は笑顔になり、
「問題は、お前か」
「深川を捨てるのはどうもね……」
すると浩太郎は、お華の腿を叩き、
「父上が生きてらっしゃったら、どやされるぞ。さっさと行かんかってよ」
お華は、頷き、
「お母さんもそう言ってたけど、中々決心が付かなくてね」
浩太郎は、実は嬉しかった。
無くなった父親の思いに悩む、お華にである。
そんな話をしているところに、深川富岡周辺を縄張りにしている久蔵親分の若い者、太助が飛び込んできた。
「あ、旦那!」
浩太郎は、その勢いに少々驚き、
「どうした。何かあったか」
「へい。どうも包丁持って、子供を人質に立て籠もっている奴がいると」
「何だと!」
浩太郎とお華は、一斉に立ち上がった。
すると、お華が、
「で、太助さん、どんな奴なの?」
太助は頷き、
「へい。ところが女なんでございますよ」
それには二人とも、
「女!」
と声が揃った。
太助に先導され、富岡門前町の奥まった、商家の近くに着いた。
中年らしき女は、二階の障子を開け放ち、三歳ぐらいの女の子を手荒に抱え、包丁を突きつけていた。
その店の外、道の端で、ここの縄張りの親分が、十手を握りしめて様子を窺っていた。
そこに浩太郎達が寄っていき、店の脇に引っ張って、状況を聞いた。
「何? 自分の娘に包丁突き付けているのか?」
親分は、首を振り、
「いえ、旦那。子供といっても連れ子なんでございます。寄席を経営していた旦那が、御改革で、閉鎖にされちまったもんで、娘を捨て消えちまったんですよ。しかも、女浄瑠璃の娘連れて。それを怒った女がトチ狂ってる様でして訳でして……」
それにはお華が、
「だからって子供に包丁かい? ふざけたことを」
しかし、浩太郎は、
「そうだとしても、えらく泣いてるなあの子」
その娘とみられる子供についてである。
すると、親分が、
「いえね、こんなんなる前から、この辺では評判だったんですよ。折檻が酷いって。あっしも、何回か注意しに行ったんですが、静かになるのはその時だけ。寄席なのに、浄瑠璃より子供の泣き声の方が大きいって有様で」
浩太郎は、首を傾げ、
「う~ん」
と唸る。
そこに、お華がせかす。
「兄上。どうするの?」
と、少々、怒りの籠もった言葉で言った。
その時、子供の泣き声が一段とおおきくなった。
女は、その子の顔に包丁を突きつけ、
「治平! 呼んでこい!」
などと、逃げた旦那の名前を、狂った様に叫び上げる。
浩太郎は頷いた。
「お華、女の腕を打て。親分達は店に入り込み、包丁が離れたら、飛び込め。いいな」
「合点で」
親分達と若い者は、隠れながら、家に入っていった。
お華も、見上げながら左へ、腰を沈めながら間合いに行く。
浩太郎は、大きな声で、
「おい、女! つまらねえ真似は辞めろ。後で泣くのは自分だぞ」
と、大きな声で言うと、
「やかましい。みんなお上が悪いんだ。お前の言うことなんざ、聞くもんか」
髪を振り乱して叫ぶ。
「なら、こうしてやる!」
いきなり、右手を振り上げた。
その瞬間、お華の簪が飛んだ。
些か、頭にきたようで、後を追うように、二本続けてだ。
相変わらず早い。
手首、肘と綺麗に深く突き刺さる。
悲鳴と共に、包丁はおろか、腕まで、何処かに飛んでいった様に跳ね上げられた。
浩太郎は叫ぶ、すると二階に親分達が飛び込む。
ここまで行くと、後は容易に取り押さえられた。
お華も、打った後、家の中に入り、子供のところに向かった。
すでに、親分が抱き保護しているが、泣き止まない。
お華は、「あとは、あたしが」と言って、替わって抱くのだが、全く泣き止まない。
外に出て、いかにあやしても大泣きなので、
「お前って奴は」
と、浩太郎も
「ほら、よこせ」
さすがに慣れた感じで抱くのだが、ますます酷く泣いている。
いや、泣くと言うより、叫ぶといった様な、ものすごい声なのだ。
「ほら~」
お華は笑うが、浩太郎は、あることに気づいた。
「ちがう。お華、ちょっと来い」
家の中に、もう一度子供を抱きながら入り、一度、子どもを寝かせる。
まだ泣き止まない。
すると浩太郎は、今度はうつ伏せで寝かせる。
すると、子供は。
泣いてはいるものの、些か静かになったのだ。
「え?」
お華もさすがに不思議なようで、
「どういうこと」
浩太郎は、うつ伏せの、尻の部分をまくり上げた。
これを見た、浩太郎とお華、除きに来た親分も驚愕した。
お尻の部分が、紫の、異様な色で腫れ上がっているのだ。
浩太郎は、既にお縄になり、土間に座っている、女の前に行き、
「おめえ! あの子に何をした」
怒鳴るように聞いたが、女はフンと答えない。
すると、浩太郎の右手が、女の頬に大きな音を立てて引っ叩いた。
「答えないなら、切り刻んでも答えさすぞ。これなら、後が残らず、地獄の苦しみだ」
と、小柄を抜き、鼻の穴に突き入れた。
「これなら、血も殆ど流さず、頭の病気で死んだと言うことになる。さあ、最後だ。あの子に何をした」
お華はそれを聞いて、若干、寒気がした。
相変わらず、子供については、厳しい。
すると、その女は、慌てて首を振り、
「尻に針を刺したんだよ」
掠れた様な声で、叫ぶ。
「な、何だと! いったい何本刺したんだ!」
女はせせら笑い、
「十本までは覚えてるがね。さてさて、何本だったかしらね」
浩太郎は、怒りが頂点に達し、右手が反応したとき、お華が割って入り、思いっきり、女の頬を引っ叩いた。
「二十本ぐらい打ってやれば良かった!」
と泣きながら叫ぶ。
さすがに、この言葉にはお華の方が腹を立てたらしい。
「もう良い! 先に連れてけ」
親分に指示を出した浩太郎は、佐助を呼び、
「おい、話は聞いてたな」
「へい」
「また、先生にお願いしなければならない。この前の様に、また頼む。この子は、お華に連れてって貰う。俺は下手人を奉行所に引っ張って行かなければならない。それが済んだらすぐ、屋敷に戻るとな」
佐助は、笑みを浮かべ、
「お任せを」
と頭を軽く下げ、消えた。
そして浩太郎は、
「おい、お華。聞いた通りだ。今回はお前がこの子を先生の元へ連れて行くんだ。分かってるな」
「わかったわ」
お華は大きく頷く。
「負ぶって、尻に当たらないようにしなければならない。むやみに急ぐ必要はない」
早速、子供をお華の背中に背負わせる。
「頼んだぞ」
「はい」
お華は、子供に声を掛けながら、ゆっくりと歩いて行く。
浩太郎は少し、見送り、すぐに下手人の女が連れて行かれた番屋に急ぐ。
(3)
それ程、急かされた訳ではないが、相変わらず素晴らしい走りで、佐助は、優斎の治療所に駆け込む。
「先生!」
の言葉に、患者を診ていた優斎とおみよは、入り口に振り向く。
ちょうど、他の子供の治療をしているところだった。
「お、佐助さん。また何かあったみたいだね」
「はい。実は……」
と言いかけたが、優斎はそれを制止し、
「もう終わるから、少し待ってくれ」
正面に座っている、子供の母親に、
「この薬を、朝晩飲ませて下さい。お金はあとでいい。とにかく暖かくして寝かせて下さい」
と言って、おみよと一緒に母と子の患者を送り出した。
相変わらず、支払いが良心的であるから、親も安心して、ここに子供を連れてこられる。
今や、この辺の家庭では、武士も町人も有名な子供医者となっていた。
さて、佐助に振り向いた優斎は、
「聞きましょう。どうなさいました?」
佐助は、一気に、状況を語った。
優斎の顔が、みるみる厳しく変わる。
「何だと、針を……」
おみよは、
「とにかく、お姉さんのところへ」
手伝おうと思ったのだろう。
佐助も、
「あっしも一緒に」
と二人は外に出て行った。
それを見送り、優斎は頭を抱えた。
「針を十本以上だと?」
この様な話は、初めての事だったので、判断をし切れずにいた。
縫い針一本、ちょっと刺さった位なら、珍しい事では無い。
しかし、さすがに、尻に十本以上など、聞いた事が無いからだ。
「針の場所が分かれば良いのだが、埋まっていたら、どうやって……」
優斎には珍しく、今で言う治療方針に迷っていた。
一方、お華は、子供を背負いながら、見た目しっかりとした足取りで歩いていた。
「あなた、お名前は?」
子供の方も、安心したのだろうか、お華にしっかり捕まりながら、
「あ、あのね。ゆき」
こちらも意外にしっかり答えた。
「そう、おゆきちゃんか。もうすぐ先生のところだからね」
すると、おゆきは、
「こわい先生?」
恐る恐る聞くものだから、お華は笑って、
「大丈夫。優しい先生よ。怖がらなくても大丈夫」
などと言いながら永代を渡り、丁度、船手番所あたりまで行くと、正面の方から、おみよと佐助が走ってきた。
近寄った、佐助が、
「代わります」
と言う。
「ゆっくり。ゆっくりよ。痛くなるところは気を付けてね」
おみよの手を借りて、佐助の背中に、おゆきは移った。
お華は、軽くなった途端、おみよにもたれかかり、
「いや~大変だった」
それには、おみよも笑い、
「何、お姉さん。しっかり歩いてると思ったのに」
「傷に悪いと思ったからさ、無理に歩いてたのよ」
「あらら、自分の子だったらどうするの?」
などと言われてしまう。
「いや、無理だわ」
三人は、慎重に歩き、子供を怖がらせぬよう、優斎の元に運んだ。
優斎は笑顔で迎え、
「さあ、こちらにうつ伏せで寝かせて下さい」
布を引いた机の上を指差し、指示を出した。
「恥ずかしいだろうけど、お尻、見せてね」
言いながら、下半身を開いた瞬間、お華以外は驚きを隠せなかった。
「こ、これは……」
紫色に膨れ上がっているのを目の当たりにして、言葉を失った。
おみよなどは、首を振り、
「なんてことを……」
と、涙を浮かべる。
おみよは、直ぐに軽い布団をかけ、顔の下にも布を重ねておいて、落ち着かせる。
その間、お華は、優斎を外に呼んで、詳しい状況を説明する。
頷いた優斎は、
「思ったよりも、こりゃ厄介ですよ。どうしたらいいんだか」
まだ迷っているようだ。
「え、先生でも?」
優斎の珍しい弱気な言葉に、意外に思った。
「十本以上と言いましたね。早く取らないと膿んでしまって大変なことになる。普通なら、それだけ多いと切り刻んで、抜くしかない。しかし、そんなことしたら、あの子の一生の傷になってしまう……」
「やっぱり、座れなくなっちゃいますか?」
「そう、下手すると一生……」
空を眺めながら、暫く考えていた様だった優斎だが、大きく頷き、
「やはり、ここはお華さんに任せましょう」
突然の指名に驚いたお華は、
「な、なんなんです?」
笑顔の優斎は、
「おさよ様と佐助さんを呼んできて下さい。今から説明します」
お華が、呼びに行っている最中、優斎はおみよに、
「どうですか?」
「はい。今、ようやく眠った所です」
おみよは小さな声で囁いた。
その戸を閉め、集まったおさよ達に説明を始めた。
「佐助さん。あなたには、走って貰って、桶に、大川の橋の下辺りで、凍る程の冷たい水を汲んできて貰いたい。その中にこの手ぬぐいを浸してね。行きはともかく、帰りは水を漏らさぬよう、そのまま持ってきてもらえますか。大変ですが、零さないよう、なるべく急いで汲んできて下さい。これは、あの子の痛みを抑える為に必要です。お願いします」
江戸は、この時三月に入ったところで、夕刻。
まだ、春とは言えない寒さで、水もまだ、冷たさを保っている。
加えて、異常気象も回復傾向に入ったばかりで、隅田川のような大きな川とは言え、凍り付く位の冷たさである。
頷いた佐助は、井戸端から桶を持って、早速、隅田川に向かって、駆けて行った。
そして、お華とおさよを部屋の中に呼び、
「まず、お華さん。あなたの簪針の先で、この子に埋まっている、針を探して欲しい」
「え?」
お華は大層驚いた。
「探すって」
すると優斎は、
「お華さん、簪を貸して下さい」
見ていて下さいね、と、お華から、簪を受け取り、それを布団のままの子供の尻の部分に、ゆっくり尖った部分を走らせた。
「こうやって、この子の尻を傷つけないギリギリで走らせます。そうやって、針のの場所を見つけて欲しいのです」
お華は言葉を失った。
おさよは何か気づいたようで、
「ああ、それはお華ちゃんしか出来ないかもね」
と頷く。
優斎は、
「はい、指先の感覚が鋭いと言えるのは、ここでは、お華さんしかいません。私やおさよ様では、そこまで鋭敏ではありません。先で傷つけぬよう、しかし深く探って貰いたいんです。お華さんが感じたところを言って頂き、おさよ様には、そこに一つずつ、印を付けて頂きたい」
「は~」
意外な展開に、驚くお華。
「そしてそれが終わったら、私が、出来るだけ、小さく斬り、針を抜きます」
おさよは、
「わかりました。お華ちゃん、しっかりね」
と言うのだが、お華は自信が無さそうな顔をしている。
そのお華の肩を、おさよはポンと叩き、
「お父上が教えてくれた簪は、人を倒すものだけじゃないってことよ。小さな子を助けられるなら、これこそありがたいこと。特にあなたは逃げられないでしょ」
その言葉には、お華も大きく頷いた。
「出来るだけの事はやる……」
ようやく、その気になったようだ。
早速、準備をし、おゆきに駆けられていた布をゆっくり取り除いた。
おさよは、さすがに初めて、この惨状を見て、眉が上がった。
「冗談じゃないわよ……」
おみよは、ゆきの顔の方に回り、軽く身体を押さえる。
すると、優斎が、
「お華さん。全部とは言いません。でも、この子が将来悲しい事にならぬよう、守ってやって下さい」
お華は、大きく頷き、
「はい!」
返事をしながら、眠っている、ゆきの後ろに回って、簪を一度くるっと廻し、針先をゆきの尻につけた。
優斎が、事前に隅で書いた枠の中を慎重に、簪をゆっくり走らせる。
そして、ある地点で簪が止まる。
早くも見つけた様だ。
「ここ!」
すると、おさよが、小さく筆で印を付ける。
お華は、眉を頂点まで引き上げ、最高度の集中力で、ゆっくり針先を動かしている。
お華も、おさよも、そしておみよも額に汗が吹き上がっている。
この時代レントゲンなどない。
優斎には、これしか考えられなかった。
いやむしろ、この時、お華がこの場に居たことは、おゆきに取って、最大の幸運だったかも知れない。
優斎は、お華の集中力の邪魔にならないよう、治療場の外に出て、寄りかかって空を眺めていた。
すると、そこに浩太郎が、屋敷に戻ってきた。
「先生!」
「ああ、浩太郎さん」
「どうです。子供の方は?」
優斎は笑顔で、
「今、お華さんに全てを任せてます」
これには浩太郎は驚き、
「お華? お華が治療を?」
優斎は、首を振り、
「今、お華さんの技の全てを使って貰ってます。戦いの真っ最中ですよ」
そして、
「浩太郎さん。申し訳ありませんが、強い焼酎を集めて来て貰えませんか」
「し、焼酎?」
「はい。お華さんの次は、私の技の全てを出さないと……」
何が何だかわからない浩太郎だったが、
「わかった。強い焼酎だな」
と、隣の屋敷、お久の方に向かった。
おさよは、次々と、筆で印をつけていった。
お華は最後の精神力を振り絞り、何回目かの簪を走らせた。
それが終わると、
「もう駄目……」
と、お華は、床にずり落ちた。
おみよが、優斎を呼びに外に出て、
「先生。終わったようです」
二人は、すぐに中に入る。
「どうでした」
倒れている、お華は声が出ない。
優斎は、その場所を見て、息を呑む。
おさよが、
「やりましたよ。お華ちゃん。全部で二十本みたいです」
「に、二十……」
優斎は、おさよが付けたバツ印を厳しい顔で見詰めながら、唸る。
「さて、これをどう斬るのか……」
おさよが、小袖を布団代わりにかぶせ、お華を座敷に引っ張って行った。
お華は、力ない笑いで、
「もう、優しく引っ張りなさいよ。あたしゃ、こんなに簪で疲れたのは初めてだよ」
用意されていた布団に寝かされた。
しばらくすると、佐助が帰ってきた。
「これで、どうでしょう」
桶を、優斎の前に差し出した。
優斎は、小指を少し浸けて頷き、
「おみよさん。印はもう写したね」
と確認し、
「油紙を、この子に巻いて下さい」
「はい」
巻かれた子供を確認し、
「では、この水に浸けてある手拭いを、紙の上から尻に被せて下さい。何回も」
そして、おさよに、
「おさよ様は、どうか子供が動かぬよう、あやして下さい」
「わかりました」
これは、今で言う、麻酔の代わりなのだろう。
冷えた水で、神経を麻痺させるつもりの様だが、さすがに今とは違う。
おさよの力で動かぬよう抑えて貰わねばならない。
冷え具合を確認し、優斎は浩太郎を呼びおみよと一緒に、足を押さえるよう頼んだ。
その頃には、焼酎を持ってきたお久などが、離れて見守っている。
優斎は、油紙を取り、頭の中で設計した切り口に従い、一気にメスを振るった。
それは、浩太郎に言わせると、添え物斬りの様に、迷い無く、一気に斬ったように見えた。
優斎は、短く深く一回斬ると、素早く、特製の箸を取り出し、針を一本ずつ抜いていく。
おさよには、その一連が電光の早さに見えた。
優斎は、次々に作業を続ける。
ありがたい事に、おゆきには、痛さがそれ程感じて無い様だが、限度がある。
そして優斎が、最後の一刀を振るうと、さすがにおゆきも大泣きに泣き出した。
おさよとおみよが、一生懸命、あやし、浩太郎も懸命に足を押さえる。
「もう少しよ。もう少しの我慢よ」
最後の針を、抜いた優斎は、お華と同じ様に、全身の力が抜けた様に意識が無くなりかけた。
そうして倒れかけた優斎を、浩太郎が素早く寄り、支えた。
(4)
「浩太郎さん」
と抜いた針が載せられている、トレー代わりの皿を見せる。
「二十本です……」
浩太郎は勿論、お久や佐助も驚愕した。
「二十も入ってたのか……」
優斎は、身体を奮い立たせ、おゆきの尻から流れだす血を拭いながら、浩太郎に、
「焼酎を」
と、振りかけるよう頼んだ。
消毒代わりの焼酎を、充分吹きかけると、おみよが、丁寧に新しく綺麗なさらしを巻き始めた。
おみよを残し、皆、屋敷に移った。
「え? お華に? 簪で?」
浩太郎は仰天した。
「こんな事、私も初めてだったので、相当悩んだのですけども、ここは、お華さんの簪の技しか無いと思いまして」
おさよは笑顔で、
「私も、長い間一緒に修行してきましたけど、こんな事も出来るんだと墨で印をつけながら、感心致しました。さすがに、お父様もこんな事に使われるとは思っていなかったでしょう。私に取っても嬉しい事です」
それを聞き、お華は、妙な顔で照れている。
浩太郎は首を捻り、
「ふふ、まあ良い。で、様子はどうなんだい」
優斎は、
「お陰で、位置が確定していたので、切り口も僅かで済みました」
「そうか、そうか」
その後、おゆきは、屋敷の方で、おさよ・おみよ・お華が、代わる代わる面倒を見る。
手術の経過も順調の様だった。
日に日に、おゆきも、本来の子供らしい笑顔になっていく。
そして、三日後の夕方、屋敷に、置屋の女将、お吉が呼ばれた。
浩太郎は、
「お吉、あれから様子はどうだい」
警動騒ぎの後の様子を聞かれた。
お吉は笑顔で、
「若様。お陰をもちまして、取り立てて問題はございません」
「そうか、それはよかった」
「ただ、一度、確認で南町の方がいらっしゃいました」
「やはり、来たか」
「はい。ただ、長の休業をしていると申しまして、また、証文などをご覧になって、おみよが若様の下女。お華が北のお手先を務めていると申しますと、あっさりお引き取りになりました」
それに、浩太郎は大きく頷き、
「そうか、それで八丁堀まで、おみよの確認に来たっていうことか」
するとそれには、おさよが口を挟み、
「あれは、確認なんてもんじゃありませんでしたよ」
浩太郎は笑い。
「ただの同心ならな。正面切って、おさよに喧嘩売れる者なんぞ、南はおろか、北にだっていねえからな」
この言葉には、皆が一斉に笑った。
すると、浩太郎は厳しい顔に変わり、
「そうなると、こんどはお華か……どう出てくるかな」
優斎が笑い、
「私なら、奥様よりお華さんの方が厄介ですからな。とてもじゃないですが遠慮しますよ」
お華は、下を向くが、他は大笑いだ。
浩太郎は姿勢を正し、
「さて、女将。今日来て貰ったのは、頼みがあるからじゃ」
「はい。なんなりと」
浩太郎は次の部屋で寝ている、おゆきを指差し、
「実は、あの子の母親代わりに、なってくれないだろうか」
と、浩太郎とおさよは一緒に平伏して頼んだ。
「おゆきちゃんの……」
既に、あらかた想像出来ていたのであろう。
落ち着いた様子で、微笑む。
「あの子の事は、既に、お華から聞いているであろう。俺も一度は、お華のように我が養子にとは思ったのだが、お華と違い、赤子ではない。いきなり武士の娘となるのもどうかと思ってな。お華、おみよと、父上の頃からなにかと面倒を掛けているが、今回もどうか、あの子を預かって貰えると有り難い。どうだろう?」
お華達にも、これは大きな事だ。
また、幼い妹が増える。
「生活の事なら心配いらん。ここから、佐助に米を運んで貰うし、いざともなれば、お華が、天秤棒担いで魚でも売ってもらうから」
「え!」
さすがに、お華は、驚愕の顔になる。
「それに、あの子は寄席にいた子。芸者でも知らない世界ではないはず。それほど障りはないと思うのじゃ」
お吉は、笑顔で、
「まあ、お華の魚屋はともかく、あの子一人なら、なんとか致します。実は私も、今、一人きりですので、少し有り難いのです」
やはり、芸者稼業がなくなり、一人で暮らすのは寂しさがあったのだろう。
「もっとも、先の事は、これからゆっくり考えれば良い。ともかく、あの子は、悲惨な思いで育っている子じゃ。女将なら、厳しく、そして優しく育ててくれるのではないかとな。お華はともかく、おみよを見てればよくわかる」
さすがに、お華は怒った顔で、
「そのお華はともかくっていうのは、なんなの?」
と、抗議の声を上げる。
「おさよも、時々様子見に行ってくれるっていうから、何かあったらすぐに言ってくれれば良い」
「はい」
「それでは、了解してくれるな。あの子の事よろしく頼む」
と再び頭を下げる。
お吉は慌てて、
「若様、もったいないことを、しっかり、娘として育てて参ります」
嬉しそうに平伏する。
「それじゃ、すぐ、養女の届けを出しておいてくれ。それから、お華、おみよ。今日からお前達の妹じゃ。しっかりたのむぞ」
おみよは、嬉しそうに頭を下げる。
「で、お華は魚屋の用意もしとけよ」
という言葉には、大爆笑となった。
すると、優斎が、
「女将さん。一応、針の抜き取りは終わりましたが、正直、全部なのかどうか分かりません」
お吉は、真面目な顔で、頷く。
「ですから、しばらくは充分、注意をして欲しいのです。新たな痛みが走るかも知れません。どうか、よろしくお願いします。そして、しばらくは十日に一度は、診療所に連れてきて下さい」
「はい。承知しました」
お吉が返事をすると、おゆきが起き出したようだ。
寝ぼけながらと言った様子で、
「お、おかあちゃん……」
声を上げる、おゆき。
お吉は、さっそく立ち上がって側に寄り、
「はいはい、おかあちゃんはここにいるよ」
と、言葉を掛けると、不思議な事に、おゆきは、薄目を開けて、
「おかあちゃん……」
と嬉しそうな声で、お吉の手を握った。
皆に笑みが広がった。
~つづく~
子供がテーマでしたので、子供の日に合わせました(笑)
今回もご覧頂き、誠にありがとうございます。
しかしながら、あまり、お目出度い話とも言えず、誠に申し訳ございません。
さて、今回は、江戸時代、実際にあった、子供の虐待事件を参考に書いております。
しかし、書いていて驚いてしまいます。
今と何も変わらない事に……。
さて、次回はとうとう、お華の戦いが始まります。
どうかよろしくお願い申し上げます




