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お華の髪飾り  作者: 本隠坊
16/37

⑭悪魔擡頭

(1)


 その知らせが、世間に轟いた時。

 早速、江戸市中に、落首が出たそうだ。


「町々で おしがる奉行矢部にして どこが鳥居で 何がよふ蔵」


 江戸の、暇を持て余す下級武士たちは、こうした事には、優れた能力を発揮する。

 そして、桜田家にとっては、まさに「何がよふ蔵?」の、驚きの事態となった。


天保十二年も、押し詰まった十二月二十八日の朝の事である。

「姉上!」

 お華が屋敷にやって来た。

 まるで、額に角が生えている様な、思い切り不機嫌な様子で、庭から居間に

ドンドンと音を立てて上がる。

 おさよとおみよは、二人でのんびりお茶を飲んでいたが、あまりの様子に目を丸くする。

「どうしたの、お華ちゃん」

 些か驚いたおさよは、言葉を掛ける。

 すると、お華は、

「兄上は?」

「まだ、お帰りではないわよ。なんだっていうの?」

 不在を言われたお華は、若干落ち着いたのか、

「そ、そう。それじゃ仕方が無い」

 一息つき、おみよが入れてくれたお茶を口にする。

 すると、おさよが、

「あなた。月番でもないし、それに今日はまだ、お休みじゃなかったの?」

 お華は、中村座大火事から、まだ、安静にしているよう、優斎から言われていた。

「そうなんだけどさ。朝からそれどころじゃなかったのよ」

 お華は、眉間に皺を作る。

 そんな時、

「いま、帰った」

 浩太郎が、奉行所から帰ってきた。

 お華は顔を上げ、

「兄上!」

 と、怒った様に声を上げる。

 玄関先で、それが聞こえた浩太郎は、小さく笑う。

「お早いですね」

 と、言いながら出迎える、おさよとおみよに、

「あれは、機嫌悪そうだな」

 顎を、居間に向けると、それには、二人とも頷き、

「まだ、何も聞いてませんけど」

 おさよの言葉に頷いた浩太郎は、おみよに、

「先生に、昼飯一緒にどうかと、言って来てくれないか。お華が怒っているからって言って」

 と破顔する。

 何だか良くわからない、おみよだが、

「はい。ただいま」

 浩太郎と入れ替わり、草履を履く。

 さて、浩太郎が着替えて、居間にやって来ると、お華が何か言おうとしたが、浩太郎は掌をあげ、

「先生が来てからだ」

 ゆっくり正面に座った。

 すると、優斎がやって来て、

「お華さん。背中は大丈夫ですか?」

 と聞くと、お華は、先ほどの不機嫌さはどこへやら、

「ありがとうございます先生。もう大丈夫です。何も心配ありません」

 などと、微笑み混じりで言うものだから、おさよとおみよは、呆れている。

「すみません浩太郎さん。助かります」

 頭を下げながら、言っていると、おみよが、お酒と軽いつまみを盆に載せ用意している。

 あらためて、浩太郎は、お華に、

「お前は、南の事で来たんだろう?」

 と言うと、再度、火が点いた様で、

「あのね。今日はさ、先生の言う通り、のんびりしてたのよ。ところがさ、朝っぱらから、町役人が、突然、長屋の住人調べにやって来たのよ」

 それには、浩太郎も驚き、

「朝からか?」

「そうよ。だいたい、私がお手先やってるの知ってるくせによ。そしたら、役人やってる小間物屋の源兵衛さんも「いや、分かってるんだけど、一応、全部にやんないと南の旦那に怒られちまうんだよ」なんて言うからさ。何でだって聞いたら、「お奉行様が変わったから」なんて言うもんだから、私もビックリよ」

 胸に手を当てながら、一気に話す。

 その言葉には、優斎が、

「え? お奉行様、交代になったんですか?」

 と驚く。

 浩太郎は頷き、

「その通りなんだ。今日は北の奉行所も朝から、大騒ぎだよ。実は、これまでのお奉行矢部様が、お役御免で、評定所で、お裁きを受けてらっしゃるんだよ」


 南町の奉行、矢部定謙は、天保の大飢饉の折、当時の南町与力による不正事件の取り扱いについて、問われたのである。

 詳細は省略するが、事件そのものは天保七年に起きた事で、勿論、当時の南町奉行は別人であるにもかかわらず、様々な理由を付け、処罰となった。

 

 優斎が不思議そうな顔で、

「何だかよくわかりませんな。もう五年も前の事でございましょう」

 浩太郎も頷き、

「先生や、お華にも手を貸して貰ったが、例の千住の事件を考えると、お助け米の不正など、決して許される事ではないが、それにしてもあまりにも無理矢理じゃ」

「それじゃ、南の前のお奉行様も、お調べを?」

「そこじゃ。その当時の筒井様(筒井伊賀守政憲)は、閉門蟄居のお裁きを受けたが、矢部様は御家断絶じゃ」

 それには優斎も眉を寄せ、

「浩太郎さん。これは狙い撃ちではないでしょうか」

「俺もそう思うよ。だから、今日は元々、非番だし何だか見廻りに行く気にもならず。帰って来ちまったよ」

 浩太郎は、情け無さそうな笑いだ。

「ねえねえ、兄上。それで今度のお奉行が、鳥居様って本当の事なの?」

 お華は、眉を寄せ聞く。

 浩太郎は、ガックリと頷き。

「その通りじゃ」

 これには、おさよ、優斎も驚愕の顔になった。

「な、あの鳥居様?」

「そうじゃ先生。これは明らかなご老中のご粛正じゃ」

 優斎も、呆れ顔で、

「もう、手段を選ばずって事ですねぇ」

「そう。町奉行就任の沙汰があったのは、本日の四つ(午前10時頃)。お華のそれは、もっと早くじゃ。これは、まさしく本気という事じゃ」

 お華は、驚いた。

「お奉行になる前から、もうそんな……」

 浩太郎も頷きながら、

「とりあえず、お華もおみよも、今のところは問題なかろう。ただ、優斎先生。あんたは油断してはならん」

 優斎は驚き、

「え! じゃまた?」

「おかしな事で、これまでは目付筆頭という、高官過ぎて、かえって手を出すのも面倒だったが、町奉行になれば、ちょっとの事で奉行所に引っ張れる。気を付けてくれ」

「承知しました」

「内与力の加藤様がさ。感応寺やら、芝居小屋なんか、お華とおさよが、全て止めちまったから、幽霊が悪魔になっちゃったってよ」

 と大笑いする。

 それには、おさよとお華は、恥ずかしげに笑う。



(2)

  

 さて、状況が分かった、お華は屋敷を辞し、長屋に帰ろうと、南新堀を永代橋に向かって歩いていた。

 すると、向こうの方から、お華の知った顔が近づいてくる。

 そちらも、お華と気づいて、和やかに走り寄ってきた。

 それは、本所の遠山家に奉公している、おたかの妹、おかよだった。

 感応寺の事件の時に、お華が助けた、おたかと娘のおたみ。そしておたかの妹、おかよである。

「お華さん」

 手を降り、当年17歳のおかよが、目の前にやって来た。

「あら、おかよちゃん。どうしたのこんなところで」

 おかよは頷き、

「あのね。お奉行所に行こうと思ってまして」

「お奉行所?」

「はい。妙な事があって、姉に、奥方様にご相談するよう頼まれたんです」

「奥方様? 妙って、何かあったの?」

「はい、えらく怖がってまして」

「わかったわ。話は道々聞きましょう。お奉行所には私が連れて行ってあげる」

 すると、おかよは、嬉しそうに、

「ありがとうございます。私も初めて行くので、ちょっと怖かったんです」

二人は連れだって、北町奉行所に向かった。

 途中、お華は、歩きながらおかよから事情を聞き、

「妙な侍ね……」

「ええ、姉さんは、えらく慌ててまして、私が替わりに来たのです」

 お華は、少し首を傾げ、

「気持ちは分かるけどね……で、おたみちゃんは?」

 それには、おかよも笑い。

「おたみは、まだ何も分かりません。ただ、お姉ちゃんが外に出ないように厳しく言ってますので、それで泣いてます」

 お華は笑って、

「そりゃそうね。まあ、仕方無いか……」

 などと話し合いながら、二人は奉行所に到着し、奉行所私邸の表玄関から裏に回り、庭に出た。

 すると、縁側の廊下を、お華の見知っている女中が通ったので、奥方、けいに取り次ぎを願った。

 暫く待っていると、二人は座敷に上がるよう言われ、けいの部屋に通された。


「お華ちゃん。おかよもどうしたの?」

 けいは、気さくに問いかける。

 二人は、平伏し、お華が挨拶し、先日の怪我について、お礼を言った後、お華は、

「実は……」

 と、おかよの事情を説明した。

 けいは頷いたが、お華に、

「お華ちゃんはどう思うの?」

「はい。話の筋は通っているのですが、ただ、ちょっと遅いのではと。あれはお目付に関わる事ですが、南のお話なんか考えますと、今更って、思うのです」

 けいは頷きながら、

「そう。お華ちゃんも聞いたのね。南の事。それから考えれば、私もそう思うわね」

 お華は笑顔で、

「とは言え、おたかさんが、怖がっているのも良く分かります。ですから奥方様にお許しを頂ければ、私と、おさよの姉さんで、ちょっと様子を見に行こうかと思っているのですが、いかがでしょう」

 それには、けいも笑って頷き、

「いいわ。今、旦那様は、お城だから、私から伝えておいてあげる」

 これには、お華とおかよは頭を下げ、

「ありがとうございます。兄は、あまりの衝撃で、今日一日、使い物になりませんので、女二人で、お屋敷をお守りしたいと思います」

 これには、けいも大笑いで、

「それは、仕方無いわよ。でも、ちゃんと言わなきゃ駄目よ」

「はい」


 お華達はそこから辞去すると、おかよに、先に屋敷に帰って、おたかに伝える様に言い、自分は、また八丁堀屋敷に向かった。

 それを聞いた、おさよが、嬉しそうに承知したのは言う迄もない。

 しかし、ふて寝している浩太郎は驚愕する。

「なんで、そんな事になるんだ」

 お華は、些か冷笑し、

「仕方無いでしょ。奥方様の仰せですからね。兄上が、不貞腐れている事も申し上げております」

 浩太郎はガックリと、両手を畳に付ける。

 そして慌てて、寝衣を脱ぎ始め、

「ばっかやろ。すぐにでも奉行所に行かなきゃならない!」

 そんなこと言っている浩太郎をよそに、おさよは、仕度を調え、おみよに後を頼んで、

「さ、お華ちゃん行きますよ」

 と、大いにやる気になっている。

 お華は、おみよに、

「じいちゃんの様子も見てきて上げるね」

「ありがとうございます、お姉さん」

 に言葉を背に、二人は早速、屋敷を出た。

 すると、後ろから、佐助が走ってきて、

「奥様! あっしも参ります。旦那様がついて行けと」

 おさよが振り向き、

「それはご苦労様」

 おさよとお華は、大笑いだ。


 二人は、永代橋を渡り、本所に向かう。

 途中、おみよの祖父、鍛冶屋、伊平の店に向かった。

 それは、南六間の堀沿いから奥まった所にある、小さな店だ。


「こんにちは、おじちゃん」

 お華が明るく、戸を開けて入っていく。

 すると、机の上で作業をしていた、伊平が顔を上げる。

「これはこれは、お華お嬢様」

 と言った後、後ろのおさよを見て、

「え、奥方様まで! これはわざわざのお運び、恐れ入ります」

 框際に出て、平伏する。

 框に二人座り、佐助は笑顔で少し離れて、屈む。

 おさよの、

「突然でごめんなさいね」

 の言葉に、伊平は更に平伏して、

「何を仰います。こちらこそ、おみよが大変なお世話に。誠にありがとうございます」

 そして、

「あれは、ご迷惑お掛けしてないでしょうか。若様のお心遣いは大変ありがたいのですが、それが心配で心配で……」

 おさよが、微笑んで、

「心配ないわよ。おじさんと一緒で、器用な子ね。わたしも助かっています」

 するとお華が、

「お母さんなんか、やっとまともに家事を教えられるって。私と姉上は、全然駄目って言うのよ~」

 それには、佐助まで大笑いだ。

 おさよは、笑顔で怒りながら、

「もう、お華ちゃんは。でもその通り、だから安心して。後は、お嫁に行くだけよ」


 そんな話の後、伊平は、

「そうそう、お華お嬢様。簪、出来上がっています」

 と、布に並べられた、新しい簪手裏剣十本と、研に出していた数本を目の前に差し出した。

「毎度毎度、悪いわね」

「しかし、お華様。お話は若様からお聞きしてますけど、一段と腕が上がった様でございますね」

「そう?」

「ええ、傷の入り方が全て一緒。これは、いつぞやの大旦那様とそっくりになって参りましたよ」

 これには、本当に嬉しそうに、

「本当?」

「ええ、間違いございません」

 すると、伊平は、今度はおさよに、

「小太刀お持ちなら、拝見させて下さいませ」

「あら、私のも見てくれるの?」

「当然にございますよ」

 小太刀を渡された伊平は頭を下げて、鞘を抜く。

「ほう~」

 と感嘆の声を上げ、

「よく、お手入れなされておられます。昔、大旦那様がお嬢様を連れ、刀の研ぎ方をお教え致しましたが、その通り、今でも丁寧にやってらっしゃるとは……」

 伊平は涙ぐんでいる様に見えた。

 そして、道具箱から細い鉄の棒で、一度「カン」 と優しく音を立てて叩き、大きく頷く。

 刀の疲労度を測ったのだろう。

「うん。これなら、まだ、当分大丈夫でしょう」

 それにはおさよが、

「そう?」

 伊平は和やかに、

「ええ。一合戦でも、ふた合戦でも」

 などと笑いながら、納めた小太刀をおさよに返し、

「しかし、お嬢様お二人をお迎えして、刀談義ですから。おかしなものですな」

 すると、お華が、伊平に、

「最近、この辺の様子はどうなの?」

「そうですな。若様にも申し上げましたが、御改革で益々、荒んできたと思われます。その証拠に、刀を研ぎに来る者など、トンと減ってしまいました」

「やっぱりそうなの」

「まあ、不景気ですからな。刀を研ぐ金も惜しいと言うところでしょう」

 この深川本所あたりは、貧乏御家人が、「ここは川向こうだからな」などと、自虐的に笑う場所。

 景気が悪くなると、御家人、浪人など、生活の目処も難しくなる。

 結句、知らぬ間に、悪の道へ引き入れられるなどは、典型的な道のりだ。

「兄上も、のんびりしている場合じゃないか……」

 と、お華とおさよは顔を見合わせる。

「ええ」

 と伊平は頷き、そして、

「こんなときは、何か起こる様な気が致します」

 小声で、独り言の様に言った。




(3)


 二人は、伊平への挨拶を済ますと、遠山の屋敷に向かった。

 門番は、二人を知っているから、挨拶のみで通してくれた。

 この屋敷は、先日、感応寺事件において、一度、来ているからである。


 現在の、墨田区菊川にあった、この屋敷は、ご存じの方も多いと思うが、

 あの、長谷川平蔵が、嘗て住んでいた屋敷でもある。

 これまで、芝居などで、一番知られている江戸時代の有名人。

 その鬼平と金さんが同じ屋敷というのは、なかなか面白い縁を感じる。

 

 さて、二人は、まず、おかよ達が住む、武家長屋に足を向けた

 すると、玄関前で地面に絵を描いて遊んでいた、おたみが、お華に気付き、

「お姉ちゃん!」

 満面の可愛い笑顔で、駆け寄ってきた。

 早速、お華に頭を撫でられると、すぐ振り向いて、

「おっかさん! おっかさん!」

 長屋に走っていく。

 慌てて、おたかが出てきて、二人の前で、深く頭を下げる。

 三人輪になって、真ん中におたみが見上げる中、話を始める。

「ねえ、そいつら、どんな奴だったの?」

 お華が聞くと、おたかは名状しがたい暗い顔で、

「こちらにいらっしゃるお侍の方とは全く違っておりますが、お侍でした。浪人かどうかまではちょっと……。私の命など、今さらどうでも良いのですが……」

 下で見上げている、おたみの頭を撫で、

「この子にまで、何かあってはと、仕方無く、妹に頼んで、奥方様にご相談をと」

 おさよが頷き、

「もう大丈夫よ。心配しなくてもいいわ。でも、確認したいのだけど」

「はい」

 おたかは、頭を下げる。

「嫌な事思い出させて悪いけど、そいつらは、あの時の侍とは、様子が違うってのは間違いないのね」

「はい。あれは、こちらにいらっしゃるお侍と、それ程、変わりございませんでした。いえ、むしろ立派だったかと。でも、今回のはちょっと……」

 すると、おさよが、

「ごめんなさいね。もう一つだけ。その侍を見たのは、いつ頃なの? 刻限とか」「はい。一番初めに見たのは、昼前でした。お屋敷の方に頼まれて……」

 おたかは、大門の斜めを指差し、

「頼まれて、あそこにある蕎麦屋に注文しに言ったのです。その時が最初です。なんだか、お屋敷の塀沿いを、背を伸ばしながら見ていたのを、蕎麦屋さんの方から、見かけたのです。私は、用事が済むと顔を隠して、お屋敷に慌てて入りました」

 おさよは、少し笑いながら、

「それだけ?」

 すると、

「い、いえ。今度は朝方、担ぎの卵屋さんに、声を掛けた時も、同じ様に。きっとあれは私を探っているのではないかと……」

 もう、おさよは大笑いして、

「絶対に大丈夫。あなたを狙ってるんだったら、とっくに斬られてるわよ」 

 笑顔で断言した。

「そ、そうなのでしょうか……」

おたみも含めて、女四人と佐助は、長屋に入って行った。


 九尺二間の長屋と同じ間取りの部屋に座った、お華も、和やかに、

「姉上の言う通りね。そんなんじゃ、付け狙ってるとは言えないよ」

 言いながら、幼いおたみの頬を撫でながら、佐助に言う。

 佐助も笑顔で頷く。

 

 おたかは、二人の言葉に、ようやく安心したようで、

「申し訳ありません。その様な事で、大騒ぎ致しまして……」

 と、深く平伏する。

 すると、おさよが、

「目付っていうのは、その下の御徒目付や小人目付で併せて、三千人ぐらいいるのよ。確かにあれは、危ない事だったけど、そんな連中が、わざわざ卵を買ってるおたかさんを斬るなんて、それこそ自分が危ないわよ」

「へ~そんなにいるんだ。そうね。見張るにしても、屋敷の周りをウロチョロってのも、なんだかね」

 と笑う。

 すると、おたえも訳も分からず一緒に笑う。

 しかし、おさよは真面目な顔になり、

「その心配はないけど、この時期だから、目付じゃ無くても、ちょっと気になるわね」

「そう? 姉上」

「ええ。とりあえずハッキリさせなきゃ」

 そして、おたかに、

「あのね。この屋敷の外を見張れる所ってあるかしら?」

 と聞く。

 するとおたかは、

「それでしたら、先程申しました蕎麦屋の中二階はどうでしょう?」

 中二階というのは、言葉だけ。

 ただの二階である。

 幕府は、二階建ての家を禁止しているから、要するに言い訳である。

「そう。それじゃさ、そこの部屋を借りましょう」

 すると、おかよが、

「私が、お願いに行ってきます。あそこのご主人知ってますから」

「そう、じゃお願いね。お上の御用って言ってくれる?」

「はい」

 おかよは、早速外に出た。

 おさよ達も、長屋を出て、屋敷内の、御用人に挨拶し、来訪の趣旨を説明した。

 御用人は、突然の事であったから、かなり動揺していたが、奥方様の意向と聞くと、納得したようで、笑顔で、おさよとお華に礼を言ってくれた。

 二人は、また玄関先を辞し、長屋に帰ろうとしたとき、そこに、笠をとった、内用人の加藤が、手を振ってやって来た。

「これはこれは加藤の殿様」

 二人は丁重に挨拶すると、加藤は笑って、

「奥方様からの仰せで来たのだ。お華とおさよが行ってるってな」

 おさよが、

「これはわざわざ、誠に申し訳ございません」

 すると加藤は笑って、

「そなた達がおるなら、わしが来る事も無いんだがな」

 それには、三人が笑った。

「ただ、お奉行は御用繁多で、とてもじゃないが行く暇ないし、そうなると奥方様も手が回らない。そういう事じゃ。すまんがよろしく頼む」

 それには、おさよが、

「いえいえ、加藤のお殿様がいらっしゃるなら、ありがたい事にございます」

 するとお華が、

「加藤のお殿様。私たちはとりあえず外から、この屋敷を見張りたいと思ってます。何だか妙な話ですが……」

 加藤は笑い、

「そうよな。じゃが、それが順当じゃろう。ただな、お奉行も仰ってたのだが、今この時期、目付が、この屋敷を見張るってのは、ちょっと考えられないと仰ってたがな」

「そうなんでございますよ。今さら、おたかさんに仕返しなんて」

「うむ。ただな、状況としては少々おかしい。まあ、おさよとお華が居れば大丈夫だろうと笑っておいでだったよ」

 これには、おさよも和やかに、

「そう仰って頂くのは、大変ありがたい事にございます」


 そんな話をして、加藤は屋敷に。お華達は、おかよが用意してくれた蕎麦屋に挨拶して、の二階に上がった。

 二階の障子を開けると、門外が一望だ。

「姉上、どのくらい見張ってる積もり?」

「う~ん。明日の夜までは見ないと、せめて、おたかさんが言ってた侍だけは確認しないと」

「そうよね……」

 お華は少し、面倒そうだ。

 すると、おかよが、上がってきて、

「お華さん。親分さんがいらっしゃったけど」

 省蔵親分が、階段を昇ってきた。

 おさよが、

「あら、親分。旦那様に言われて?」

 親分は和やかに、

「大至急と、使いが来ましたよ」

 と笑い、

「一体何なんです?」

 それには、おさよが、事情を説明した。

「ほう、なあるほど。そりゃ少々、気になりますな」

 おかよが持ってきたお茶をすする。

 すると、お華が、

「まあ、怖がる程のもんじゃないと思うんだけどさ、時期が時期だから、油断は出来ないしね」

「そうですな。まあ、お二人は気楽になさってて下さいませ。平吉もおっつけやってきますんで、見張りは私どもにお任せを」

 おさよは、微笑み、お華は、如何にも助かったと言う様な顔。

「ごめんなさいね、親分」

 おさよは、軽く頭を下げる。

「何をおっしゃいます」

 親分は笑いながら、こちらも頭を下げる。


 その内、おたかも、おたみと一緒に上がってきた。

 おたみは、お華がいるから喜んで、じゃれついている。

 それを和やかに見ていると、親分が、

「あれは……」

 と、声を上げた。

 すると、おみよとおたかは、窓に寄った。

 屋敷の壁に沿って、男が妙にゆっくり歩いている。

 しかし、おさよが、

「あれは、町人でしょ」

 おたかも、

「ええ、お侍でしたから」

 と、二人とも安心して、座敷にまた座る。

 しかし、親分は少々気になった。

 どうも、親分から見ると、不可解な歩き方の様に見えた。

「あっしはやはり気になりますんで、ちょっと付けてみます」

 と、急いで、階段を降りていった。

「どうしたの、親分は?」

 お華の言葉におさよが、

「さすがに親分だから、気になるとほっとけないのよ」

「ふ~ん」

 その日は夕刻になり、後から来た平吉に見張りを頼み、おさよ、お華の女連中は長屋に戻って行った。


(3)


 さて、そろそろ夕食を。

 と、おさよが思った時、大門が開いた音が、長屋まで聞こえた。

「どなたか、いらしゃったみたいね」

 お華が、のんびり言った時、突然、「入るぞ」と長屋の腰高障子が開いた。

 内与力の加藤だった。

「おい、おさよ、お華」

 笑顔で声を掛け、

「至急、屋敷に。ご挨拶せよ」

 それにはお華が、

「奥方様が、いらっしゃったのですか?」

 何気なく聞くと、加藤は首を振り、

「いや、若様、国太郎様のおいでじゃ」

 これには、おさよとお華は驚いた。

 若君は名を景纂。通称は父親と同じく金四郎。幼名は国太郎である。

「わ、若様? お奉行の?」

 更にお華が聞くと、加藤は大きく頷いた。

 さすがに、おさよが、

「あの、加藤様。私は勿論、お華でさえ、若様には、お会いした事ございませんが、いきなりご挨拶して、構いませんのでしょうか?」

 加藤は大笑いで、

「あのな、奥方様が命じられたそうじゃ。じゃから、問題は無い」

「は~」

 と、おたか達に、先に食事を取るよう行ってから、二人は、お些か不安な気持ちで、加藤について行った。

 途中、お華は、加藤に、

「あの、加藤のお殿様。若様は今どういうお役目をなさっているのでしょう」

 と聞いた。

「ああ、国太郎様はな……」

 遠山景纂(かげつぐ)は遠山景元の次男だが、嫡男である。

 この頃、江戸城本丸、小納戸役を務めていて、二十過ぎの若者である。


 二人は、多少緊張しながら、居間に落ち着いた、景纂の前に出た。

「始めてお目にかかります。奉行所同心桜田浩太郎の妻、おさよにございます」

「その妹、お華にございます」

 二人は、深く平伏すると、景纂は笑顔で、

「おう。ご苦労じゃ。そなた達の事は、よく父上、母上からお聞きしていたが、ようやく逢えた。もっと近う寄れ」

 なぜか愉快そうだ。

「先日は、火付から父上、母上を助けてくれたそうな。わしからも礼を言う」

 真摯に頭を下げた。

「そんな、とんでもございません」

 二人とも恐縮しながら、

 おさよは、その素顔を見て、すぐに母親、おけいの面影を感じ、微かに笑みが零れた。

 確かに、親子と納得出来る。

 近づいた、お華が、

「あの、若様がいらっしゃるのでしたら、もうちょっと粋な格好してくるのでした。本当なら、三味で、騒ぎ歌でも歌いながら寛いで頂く所ですが、何とぞご勘弁下さいませ」

 などと言うものだから、おさよが、

「これ!」

 と叱ったが、景纂は大笑いで、

「おうおう、そなたが深川一番の芸者か! 父上から聞いてるぞ。よいよい。今夜はわしも、母上から突然、頼まれて来たのだ。気にせんで良い」

 そんなこと言うものだから、お華が、

「若様。最近は芸者稼業も、難しい事になりまして、兄の同心稼業を手伝っております。似たようなものでございますね」

 と笑う。

 おさよが、再び膝を叩いたが、これには、景纂や加藤も大笑いとなった。

 そして、景纂は少し真面目な顔に変わり、

「どうじゃ、様子は」

 小声で聞く。

 これにはおさよが、

「今のところは、変わりございません。ただ、」

「ただ。とは?」

「はい。今は何が起こっても不思議がございません。細かいことでも気にしませんとなりません」

 景纂は頷き、

「そうじゃな。お城でも騒がしいからの。父上のお立場を考えると、そのままには出来ないということころか」

「はい。今のところ、お目付のお調べという様に考えておりますが、いかがにございましょう」

 それには、景纂も少し難しい顔になり、

「それはわしも、母から、チラっと聞いたが、今、この時期、そんな真似するかの?」

 景纂は、城勤めだから、大まかな目付の動きは分かる。

「それは、どういう事にございましょうか?」

 おさよの言葉に頷き、

「今日、目付筆頭が、南町奉行になったばかりじゃ。目付にしても、あの鳥居に従っている者ばかりでは無い。先日の火付の様な事があると、お上の耳にも入ってるし、さすがに目付じゃ、飛び火で今度は自分の首が危なくなる。普通なら、しばらくは、おとなしくしていると思うのじゃ」

 おさよとお華は、同時に頷く。

「それにな、鳥居も南になった以上、これから目付連中は表だって使えまい。これは御報に触れる」

 御報に触れるとは、


 前任の矢部が、お咎めを受けたのはまさに、そこである。

 矢部は、勘定奉行の折に、南町の不正を暴いた。

 しかし、自分が奉行になると、その連中の調べを疎かにした。

 これが、お役御免の一因だが、それよりも、他の奉行が、町奉行の不正を暴くというのは、役職の範囲を超えた事になり、これは、幕府では一番嫌われる事で、この事も原因の一つとされている。

 この辺を、改革派とされる者達に、うまく利用されたと言ってもよい。


 おさよは、

「若様、大事なお話、お聞かせ下さいましてありがとうございます」

 すると、景纂は、手を振り、

「なに、大した事ではない。まあ、今日明日、しっかりやっておくれ」

 と、軽く頭を下げる。

 おさよ達は恐縮して、お華が、

「若様にはどうか、ごゆっくりして下さいませ。たまには、のんびりするのも良い事にございます。詰まらぬ事はわたしたちにお任せを」

 深く平伏すると、景纂と加藤は大笑いする。

「おお、ありがたい。のんびりさせてもらうわ」

 

(4)


 翌日、朝方。

 平吉が長屋にやって来た。

「あら、平吉さん」

 の、おさよの言葉に、

「へい。若から、申し付けられまして」

 それにはお華が、

「あっちも、こっちも若様か」

 などと、和やかだ。

 すると、おさよが、

「旦那様の方は、大丈夫なの?」

 平吉は苦笑し、

「いや、若様は、町役人への知らせばかりだから、気にせんで良いと……」

「ふ~ん。じゃ、みんなであの二階にいきましょ。おたかさん。行きますよ」

「はい。でもお屋敷の方はよろしいんでしょうか?」

「大丈夫。お許し頂いているから。何より、あなたに確認して貰わないとね」

 夜中見ていた、親分と佐助に代わり、女達と、平吉が見張りを変わった。

 暫くすると、おたかが、小さな声を上げた。

 お華が、鋭い目で、

「あれ?」

「はい」

 震える声で、おたかが返事をするのだが、お華は、首を捻る。

 そして小声で、

「姉上、やっぱり目付って感じじゃないよ」

「そうね。でもしきりに、様子を伺って居る事は間違いないわね」

 見張りに気づかないその侍が、屋敷の周りを散歩の様に装っている。

 おさよは、平吉に、

「平吉さん。悪いけど、あれお願いできる?」

 付けろと言うことだ。

「承知しやした」

 平吉は、急いで階段を降りていく。

 それを見送り、

「でもさ、姉上。あの人。何がしたいんだろ」

 苦笑して聞くが、おさよも苦笑し、

「知らないわよ。でも、随分と暇なお人ね」

 そして、それが通り過ぎると、おたかに、

「もういいわよ。長屋に戻って、おたみちゃんの側にいて。何かあったら呼ぶから」

 礼を言いながら、おたかは階段を降りていく。

 人が減って、ゆったりとなった、柱に寄りかかりながら、

「もう、あれがハッキリすれば。今日のお仕事は終わりかな?」

 お華が、お気楽な感じで、言うと既に戻って来ていた親分が、

「昨日の、お屋敷をうろついていた男でございますが……」

 と、ボソっと話始めた。

 おさよが、外を見ながら、

「気になるって、さっきのあの侍じゃないの?」

「ええ。少々気になりまして」

 省蔵親分は、難しい顔で腕を組む。

 お華が、興味深そうに、

「そうだったわね。で、どうだったの?」

「いえね、あの時。どうもその歩き方が、気になりまして……。なんだか回りの塀の高さを測っていたような。まるで、盗賊の下見のような素振りだったんで」

 しかし、それにはおさよが、

「盗賊って。そうだったっけ? よく分かったわね。でも、ここは武家屋敷よ。しかも、南の遠山様のお屋敷。ここで?」

「ええ。わたしもそうは思いましたが……。ただ、前例が無い訳ではございません」

 それにはお華が、

「前例?」

「はい。昔、大旦那様、唯一の取りこぼしの盗賊でございます」

 それには、おさよが気づいた。

「まさか、それって鼠?」

「はい」

 お華が、不思議な顔で、

「お父上が鼠?」

 などと言うから、二人は笑い。

「お華お嬢様。鼠小僧次郎吉でございますよ。 十年間忍び込んだ屋敷が、九十五件、盗んだ金が三千両の義賊とも言われる大盗賊です。お嬢様はまだお小さい時でしたから、憶えていらっしゃらないかも知れませんが」

 お華は、ようやく気が付いたようで、

「ああ、あの有名な」

 しかし、おさよは、

「でも親分。それにはちょっと大袈裟じゃない?」

 その言葉には、親分も、

「はは、その通りにございますが、ただ、同じ様な事考えている連中かもしれません」

「それは、どういう事?」

 親分は頷き、

「はい。今はどのお(たな)も不景気にございます。こんな時に商家を狙うより、武家屋敷を狙った方が、金を奪い易いのではと言う事にございます。確かにここは遠山様のお屋敷。自ら捕まりに行くような屋敷ではございますが、そこが逆に狙い目と考えていてもおかしくありません」

 その言葉には、おさよもお華も、少し黙った。

 すると、お華が、

「ねえ親分。鼠小僧ってのもそうやって?」

 それには、親分は手を振って笑い。

「いや、あいつは、そんなこまっしゃくれた事なんざ考えてませんでした。ただ、身が軽いのと、武家屋敷の夜は、寝間の他は殆ど無人になるって事を知っていただけでございます。しかし、その身の軽さは、あっしから見ても驚くものでございました」

 お華は、和やかに、

「父上は、それを逃しちゃったんだ」

「へえ。一度、深川の武家屋敷で、屋敷の壁から飛び降りて、逃げるところを見つけたことがあったんですが、大旦那は、小柄を打ちませんでした。嫌だったんでしょうね、そういう捕まえ方が」

「なるほど、何が何でも、この手でって言う事ね」

「はい。あれが、大旦那様、唯一の負け戦ってところじゃないかと」

 お華は、

「いいわね。それこそお父上らしい」

「まあ、昨日のは、そんな洒落たもんではないでしょう。とは言っても、あれはちょっと見逃せません」

 するとおさよが、

「わかったわ。で、そいつらは、やってきそうだと思う?」

「一歩前だと思います。屋敷の様子、中の人数をこっそり確認しているはずです。それでどうするかと考えているところでしょう」

 お華は何だか嬉しそうに、

「あら、なんだか妙な事になってきたわね」

 そんなことを言って外に目をやる。

「まあ、決まった訳じゃないから、今日一日。しっかり見張ってましょ」

 おさよは、少し笑みになって、窓の障子に頭を付ける。


 昼も過ぎると、平吉が、戻ってきた。

 些か、緊張の顔である。

 お華が、笑顔で、

「お疲れ様、ずいぶん早かったわね」

 と、声を掛けると、

「いや、驚きましたよ。あの侍は○○に住む、御家人でしたよ」

「御家人?」

 おさよが、眉を寄せて聞くと、

「ええ、なんでも○○の侍だそうで、しばらく見張ってますと、またすぐに出かけました。すると今度はなんと南町のお奉行所に……」

「お奉行所!」

 お華とおさよは一緒に声が上がった。

「なにそれ」

 お華が聞くと、

「いや~私も驚きましたよ。どうして○○の御家人が入るのか。ただ、あまりに近いとこなんで、門番にも聞くことが出来ず、それにいつまでも見ている訳には参りませんので、帰って来たって訳です」

 さすがに、おさよも、

「○○の侍ね~。何考えてるんだろ……」

 言いながら、首を傾げた。

「まあ、いいわ。一応、加藤様にお話してくる」

 と、おさよは、下に降り、屋敷に向かった。

 お華は呆れ気味で、

「じゃ、親分。あとは、その気になる男だけだね」

「ええ。また来る事でも無ければ、無事にすみましょう」

 皆には、安心感が漂い、お華などは横になって居眠りを始めた。

 親分と、平吉は苦笑しながら外を見張る。


 しかし、夕刻になって、事態は急展開になった。

 日が陰り始め、夜の雰囲気が流れ出すと、外を見ていた親分の背筋が伸び、見ていた顔を半分隠した。

 横の方で、壁に寄りかかっていた平吉が、その様子を目にして、

「どうした、とっつあん!」

 掠れた声で問いかける。

 すると、

「き、来やがった。また、あいつが……」

「え!」

 平吉も半分顔を出して、外を見る。

 確かに、町人風の男が、壁から少し離れて、中の様子を伺ってる様だ。

 もう、壁の高さでは無い。

 親分には、侵入位置を確認している様に見えた。

「お華お嬢様」

 と、呼ぶ前に、お華は既に、離れて起きて見ていた。

「来ちゃったの。何だか変な事になったわね。じゃ、親分と平吉さんはあの男を頼みますね。私は姉上と、屋敷で支度するわ」



 その男は一通り、見て、門番に誰何されぬ様、そこから離れていった。

 それを確認し、皆は一斉に動き出した。



 一方、おさよは、屋敷の小部屋で、内与力の加藤に報告を行っていた。

「なに、目付で無く。○○の御家人じゃと?」

「はい。繋がりは全く分かりませんけれども、南の手の者らしゅうございます」

 加藤は首を傾げ、

「何のためにここに……」

 独り言の様に、沈思する。

 おさよは、

「しかしながら、当初考えておりました事態では無く。少々、安心しております」

 言いながら、頭を下げる。

 それには、加藤も、

「まあな。後の事は、お奉行にお任せする他あるまい」

 などと、話し合っている所に、お華が現れた。

 加藤が笑顔で、

「おう、お華。ご苦労じゃ」

 と、言ったのだが、お華の報告を聞き、青ざめた。

「な、何だと? 盗賊だと?」

「ええ。今、親分達が確認に向かっております」

「じゃ、例の話とは全く別か?」

 それにはお華が大笑いして、

「はい。全く」

 と、おさよにも笑いかける。

 しかし、加藤は、

「しかし、ここはお奉行のお屋敷じゃ。正気の事か?」

 お華は頷き、

「親分が言ってました。だからこそ狙い目だと。まさかお奉行の屋敷にと言うのが付け目だと」

 加藤は、あまりの展開に、言葉を失った。

 すると、おさよが、

「加藤様。それなら、それで迎え撃つ用意は出来ております。あとは、御家中の方々と若様のお心次第かと」

 それには、

「準備は万端か」 

 加藤は大笑いした。

 そして、おさよは、

「これは、お奉行様はともかく、奥方様には大変お喜びになるでしょう。加藤様。是非、若様を上手く……」

 加藤も、おさよの言いたい意味が理解出来たらしく。

「なるほどな。そりゃそうじゃろう」


 すると、親分が来たと、女中の声がかかった。

 お華が、

「加藤様。よろしゅうございますか?」

 と了解を取り、座敷に招くよう願った。

 すると、あたふたと親分には珍しく、慌てた様子で部屋に入ってきた。

 それには、

「どうしたの親分。そんなに慌てて」

 お華が微笑む。

 そして、おさよが、

「内与力の加藤様です。ご了解頂いたので、構わずご報告を」

 と言われ、省蔵親分は、状況に気づいた様で、丁重に挨拶した。

 加藤は笑いながら、

「ここは奉行所ではないから、気にせず話してみよ」

 と優しく声を掛ける。

 親分は、もう一度深く平伏し、口を開いた。

「奴は、深川の荒れた屋敷に入って行きました。そこには、大体十四、五名いると存じます。あっしも、盗みの相談かと思っていたのですが、中を窺うと、何と朝方、お屋敷を彷徨いていた、あの侍が居たのでございます」

 一気に言って、平伏する。

 これには、さすがに皆驚いた。

 加藤が、慌てて、

「それは、南に行った侍と言う事か?」

 親分は頭を上げ、

「へい。間違いございません。人相は勿論、着物もそのままにございました」

 そこで、お華が、

「ねえ、姉上。どういうこと?」

 おみよは、目を釣り上げて、

「要するに、盗みでも何でも無く、遠山様のお屋敷で、騒ぎを起こそうっていうだけの連中って事よ」

 加藤も、頷き、

「そう。屋敷に盗賊と言うことで乱入し、いかにお奉行が、自宅の盗賊さえ止められないお奉行だと言いたいのだろう」

 お華は、親分に振り向き、

「じゃ、あの回りをうろうろしていた奴らは?」

「ええ。朝の侍は、中の様子、つまり人の多さの確認。夕方の奴は、進入口の確認っていうことでしょう」

 おさよは、呆れ顔で、

「あの、鳥居ってお奉行は、そんなことやる方なのですか?」

 加藤は怒りの顔で、

「殿は、上様にも名奉行と認められている。彼奴らは、感応寺やら、芝居小屋で失敗が多いからな。ここで巻き返してやろうって事なんだろう。おそらく、集まった連中も金で集めた浪人だろう。一切、自分の名前は出していないに違いない。如何にも、陰険なあの男のやりそうなことだ」

 しかし、お華は声を上げて大笑いする。

「でもさ、全く、何も分かって無いわよね。ねえ、姉上」

 これには、おさよも吊られて笑い。

「そうそう。加藤様。これは若様、功名を上げる、絶好の機会にございます。どうか、お指図の方、よろしくお願い申し上げます」

 お華も口角を片方上げて、

「今日は、簪もいっぱいあるしね。御家中の方々には、高張りとお縄の準備さえして頂ければ充分でございますよ」

 どうやら、二人に火が点いたようだ。

 親分は「あらあら」という顔をしているが、加藤は如何にも嬉しそうに、

「ふふ、そうじゃったな。こちらには最強の女が二人もいたか。よしよし、若君にお覚悟を決めて頂こう」

 それには、みんな大笑いだ。

 

 一方、平吉は、本所の親分連中と手先を呼んで、集合させ、蕎麦屋の二階に陣取っている。

 そこに、親分が、

「みんな、すまねえな。恐れ多くも、お奉行のお屋敷を狙うなんて言う、ふてい奴らだ。残念ながら、同心の旦那様の方々は一人も居ない。お屋敷の御家来の方々と一緒にお縄をかける。みんな北の手先として、恥ずかしくないように頼む」

 すると、本所の親分が、

「しかし、それだけで大丈夫かい? 相手は侍連中なんだろ?」

 それには、親分が満面笑みで、

「実は、それよりもつええ人が控えてる。何も心配いらねえ。みんなには漏れなくご褒美もあるようだ。しっかりたのむぜ」

 この言葉には、さすがに納得したようで、

「へい!」


 

(5)


 さて、若様、景纂は明日、帰るので、食事と少々の酒を呑んで、

「あ~あ、また明日からお城か……」

 などと、お気楽な事を言い、もうそろそろ就寝の準備でもしようと思っていたところだった。

 ところが、そこに加藤がやって来て、平伏した。

「若、この屋敷は狙われております」

 景纂は、訳が分からなかった。当然である。

 加藤は、これまでの経緯を、順々と説明した。

「ええ! ちょっと待て、わしはお小納戸じゃぞ。父上じゃないのに、わしが盗賊とやり合うのか?」

 当惑の顔である。

 加藤は頭を下げながら、

「致し方ございません。これもお留守居の仕事にございます」

「う~ん」

 唸る景纂。

 しかし、加藤が、

「大丈夫にございます。あの二人が居れば、ご懸念には及びません。ご心配は入りません」

「あの二人?」

 加藤は何故か嬉しそうに、

「はい。若は恐らく驚かれる事となりましょう」

 言い終わって、平伏した。


 さて、日も落ち、夜も更けた。

 本所のお屋敷は、すっかり静まり返っている。

「カチッ」っと、壁の方から、微かに音がした。

 どうやら、密かにハシゴを掛けているようだ。

 次々に、黒い影が、壁の上から落ちてくる。

 それらの影が、ある程度、集まると、同時に庭先を突っ切って、縁側の階段に向かって走り出した。

 しかし、その時だった。

 外の壁沿いに、いくつもの高張り提灯が、並んだ。

 提灯とは言え、それなりに光を放射する。

 背後からこの光を受け、さすがに曲者どもは、驚愕した。

「しまった」

 と誰かの声が響く。


 そして、一斉に障子が開け放たれ、隠していた蝋燭の光が、こちらからも照らされる。

 背中を押されるように、景纂が、

「盗賊ども、この北町奉行の屋敷に、ようも押し込んだ。覚悟せよ。皆の者! 全て引っ捕らえよ!」

 と、高らかに言い放った。

 両脇からお華とおさよが、スッと立ち上がり、曲者達に向かって、斜に構えている。


 進退窮まった曲者達の一人が、

「ええい! 全て切り捨ててしまえ、正面から行くのじゃ!」

 と、叫ぶと、一斉にこちらに動き出した。

 お華とおさよは、一瞬、顔を見合わせ笑って、

「いくわよ! お華ちゃん」

「はいよ」


 おさよは、スパッと走り出した。

 そしてお華は、いつもの如く、舞うように、次々と簪を打った。

 高張り提灯の光を反射し、まるで蛍のように、肉眼ではスウッと流れていく様に見えた。

 しかしながら、直ぐに、いくつもの雄叫びが上がる。

 同じく、こちらも高速の光を反射させた、小太刀が円を描きながら、進んでいく。

 屋敷の奥で、心配そうに隠れて見つめている女達に、驚きの声が上がった。

 後ろで見ている景纂も驚きの顔だ。

 何しろ、立ち合いなんてものではなく、ただ、あっという間に男達が沈んでいくのだ。


 決着が付いた時、お華は、加藤に軽く頭を下げる。

 すると、景纂が再び、

「皆の者! 縄を掛けよ!」

 と、言い放った。

 早速、親分とお手先連中が、わっと声を上げ、縄を掛け始めた。

 しばらくして、提灯を持って、お華と、親分が首実検とばかり、倒れた男達の顔を確認するが、やはり、例の男は見当たらなかった。

「全く、情けない事するわね」

 親分も、

「何と申しましょうか……」

 と苦笑する。


 この後、既に、奉行所に佐助を走らせ、押し込みの知らせはしていた加藤は、あらためて報告に向かった。

 急いで奉行所に戻り、居間で待つ、奉行夫婦の前に、罷り出た。

 遠山とおけいは、報告に聞き入る。

「刀も合わせずだと?」

 遠山が呆れ顔で言うと、加藤は、苦笑いで、

「若君が、「引っ捕らえよ」と仰って、十も数えぬ内に、全て、倒れ伏しておりました」

「やはりの……」

 と大笑いだ。

 すると、おけいが、

「国太郎(景纂)も無事で?」

 それには、加藤が手を振り、

「当初は、かなり緊張しておられましたが、何しろ、曲者も庭で刀抜いただけでございます。あっという間でございましたから、まさに、呆気にとられたというご様子で」

すると遠山は、

「その程度の押し込みに、右往左往する様では、お上のお近くで御用を受ける資格はない。せめて指図ぐらいはできんとな。そうであろう、おけい」

「誠に、少しはしっかりしてくれないと」

 二人は、苦笑いだ。

 すると、加藤が、

「ただ、お奉行。あまりの事に、自信を無くされたのではないかと、心配しております」

 それには、遠山は笑い、

「なに。あれは、そこまで考えておるまい。上には上がいるぐらいでも、分かれば良い」

 すると加藤が、

「そうなんでございます。上と下両方、あまりにも早い物ですから。あの者達の手練を知っていた私でさえ、恐ろしくなってしまいました」

 加藤の言葉に、けいも笑う。

「今回は、お華達にお願いして良かった」

 遠山は頷き、

「国太郎の事はともかく、あやつらのお陰で、詰まらん事に引っかからず、助かったわ」

 

 同じ時、本所では、若殿、景纂が、無礼講と言って、お華・おさよは勿論、家臣一同宴会の様になっていた。

「いや~助かるわ。そなた達のおかげで、父上と母上に怒られなくて済む」

 景纂は上機嫌だ。

 おさよは、

「さすが、お父上様に負けず劣らずのご采配。みなが無事で結構にございました」

 すると、お華は、

「いや~もうちょっと、強かったら面白かったんですけどね」

 などと言うから、景纂は、

「大したもんだ。父上が、普段、そなた達の話をするんじゃが、まさにその通りじゃった。楽しかったぞ」

 景纂は、始めての危機的状況と、あまりに早く片づいた事に、少々興奮しているようだった。

 おさよは、

「何と言っても、今回は、おたかさんの一報のお陰です。おかげで、すべて片がつきましたから」

 それには、奥におたみと座っている、おたかが、嬉しそうに深く一礼する。

 すると、お華が、

「そうね、何かあったら、おかよちゃん。また知らせに走るのよ」

 これにも、奥のおかよも嬉しそうに頷いた。


 楽しげな本所と違い、ここ八丁堀屋敷では、浩太郎は憮然とした表情だ。

 このとき、浩太郎と優斎、おみよは静かに酒を呑んでいた。

 そこに佐助の報告を聞き、浩太郎は、

「あ~やだやだ」

 と呻く。

 優斎が、

「どうしました浩太郎さん」

「先生。あいつら、戻ったらまた偉そうに自慢するんだと思うと、うんざりするよ」

 それには優斎も笑い、

「まあ、そうでしょうね。その程度の盗賊なら、何でも無いでしょうし」

「しかしさ、あの南のやり方ってのは異常だな。先生」

 優斎も頷き、

「全く。私もそこまでするとは思いませんでしたよ。ま、今年も僅か。終わり良ければって所じゃないですか」

 しかし浩太郎は、猪口の中の酒を見詰めながら、

「それなら良いのだが……」

 



 ~つづく~


世の中、喧しい。

 そのお陰で、早く書けると思ったが、むしろ,余計に時間がかかってしまいました。

すみません。


 とうとう、悪魔が登場しました。

 今で言う、サイコパスそのものの人物ですが、本人はまだ、出てきていません(笑)

 さて、本格的な戦いが、これから始まります。

 ご覧頂ければ、ありがたく存じます。

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