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お華の髪飾り  作者: 本隠坊
11/37

⑪青雲之要路

(1)

 

「お戻りなさいませ」

 おさよとおみよが、玄関で、和やかに並んで出迎える。

 腰の刀を、おさよに預けながら、浩太郎は笑顔で、

「おみよ。来ていたのか」

 おみよは笑顔で、

「はい、お母さんからお言葉に甘えて、早く行きなさいと……」

 浩太郎は、廊下を上がり、

「そうかそうか。よし、これで一段落じゃ」

 着替えを終えた、浩太郎は居間に座り、

「何かと大変だが、よろしくな」

「はい。こちらこそよろしくお願い致します」

 浩太郎にお茶を出し、おさよも居間に座る。

「そもそも芸者さんですからね。安心して任せられますよ」

 と言うと、浩太郎はお茶を一口。

「そうは言っても、お華みていなのも居るからな」

 と、笑って言った言葉に向かって、切り返すように、

「お華みたいな芸者って、なんなんです!」

 向こうの影から、突然お華が現れた。

 浩太郎は、眉を上げて驚き、

「なんだ、お前、居たのか!」

 お華は目の前に、ドン、という調子で座り、

「そりゃ、おみよちゃんの最初だから、ついてきますよ」

 浩太郎は苦笑いで、

「いや、お前が付いてきたって、役に立たないだろ」

 皆、笑みを浮かべる。

 お華は、

「はいはいそうですか。兄上、お戻りなさいませ」

 と、面白く無さそうに言うと、

 庭先から、優斎が現れた。

「こんばんは。お、おみよさん今日からですか?」

 おみよも、笑顔で頭を下げる。

 居間の、お華の隣に座った優斎に、

「そうなんだよ。悪いが、先生の所でも、面倒見てやってくれよ」 

 優斎は、首を振りながら、

「面倒なんてそんな。私も助かりますよ。こちらこそ、よろしくお願いします」

 やがて、おみよとおさよが酒など運び、ちょっとした宴になった。

「浩太郎さん。どうなんです? お城の様子は」

「いや、もう驚きだよ……」

 そう言って、浩太郎は手を振る。

 すると、優斎が、

「実は、私も伊達のお屋敷で、少し聞いてきたんですよ」

 二人は見つめ合い、話し込み始める。


(2)

 

 さてお城では、これより少し前の事。

 大御所、家斉の葬儀は、最長期間の将軍にふさわしく、盛大なものであった。

 その、葬儀の全てを仕切ったのは、筆頭老中・水野忠邦である。 彼にとっては、将軍の葬儀というよりも、自らの宿願達成を祝う式典だったかも知れない。


 その宿願とは……、


 彼は、九州、唐津の家中に生まれた。

 水野と言えば、家康の縁戚で、祖先も二人。老中を排出している。 そう、譜代大名、名門中の名門である。

 忠邦も、幕閣への登竜門、奏者番を皮切りに、寺社奉行・大坂城代・京都所司代と進み、西の丸家老、そして本丸老中へと辿り着いた。

 これは一見、何の問題の無い、エリートコースを進んだ様に見えるが、実は、かなりの険しい道のりであった。

 まず、その地元、唐津の問題だった。

 奏者番はともかく、

 これ以降は、唐津に居る限り、上へは進めない。

 唐津は、場所柄、長崎の警備を任されているからだ。

 警備を任されている家の当主が、幕閣に関わる事は出来ない決まりになっている為、まずは、ここから脱出することが先決であった。

 だが、その様な事。

 それほど、簡単に出来る筈も無い。

 現状を打破するため、当時の老中に、運動を始めることとなる。

 しかし、忠邦にとって、幸運だったのは、当時の老中首座が、同族の水野忠成であった事だ。

 文化十四年。

 ある大名の失態で、国替、いわゆる三方領地替が決まった。

 その中に、忠邦が潜り込む事が可能になり、浜松に移動が決まった。

 そして同時に、寺社奉行の発令を受ける事となったのである。

 すべては、水野忠成の斡旋に寄ってだ。

 それからは、順調に出世階段を上って行ったのだが、内実は悲惨なものであった。


 まず、唐津から浜松に、領地替えになった件についてだが……

 表高は同じ六万石であるが、唐津の実高はゆうに二十万石を超えており、浜松は表高通りである。

 これでは、事実上の大減封である。

 また、国替えは、たとえ、それが行政的な転封であったとしても、

軍役のひとつであり、補助など基本的に無い。

 全て、自前で移動しなければならない。

 さすがに、これには家中の、二本松大炊という財政の責任者が、

 自決し、再考を求めたが、

「これが我が、青雲之要路」

 と、全く聞き入れられなかった。

 この言葉は、大坂城代になる時、本人が言った言葉である。

 しかし、青雲とは言いながら、天保元年には、京都、大阪、大津の藩債、つまり藩の借金を全て「お断り」すなわち返済拒否することを決めている。

 実は、勤役中の事は、出訴出来ない決まりを見通しての強硬であり、かなりの確信犯と言える。

 とはいえ、家臣らは、それら各方面の対応は、大変だったろう。

 諫死者が出るのもおかしくはない。


 ところで、主君の行状が、家中の存続を脅かす場合。

 家老以下、主君に対し、反逆の方法が無いわけではない。

「主君押し込め」

 である。

 現当主を、無理矢理、座敷牢に閉じ込める。

 そして、主君、発狂の為、と幕府に届け出、替わりの主君を据えるやり方である。

 しかし、この家中では、その方法は使えなかった。

 何故なら、それは既に一度、使ってしまっていたからだ。

 これは、宝暦元年(1751)、当時の主君、水野忠辰に対してである。

 忠辰は、いわゆる遊興にふけり過ぎ、牢に閉じ込められてしまった。

 

 一度、非常手段を使ってしまっている以上、二度目は、お咎めが計り知れない。

 実際、唐津への転封は、これが遠因とも言われており、更なる激化も予想される。

 加えて、忠邦は既に奏者番になっており、そこで既に、切れ者で通っていた事。

 そもそも、その金が、遊びでは無く、筆頭老中への賄賂である為、全く、理由が立たない事。

 さらには、その主君押し込めの有様を、忠邦自身が知っていた事。

 さすがにこの男だ。防御線はいくつも張っていただろう。

 これらの理由から、家老達は、従うしか無かったのである。


 結局のところ、この出世劇は、全て、賄賂による運動の結果であった。

 当然、その後も続き、それが一段落ついたのは、西丸老中になってからであるから、莫大な金を使って、ようやく手に入れた老中であった。

 しかし、それは「青雲之要路」の終着点ではなかった。

 そう、彼の頭上には、大きな重石が載っていたからだ。

 しかし、この度の葬儀により、それも微塵に砕け去った。

 彼にとっては、まるで天窓が開き、光が降り注いでいる様に感じたのではないだろうか。


 葬儀も終わり、本丸筆頭老中。それも勝手方の責任者として、権力を集中させた、忠邦は動き出した。

 老中勝手方という職は、財政を動かし、それら人事権を手にすると言う事。

 全て、自分一人の思惑に任される。

 将軍の許可は、勿論必要だが、信頼さえ、されていれば、基本的に、何でも出来るのである。

 ところで、忠邦罷免の後、勝手方は二人役となる。

 さすがに老中達は、その後、その危険性に気づいたのだろう。


 さて、その彼が、まず始めたのは、粛正である。

 それも、大粛正であった。

 天保十二年三月二十二日。

 まだ、喪も済まぬ内から、

 家斉の寵を、特に大きく受けた側室「お美代」を始め、それら女達は、二の丸に押し込められる。

 そして、御客応答格上座の中臈「うた」や上﨟の「花園」などは剃髪の上、お暇となった。

 お暇組は総勢三十六人で、一挙に削られた。

 ちなみに「お美代」の娘、(やす)(ひめ)は、十三代加賀藩主・前田斉泰に嫁いでいる。

 この時、加賀藩上屋敷に立てられた溶姫御殿の正門が、今に残る「東大赤門」である。


 粛正は、当然これだけでは終わらない。

 次はいよいよ大物、

御側御用取次・水野美濃守忠篤と、若年寄・林肥後守忠英、

新番格・美濃部筑前守茂育ら、いわゆる西丸派、三人に対する粛正である。

 まず、同年四月十六日に、水野忠篤を老中御用部屋に、いきなり呼びつけ、老中列座の中、お役御免・菊之間縁側詰を、直接、申し渡した。

 引き続き同日、他の二人も役宅などに呼び出され、お役御免を言い渡される。

 表向きの命日からは勿論、事実の命日からも、百日過ぎていないにもかかわらず、まさに電光石火の処分であった。

 確かに、この三人は「三佞人」と呼ばれ、幕政を牛耳る西丸派の中心人物で、大御所の元、権勢が絶大であった。

 しかし、まさかこんなに早くとは、思っていなかっただろう。

 また、追罰も過酷で、連座で親族は、差し控え、寄合入りなど。

 本人達も、水野は、信州諏訪にお預け。

 林は、差し控えと千石召し上げ。

 美濃部は、当時、山流しとも言われた、甲府勤番を命ぜられた。

 飛ぶ鳥を落とす勢いだった「三佞人」の失脚で、

西の丸派は完全に消滅した。


(3)

 

 さて、それらが片づいた後の八丁堀。

「なあ、先生」

 居間に座る優斎と、酒を酌み交わている浩太郎が、

「まあ、分からない事はねえんだけど、喪も終わらない内から、ってのはどうかね?」

 優斎は笑い、

「確かに、評判の良くない方々でしたが、それにしても、少々早すぎで、しかも過酷です。まるで、恨みを晴らすってのが、見え見えではないでしょうか」

 浩太郎は、深く頷き、

「上野の土も、乾かない内からこうでは、先行き、お上のご運に障らないか心配だよ」

「まったくです」

 浩太郎は、確信めいた顔で、

「こりゃ、始まるな」

 と頷く。

「そりゃ、そうでしょうな~」

 優斎も頷く。

 浩太郎は、「まったく……」と言いながら頬杖をつく。


 それから、暫くした同年五月十五日。

 この日は、将軍家慶の誕生日であった。

 祝儀言上のあと、老中以下、布衣以上の役人全部が、西湖間に招集され、

「御政事之義、御代々思召ハ勿論之義、取分(とりわけ)享保寛政之御趣意二不違様思召二付、何茂厚心得可相勤候」

 という上意のあと、

 水野忠邦が、上意に、老中の覚書を添え、一同に、

 「天保の改革」を宣言した。

 まさに、享保・寛政の改革に復古するとの宣言である。

 これらは江戸の町民は勿論、天領の人民まで、ほぼ即座に告知された。

 とうとう、江戸時代、最後の改革が始まったのである。

 そして、最初に発令されたのが、神田明神や、山王権現といった祭りの縮小。いわゆる、天下祭の、大幅な縮小であった。


(つづく)

 今回は、殆ど、説明文だらけになってしまい、申し訳ありません。

 

「青雲之要路」

 で始まった彼の志だが、

 終いには、

「悪魔外道」

 と、江戸市民から、言われてしまう。

 

 彼は、頭脳明晰で知られ、

 水戸の藤田東湖が、斉昭の遣いで、12の要望を伝えに行った時の事。

 12の要望を一遍に言わせ、それをすぐに、一つずつ、抜かすことなく、全て申し述べたそうな。

 まるで、聖徳太子ばりの頭の良さを伝えている。

 しかし、頭の良さは必ずしも、善政には繋がらない。


 京都所司代になった折、光格上皇は、伝奏の日野資矩に、

「忠邦は大坂城代の頃はひどく荒々しかったが、所司代となってからは、あたりが柔らかで、しかも器量があり、充分、天下の用に立つべき人物である。しかし忠邦は礼節は正しいが、少し気位の高いところがある。今の世では、器量の無い者が、器量の有る者を越える例もあるから、よく注意した方が良い」

 と漏らしている。

 京都文化に理解のある、彼を誉めているのだが、同時に、その危険性も示している。


 そう、気位が高すぎたのだ、と思います。

 昔も今も、歴史家などが、共通して言っている事は、

「彼は、将軍ではなかった。そして仲間が悪かった」

 確かにその通りだ。

 阿片戦争など、事情はあるにせよ、あまりにもやり過ぎた。

 今後、その辺も物語に出てくるでしょう。


 さて次回は、ちょっと長い前後編のお話です。


 それでは、今回もありがとうございました。

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