神性邂逅 019
神性邂逅 019
ジヴィエフ・ボルスカヤは眼下の光景に満足していた。
三ヶ月という短くない期間を、苦悶の柱に縛られていた、それに見合うだけの成果を得たと。
彼女のimAIはラス・ザ・ラースから拘束を受けていた間、強制的に遮断状態にあった。
これは体内に服薬された侵襲式ナノマシンによる判断──経験の反映が与える悪影響への懸念に対しての安全装置──のためであった。
ゆえに彼女は最初期の6時間程度に限ってしか、拷問による痛みを知覚しておらず、後の2000時間程度は強制的な排出状態に置かれていた。
ちなみにこういった拘束状態において、DOPEには、更に二つのオプションが用意されていた。
一つはログアウトを拒絶し、知覚を減衰させた状態でログイン状態を維持するもの。
そしてもう一つは痛覚減衰そのものを拒絶した全知覚状態である。
ロシア国内で一般販売されたナノマシンには、前者のオプションが許可されている。
後者の全介入オプションは、ベータテスターに与えられたものに限ってのみ実装されていた。
日本において販売されたものには、国内法上どちらも備わっていない。
とはいえ、安全のために知覚減衰した無為の状態での拘束は、多大な負荷をプレイヤーに与え、それはimAIに望ましくない影響を及ぼすことが予想されることから、これをONにするプレイヤーは皆無であった。
故に、ジヴィエフ・ボルスカヤは──DOPEとの接続を断たれて──三ヶ月の現実世界での生活を送っていた。
その日、彼女が居住するハバロフスクでは盛夏を迎えていた。
ジヴィエフはタイル張りの台所で、缶入りのクワスを煽りながら、冷製のアクローシュカを舐めていた。
窓の外には激しい日差しが照り付けている。
濁ったアムール川を、工業船が行きかうのを眺めながら、彼女はうんざりしていた。
陸軍に所属していたジヴィエフは、同僚との結婚を機に退役した。
もう10年も前のことだ。
極東の軍事バランスが激変し、朝鮮半島へと夫が派兵されてから4年になる。
二人の間には子どもはいなかった。
imAIはジヴィエフがDOPEしている間、住居の近くにある花屋でのパートタイマーで働くことを選んでいたらしかった。
それ以外にも地域の婦人会や、在郷軍人会の会合にも積極的に参加していた。
現実への帰還を果たした彼女は、漸次的に記憶統合を受け入れていった。
そして、この数ヶ月での自分の社会的評価が激変していたことに──それが確かに自分の行動によるものであることを認めながらも──驚いた。
もう何年も彼女は地域社会で透明な存在として生きてきたはずだったからだ。
それが、社会的に認知され、顔を合わせた人々が、ことごとく挨拶をくれるようになっていた。
ジヴィエフは当初、そういった社会的承認を受けること対して、とても満ち足りた気分を味わっていたが、それらの得意な気持ちは、すぐにうんざりとしたものに変わっていった。
あまりにも退屈で、あまりにも薄っぺらな現実。
表層的な承認を幾重にも受けて、その評価を維持することに労力を割く日々。
彼女はすぐに宅配にくる配送機以外の存在と、顔を合わせない生活へと帰っていった。
(追補するならば、こういった離脱症状はあくまでも一事例に過ぎないことを申し述べておきたい。多くの場合、現実への再適応は漸次的に進んでいく)
特有のピープ音が耳窩に響く。
それが待ち望んでいたものであると、彼女はすぐに気づいた。
手に握っていたアルミ缶を握りつぶし、乱暴に流し台に投げ込むと、ジヴィエフは視界に生じたひび割れを必死でむしり取った。
その向こう側で待っている過剰なまでの現実感だけが、彼女の病的な飢餓感を埋め合わせるものだったからだ。
手足に生じた毛並みが、彼女に帰ってきたことを理解させた。
彼女を抱きとめる茶虎の猫人の姿に、ジヴィエフは高揚した。
差し出されたカタナを握れば、全能とも思える感覚が五体に漲る。
腰溜めに構え、口中にアムリアへの聖句を口ずさみ、怨敵の姿を視界に捉える。
「ぶっ殺してやるわ」
放った必殺の斬撃は、黒騎士の前に立っていたハーフリングの首を刎ねた。
惜しかった、と思う。
テイが連れてきた胡乱な男は、自らを出資者と称した。
彼はラス・ザ・ラースを市街から追放してしまった。
ジヴィエフは恨みを晴らす機会を奪われたことに激昂したが、自分を解放する際にその男が果たした役割が大きいことを知って、ならぬ納得を為さしめた。
彼女が立つ、尖塔に張り出たバルコニー、そこに広がる手入れされた庭園。
その木々の緑さえ恨めしかった。
ジヴィエフは愛刀を振るうと、繁茂する全てを撫で斬りにした。
美しかった庭園には、見る影もない無残な土肌が剥き出しになっているだけだ。
現実の無為を思い知らされたことへの、行き場の無い怒りが彼女の中に煮えていた。
サクラメントを蹂躙したことへの満足とは別に、ラス・ザ・ラースとの決着を望む想いが彼女の中にあった。
ジヴィエフは壁の外を思う。
そこに必ずや潜んでいる怨敵を。
その首を落とすことを、彼女は夢想しながら、尖塔の内側へと戻っていった。
§
『霜の古戦場』、その中央に位置する闘技場。
そこに柳生正臣とラス・ザ・ラースの姿があった。
サクラメントから400kmの距離を隔てた位置にある、この場所から彼らは聖堂に対する強襲へと出撃する。
「発射準備は問題ありません」
ラスは彼女の所有する遺物級装具『黒曜鎧槍』の、つるりとした表面を撫でた。
それは本来であれば、ラス自身を覆う一領の鎧であり、あるいは四肢に対応した爪牙となるものだ。
だが、今の『黒曜鎧槍』は楔型の巨大な置物となっている。
頂点を天に向けて、闘技場に鎮座する姿は、原始宗教の象徴のようでもあった。
「内臓生命力は完載。推進機構も想定どおりに動いています」
彼女は宙に浮かせた魔導書の上で、飛行軌道の確認を行う。
発射角度の調整はすでに済み、『黒曜鎧槍』に対して入力済みだ。
おれは自身のストレージの中身を点検する。
『ストレージV』にまで拡張されたとはいえ、そこには50個のアイテムしか格納できない。
作戦上必要な装具を順に詰めていけば、ストレージはすぐに埋まった。
腰の革ベルトに『血茨の短剣』を吊るす。
この呪われた装具も、鞘の中にいる内は、出血を強要したりはしない。
左手には『氷花の指輪』を身につける。
アハトから初めて貰った『鏡の盾』、そして形見となった『屠龍剣グラム』は少しばかり大きいためにストレージの中だ。
「行こう」
おれの言葉にラスは頷く。
『黒曜鎧槍』は主の求めに応じて、赤く脈打つように光った。
滑らかな多角の側面、その一面が上方に持ち上がる。
両の翼を広げるようにして、ハッチは開放された。
ラスは乗り込むと、手招きしておれを誘う。
キャビン内は想像以上に狭かった。
ラスはその細い四肢を、蠕動する肉めいた黒色の内壁に陥没させている。
おれが彼女の背に密着する姿勢をとると、ハッチが静かに降りて来た。
閉鎖されたキャビン内に、計器めいた光点が次々と示されていく。
おれの四肢もずぶずぶと内壁に沈みこみ、完全に体を固定された。
暗く密閉された機内で、淡々と発射準備が進んでいく。
「すいません、なんか狭くて」
密着した体勢のなか、突然、彼女が話し出した。
ラスの声は、少しばかり上ずっている。
緊張か。いや、この密着した姿勢か。
「いや、気にしないでくれ」
こういう場合、気にしないで、というのは女性の方だろうか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ。
「ちょっと、ドキドキしています。初めてなので」
おれは何の話かわからなくなって困惑したが、すぐにそれが宙への到達を意味しているのだと気づいた。
「おれは初めてじゃない」
おれは以前、民間企業の有人宇宙船に搭乗して、種子島から宇宙へと飛び出た経験がある。
約200万円ほどの経費だったが、数分の間、宇宙空間というものを味わった。
太平洋上に着水を果たした帰還カプセルが回収されたとき、ハッチの先でシャオが爆笑していたのを覚えている。
おれは彼女との他愛無い勝負に負け、罰ゲームとして宇宙に飛ばされた。
それは廃棄された商用衛星を爆破解体するという環境負荷の異様に高い、危険なものだった。
「えっと、その、宇宙の話ですよね?」
ラスの声はさらに上ずっていた。
何か違う話題があっただろうか。
「それ以外に何があるんだ」
おれは真面目な調子で答えた。
ラスはほっと息を吐いて、内部の表示を確認しながらおれに離し続ける。
「すごいですね、正臣さん。宇宙も行ったことがあるんですか。私はたぶん、もう一生行けないですから、DOPEのなかでも行けるだけで興奮しちゃって。恥ずかしいですね」
おれは、そんなことないさ、と応じながら目を閉じた。
「発射まで60秒です」
時が来た。
この段階でおれにできることはない。
おれは静かに目を閉じる。
「10、9、点火シークエンス始動、6、5、4、3、2、1」
爆発音とともに、下方から強烈な推進力が、おれの肉体を突き上げてくる。
「全噴射口正常に作動。離陸成功」
四肢を固定する肉壁が、微妙な動きで衝撃を吸収する。
この機構無しには、今頃おれ達は粗雑なミキサーシェイクに叩き込まれたのと同じことになっていただろう。
「加速系……正常……300m/sを突破」
飛行軌道に乗った『黒曜鎧槍』は更に加速していく。
徐々に肉体にかかる負荷が強くなっていき、呼吸が苦しくなってきた。
「血共有、血膜」
おれは自身とラスの口腔を保護し、呼吸の補助膜を形成する。
計器の読み方がわからないおれには、今どれほどの速度に達しているのかもわからない。
だが、離陸直後よりも遥かに高速での飛行に移行していることは間違いない。
「高度10000m突破……おかしい、予想軌道から大きく逸れてます。再計算開始」
ラスの前方の内壁に、飛行軌道のイメージが投射される。
予想されていた惑星自転方向への傾斜は修正され、より急な角度での軌道が新たに描かれている。
「まさか……DOPE世界の形状は惑星ではなく、平面上に置かれている?大気組成に対する詳細鑑定……否定?参照すべきデータが存在しない?」
ラスは視線を左右にめぐらせて、提示された資料を確認する。
その間にもさらに加速は進み、搭乗者に対する負荷は強くなる。
おれたちが卒倒していないのが不思議なくらいだ。
「摩擦の値が減少していってます……居住係数正常。呼吸可能なのに真空状態?いったい外で何が起こって……軌道再計算完了、高度100kmまで12秒。推進剤の消費が予定よりも少なくて済んだみたいですが……このままだと宇宙空間に飛び出て帰って来られない可能性が……」
おれはラスの緑の髪ごしに表示を確認し、それが自分の領分ではないことを改めて認識した。
それでいながら、おれは彼女に対してこう切り出した。
「外の様子をモニターできるか?見てみたい」
それは好奇心から出た言葉のように聞こえただろうか。
だが、おれには一つの確信めいたものが閃いていた。
おそらくここは、おれが『知っている』宇宙だ。
「内壁に映します。確かにこれを見ないと、宇宙に来たって感じがしませんね」
四肢を固定されたままの、おれたちを取り巻く周囲の壁。
黒く塗りつぶされていたその壁が、一面の光に晒された。
眼下には大気層と、どこまでも続く大地がある。
おれたちが知っている球状の天体ではない。
地平はたわむことなく、そこに聳える山々と、湖のように点在する──その巨大さから、おれたちはそれを海と呼んでいたが──風景を従えていた。
問題は頭上、だ。
「なんですか、これ」
それは明らかに未完成、未形成な宇宙──黒い背景に、光り輝く天体が朧に散りばめられている──それらは今まさに構築されている最中。
ピクセルの欠けがいたるところに散見され、陶片が組み合わさって描き出される、その過程。
それは異質な光景。
現実よりも現実に近い、過剰な現実感の権化であるDOPEのなかで、この場所は初めて「この世界が人工物である」ことをはっきりと感じさせる場所だった。
だが、おれたちの困惑はさらに異質の驚嘆によってすぐに塗りつぶされることになる。
高度はさらに上昇している。
歪な光芒の最中へと飛び込んでいけば、それまで未完成だった世界が急な速度で描写された。
それはもはや宇宙の息遣いを吹き込まれた、それ以外とは呼べない世界だった。
だが一方で、違和感がそこかしこにある。
「あの変じゃないですか、ここ。私──知ってますよ、ここ」
「ああ、おれも同じことを思っていた──おれはこれを知っている」
ラス・ザ・ラースは、この宇宙に描き出された「宙」が、自身の独房に持ち込まれた投射天象儀と寸分違わぬもの──彼女は独房に投影されたそれらが、南十字星を映していたことを覚えていた──すなわち実際の「宙」ではないことを感じ取った。
また、おれはこの美しい宇宙空間に漂う一つの物体──すなわちそれは側面に赤菱の社章を刻まれた商用衛星であり、おれが爆破の瞬間を目の前で確認した存在──本来この場にあるべきではない人工衛星が漂っていることに気づいたのだ。
おれたちの記憶の中にある宇宙が、現在進行形で世界を象っている。
「待ってください、これどういうことですか。DOPEはAIが作ってるんですよね?」
ラスは『黒曜鎧槍』のメインブースターの噴射を切り、姿勢制御の作業を行いながら、早口でまくし立てた。
おれはほぼ予想していた通りの結果が現れたことに、少なからず満足していた。
「この世界は、プレイヤーの意識・記憶を読み取り、それをAIが再構成した世界だ」
未踏領域に対しては、すでに用意されたコンテンツをある程度のランダム性のもとに配置していたのかもしれない。だが、DOPEは宇宙空間を想定していなかった。
おれたちは初めてAIの想定の先の領域に踏み込み、世界を司る彼はそれに応じた。
おれはその存在を意識しながら語る。
かつて魔導書に新たな機能が解除されたときのように。
「宇宙にまで至ったのは、あるいは宇宙という発想を行ったのは、おれとラスが初めてだった。世界構築のプロセスは、要するにプレイヤーの記憶に対するリバースエンジニアリングだ。初めてここに踏み込んだ、たった二人のプレイヤーの狭い知識の中から、お前は必死で宇宙を組み立ててみせた」
ラスは操作しながら、おれが誰に対して語りかけているのかと怪訝な表情をみせた。
「美事だ。第一位AI──ヒラニヤガルヴァ──そこにいるんだろう」
それは決定的な邂逅だった。
この世界を司る真なる神性と仰ぐべきものとの邂逅。
暗黒の宇宙の果て、おれの視界の先、無限遠に延びた線のどこかの地点から、ヒラニヤガルヴァは呼びかけに応じた。
非言語の光と影がおれの眼に届き、それが黄金の卵を模したアヴァターを象っていることがわかった。
ただ一度の光陰の通過によって、おれの問いは正しいものであったことを、その存在は認めた。
「正臣さん?大丈夫ですか?!」
ラスの声がおれを正気の淵へと揺り戻した。
おれは応じて無事であることを告げる。
「機体反転完了、再突入の準備に入ります。着陸座標は変更ありませんが、角度が完全な垂直からの侵入になってしまいました──当初予定では尖塔にぶつける予定でしたが──聖杯の間を上から粉砕する形になります」
おれは了解した、と答えた。
だが、ラスの声はかんばしくない。
「ただ加速がつきすぎるんです。このまま行くと終末速度が予想を遥かに超えて、着陸時の衝撃に中身が耐えられません」
かといって初速を緩めれば、感知される危険が増加し、なおかつ対空迎撃に晒される可能性が高くなる。ぎりぎりまで高速で突入し、直前で急減速をかける予定だったが、それが搭乗者の耐久限界を越えるという予測が出ているということか。
「射出脱出は可能か?」
「可能です。正臣さんがフィルムで保護してくれれば、高度1000メートルから排出します。問題は……2つあります」
ラスが挙げた問題点は、一つ目は『黒曜鎧槍』が決戦時に使用不可能な状態になってしまうこと。
そして二つ目は。
「離脱するために減速作業が行えません。高速で落下する機体によって聖堂は全壊、市街にも大きく影響が出ます」
高質量の物体を自由落下させる衛星兵器は、現実にも以前から計画されていたが実現には至っていない。だが、この状況はまさにその再現──否、それ以上の結果が生まれることが予想され──それはラスが造り上げてきた都市を、自らの手で破壊するということを意味していた。
「ですが、やります。街はまた造ればいい」
ラスは言い切ると、おれの答えを待たずに降下準備を始めた。
「再突入開始。離脱まで120秒──いきましょう──」
再度の噴射を開始した『黒曜鎧槍』が、大きく揺れ始める。
内壁の周囲に描き出されていた外部ビジュアルは暗転し、計器類を投射した状態に戻った。
身体にかかる負荷が急速に変化していく。
ラスは陥没させていた四肢を抜き出した。
内壁から取っ手を掘り出して掴むと、手際よく離脱機構の準備を始めた。
おれの手足も抜き出され、前方に腰掛けるラスの座席についたハンドルを握るように促された。
「秒速800メートルを超えた自動排出です。私から離れたら制御できずに四肢をもがれますよ!間もなくです!神性戦争のタイマーと同時に着弾します」
ごう、という音とともに周囲の壁が剥げ落ちた。
おれは一瞬、身体の浮き上がる感覚に我を忘れたが、その直後には慌てて血膜で、おれとラスの体の周囲を覆った。
おれは眼下に目をやった。
サクラメント市街を覆う障壁が、じわじわと薄れていく。
高高度から眺める景色には、その街は以前と何も変わりないように見えた。
おれたちを乗せていた『黒曜鎧槍』はすでに見えないほど小さくなり、そして尖塔の頂点に衝突していった。
それは奇妙な現象だった。
衝突というにはあまりにも一方的で、天を衝いてそそり立っていたはずの塔が、端から粉々に消滅していくのだ。
ラスはその様を必死で目に収めていた。
おれはフィルムを厚くし、爆轟による衝撃に備えた。
やがて、宙から注いだ漆黒の隕鉄は、聖堂の全てを呑み込んで地層を抉った。
その破壊の余波が周囲の建屋を破壊していく。
上方に向けても粉塵と凄まじい風が吹き上げてくる。
「着陸のための減速は私が理力術で行います──聖杯の位置を特定──直下です」
おれは眼帯を外した。
両の眼によって直下を見る。
ラスは跨った台座を理力術で飛ばし、空中をスクータのように滑降していく。
何者かが蠢く様子を、おれの眼が感知した。
「生きてる奴がいるぞ」
破壊の跡地、衝突によって象られた円環状の陥没──その中心には輝きを失うことなく、マキナギアの威光を湛えた聖杯があった──そして、破壊を回避して再び聖杯に手をかけるべく近づく存在!
「テイさん!」
おれはラスの運転する台座から飛び降りる。
そして陥没の中心に向けて滑り降りていくテイ・トワ目掛けて飛びかかった。
手にはストレージから抜き出した黄金の剣『屠龍剣グラム』を握って。
おれの叫びに応じて、空を仰ぎ見た猫人は驚きとともに拳を握った。
そして半身に構えると傾斜のかかった地面を踏み砕き、平らかに均した。
「くるがいいネ!」
翡翠の長袍の裾を翻して、テイ・トワが吠えた。
陥没の外に広がる山なりの縁には狼頭の武人、ジヴィエフの姿も見える。
腰だめに構えた姿から、おれは彼女の上位技能『愛の断頭台』が飛び来る線上を予見した。
「お前の相手は我だ」
雷撃がジヴィエフを追い、刀が閃いてそれを逸らす。
ラースは今や『黒曜鎧槍』を失ったが、少女の姿態に単眼の仮面を帯びて、この戦場に臨んでいた。
怨敵の登場に、ジヴィエフは狂喜して跳躍した。
空中を滑走するラースを追って、人狼は走り去る。
テイの頭頂に向けて落下し、おれは剣を突き出した。
不可避の突きをテイは受け流そうとする。
だがそれは無効、伝説級装具であるグラムは回避技能を無効化する。
一太刀の交錯によって、勝負は決したかに思えた。
だがテイの防御と、グラムの切っ先が触れ合う直前──その間に白い腕が差し込まれた──大木のように太い腕、人外化生の如きそれは、数メートル先から伸び来たったものだった。
グラムは容赦なく太腕を貫通し、傷口から青色の血が流れた。
「いきなり終局では興が乗るまい」
フレンチメイドの衣装を身に纏った少女、その両腕は奇怪な太腕に換装され、さらにその後背に同様の腕が三対六本生えそろっている。
その主人たる男、M・M・ハッターは、おれたちの戦いを反対の山縁から眺めていた。
おれは鋭く剣を引くと、横合いから伸びていたエマの腕を斬り落とした。
「お前を楽しませるためにやっているわけじゃない」
着地したおれに向けて、テイは気迫を吐いて突きを放つ。
テイが放った直突きは鋭い槍を思わせた。
おれはベルトから血茨の短剣を抜き出し、突きの側面に体を移した。
頬を掠めるように通過したテイの腕を短剣が走って行く。
それを起点として、流れるように解体が始まった。
「テイさん、また料理食わせてください」
グラムと血茨の短剣は、互いが互いの後を追うように螺旋の剣舞を踊った。
テイの肉体は再生を試みるが、それを遥かに超える速度の斬撃が、彼を賽の目に切り刻んだ。
猫人は光の粒子へと分解されていく。
おれは屠龍剣を掲げ、その切っ先をハッターに向けた。
「何の真似かね。ヤタに贔屓されて調子に乗ったか?自分は選ばれた存在だとでも。動作技能をコンプリートした程度で」
不快げにハッターは眉をひそめ、眼鏡のずれを直してみせる。
彼の前に立つエマが、八本の奇腕を威圧的に蠢かせた。
「あんたは今でもおれの馬主だよな?」
おれは不敵に笑ってみせた。
「賭けるものは獣人100万の命、そうだろう?」
おれの言葉にハッターは破顔した。
「成長したものだ、正臣君も。ああ、一ヶ月で見事に繁殖させておいたぞ。神性戦争に捧げるネズミの生贄を──だが、なんだ。苗床に人を使い始めたのは想定外だった──彼ら、異種姦に躊躇いがない」
おれは聖杯に手をかける。
ハッターは止めることなく傍観していた。
彼は確かに道を敷いていた。
シャオを復活させるための道。
その一歩となる『征服者』の称号、そのための贄とする100万の生命を一所に集めてみせた。
狼髄院を取り込んだのは獣の繁殖力を見込んでのこと。
サクラメントを失陥させたのは、その苗床となる場所と餌。
なるほど見事に彼の思惑は結実した。
あとはおれが、それを磨り潰せばいいだけのことだ。
だが──それだけでは足りないはずだ──この腐臭漂う男なら。
「どうせ足りないんだろう?獣人だけでは。お前のことだ。おれに人を殺させようとするに違いない。悪趣味なお前なら」
ハッターは図星を突かれたように押し黙った。
娯楽──所詮、この男にとっておれは馬だ──おれが逆境に足掻く姿をハッターは望んでいる。
おれは初期化された聖杯を起動し、自身を所有者として認証させる。
展開されたインターフェースから、市街への障壁──これは逃走防止のための一時的な防御壁だ──を設定した。
「100万人の殺害はいい。獣で足りなければ、人だろうと、老若男女を問うこともしない。いくらでもやってやる。だが──一人目はお前だ」
剣の切っ先は黄金に輝くと、屠るべき相手を発見した喜びに金属音の鳴き声をあげた。
おれはまず、ハッターを殺す。
2017年5月18日22時の投稿分です。




