1. 召喚
よろしくお願いします!
「帰らないでくれ……俺のこと、好きなだけ触っていいから、俺から離れないで……」
身長190cm超えている大男が、震える手で私のことを抱きしめながら、私の首元に顔を埋めた。
「だから帰らないってば……。もう。この会話何回目?グレイは心配性だなあ」
私はそんな彼の頭を包み込むように抱きしめた。
頬に当たる、彼の頭頂部に生えている狼の耳がくすぐったくて、つい笑ってしまう。
彼のフサフサした耳にそっと口付ける。
「……ッ」
ぴるっと耳が動いた。
むくりと起き上がったグレイの顔が、私の顔と向かい合う。
恐ろしいくらい整っている、狼と人のハーフのその顔は、私をじっとりとした熱の籠った目で見つめると、そっと目を瞑ってキスを落としてきた。
「ティアが、これから先触るのは……俺だけがいい……ん……」
「うん、そうだね。私はもうグレイだけしか見れないよ。責任取ってね?」
私が悪戯っぽく笑うと、キラリと輝く黄色の瞳を持つ目が、ニコリと、満足げに三日月型になった。
――これは、動物が大好きなのに、モフれる動物がいない異世界に召喚された私が、そこで運命の出会いをし、永住を決めるまでの物語だ。
――――――――――
私、平野しずくの母は動物が大嫌いだった。
例えば、私が小学校で飼っていたハムスターを、家でも飼いたいって言ったとき。母はまるでキチガイを見るみたいな目で、私を見た。母が言うには、人間以外の生き物は、家を臭くするだけの、汚物らしい。
母は、街ですれ違う犬にも嫌悪感を剥き出しにした。私は犬の飼い主さんに見られても、醜く顰めた顔を隠そうともせず、むしろ見せつけるようにして一層顔を歪ませる母と一緒に歩くのが、恥ずかしかった。
母は特に大型犬に激しく反応した。
「あんな悍ましいものを公共の場所に連れてくるなんて……万が一事故でもあったらどうするの!」
すれ違うたび、母は自分の裾の長いスカートを広げて、隣に歩く私を隠すようにして、大きな声で喚きたてた。
私は毎回、犬を視覚から隠す、その鮮やかスカートが憎くて堪らなかった。
私は母とは違い、小さい頃から動物が大好きだった。幼少期は図書館に行っては動物図鑑を開いて眺めていたし、小学校では生き物係に立候補して、ハムスターに、亀に、鶏に、魚に、うさぎを育てた。
中学生以上になってからは、動物の動画は毎日のように見ていたし、貯めたお小遣いで、こっそり動物園に行ったり、ふれあい広場に足を運んだりもした。
自然と、私の夢は家を出て、自分の家を持ち、動物を飼うことになった。
母への反発なのかもしれないが、私の1番の憧れは大型犬だった。私はウルフドッグを飼いたかった!狼の血が濃い、非常に大きくかっこいいその犬種は、私を魅了して止まなかった。
あのかっこいいのに、モッフモフな首を抱きしめたい!思いっきり顔を埋めて、心ゆくまでモフモフを堪能したかった。
大学を卒業し、私は家を出た。母には「転勤だから」と嘘をつき、広々とした田舎の方に引越した。そこで必死に働いて働いて働いて!
上司にいびられようが、同期から化粧っ気の無さや、ブランドもののバッグの少なさをバカにされようが、必死に貯金し続けて!
「やっっっと目標金額に!到達だ〜!!!」
給料日の朝、銀行の前で、私は腕を突き上げて盛大にジャンプした。
周りのおじいちゃんおばあちゃんの訝しげな目線がこちらに向いていることに気づき、ハッとして、そそくさと足早に銀行から離れる。
普段ならいくら脳内のテンションは高かろうと、表面上では普通を装うのに、いけないいけない。
それでも、先程記帳した自分の通帳の内容を思い出し、私は思わず口元をニンマリと歪ませた。自分の目から、じんわりと透明な液体が滲み出て、溢れ落ちる。
早く歩いてるから、風が染みて目に涙が浮かんでいるのか、嬉しさに感極まったことによる涙か、自分のことなのに、分からなかった。分からないまま、ポロポロと流れて落ちる涙をそのまま拭きもしないで、私が清々しい気持ちで大股に歩き続けた。
やることがいっぱいだから、早く取り掛からないと!
私は脳内でこれからの計画を組み立てていく。まずは話を聞いてもらっていたウルフドッグのブリーダーさんに、お金が貯まったから、オススメされていた広い家が買えそうだとお話しないと!それからお迎えするにあたって、必要な書類や物を揃えなければいけない。万が一があってはいけない。なるべく犬が快適に過ごせるように、家を整えてあげないと。
その為には……
私は足を止めて、ハァッと一度深呼吸をしながら青い空を見上げた。
実際に犬をお迎えするまでに、まだしばらく時間はかかるだろう。
それでも、ようやく最初の1歩を踏み出せるのだ!
私は鼻水まで出そうになって、やっと溢れ出る涙を、手の甲でぐいっと拭った。ここまで長かった。
お迎えのスタートラインに立つまでに、私はいつの間にか27歳になっていた。
結婚とかも、ちらっと考えたことあったけど……飼いたい犬のことで頭がいっぱいだった私の選択肢からは、すぐに消え去った。
後悔はない。だってその代わり、私はモフモフの相棒を手に入れられるのだから!
私は目の前の信号を渡り、その先のトンネルの中へと足を進めた。このトンネルは、明るい時間でもしっとり暗く、なんだか怖い。
それでもここを過ぎれば、もうすぐ家だし、気持ちの問題だろうが、今日はなんだかいつもより暗さにあたたかさを感じる。
ルン!とスキップしそうな足取りで、トンネル内を進む。
ブー、ブー、ブー
「ん?……あ、ブリーダーさんからだ!」
私のスマホが震え、確認したら、件のブリーダーさんからの着信だった。
慌ててスマホを操作しようと、自分の胸の前に持ってこようとしたら、手が滑って、スマホを落としてしまった。
「あっ」
カン、と音をたてて、スマホが地面にぶつかって跳ねる。
「ああ〜画面、割れてないといいけど」
暗いトンネルの中、私は光に向かって手を伸ばし……止めた。
「え……?何……?」
目の前の地面が動いたように見えたのだ。そんなバカな。
何か虫でもいるのだろうと、目を凝らす。
いや、虫がいるのではない。やはり地面だ。地面の下から、黒い液体のようなものが、じわじわと滲み出てきている。
「やだ、何これ」
思わず、スマホから1歩後ずさる。見間違いだろうか?
「まだ涙で視界が歪んでるのかな……」
そっと目をもう1度拭い、改めて地面を見た。
黒い液体が、大きな手のかたちになって、地面から伸びていた。
「えっ」
その手を認識した瞬間、ブワリと。同じような無数の黒い手が、私の周りを取り囲むように、勢いよく生えてきて、私の身長より遥かに高い位置まで伸びる。
上で黒い手同士が、液体が触れ合ったときみたいにトプンと融合し、私の視界からトンネルの天井を覆い隠していく。
「何これ、待って、やめて!待ってよ!」
どうすればいいか分からず、とうとう隙間なく覆われて真っ暗になった天井を、震えた身体を抱きしめながら見つめる。
どぷん
顔に何かが、恐らくあの黒い液体だ、がかかってきたのを感じ……私の意識はそこで途切れた。




