第9話 数字が語る夜
監査の日が近づいていた。
店の営業が終わった後、二階の自室で資料を広げるのが日課になっていた。
ベルトランから届いた書簡。アマリージュ公国の宝石商三軒分の取引記録の写し。「聖遺物の修繕に使われるはずの宝石類を、過去二年間、どの商会も受注していない」という事実を裏づけるものだ。
マリーの証言を書き起こしたもの。日付と場所と、聖女の侍女がブランシェ家の書斎に出入りしていた頻度。断片的だが、帳簿の「写し」が家の外に持ち出されていたことを示す状況証拠になる。
そして、私自身の分析。
学園時代に会計学の授業で叩き込まれた知識を総動員して、公開されている神殿の年次報告書から聖遺物修繕費の推移を抜き出した。三年前から支出額が急増している。にもかかわらず、修繕の実績として報告された件数は横ばい。
金が出ている。モノは動いていない。差額がある。
帳簿を見れば、その差額がどこに流れたか——わかる。
ただし。
これは傍証だ。すべて外側から集めた情報に過ぎない。帳簿そのものを見なければ、何も証明できない。
閉じた扉。鍵は、あの人が教えてくれた。
来月——いや、もう来週だ。
その夜、閉店後の片付けをしていたら、扉の鈴が鳴った。
「申し訳ありません、本日は——」
振り向いて、言葉が止まった。
カシウスが立っていた。
二度目の来店。前回と同じ黒い軍服。前回と同じまっすぐな姿勢。ただ、前回と違うのは——入口で立ち止まらず、まっすぐカウンターまで歩いてきたことだった。
「……カヴァを。ノワールで」
注文を覚えている。前回と同じもの。
淹れる。手順は同じだ。湯を注ぐ。濾す。カップに入れる。
今回はカウンター席に座った。窓際ではなく。私の正面に。
カップを差し出す。受け取る時、彼の目が私の後ろ——二階への階段の方を一瞬だけ見た。
「……作業をしていたか」
「え?」
「指にインクがついている」
反射的に手を見た。右手の中指に、確かに黒い染みがある。資料を書き写している時についたものだ。
「……お恥ずかしい。閉店作業の前に少し」
カシウスはカヴァを一口飲んで、カップを置いた。両手で持つのは前回と同じだった。
「監査に際し、市民からの情報提供を受け付ける制度がある」
また唐突だった。この人は前置きをしない。
「情報提供書という書式がある。市民の署名と、提供する情報の概要を記載して、監査の七日前までに近衛の窓口に提出する。受理されれば、監査の参考資料として正式に扱われる」
「……それは」
「制度だ。誰でも使える」
誰でも。路地裏のカフェの店主でも。
私は息を吸った。吐いた。
「資料があります」
「聞いている」
聞いている。——誰から。ベルトランか。レオ副団長か。それとも、自分で調べたのか。
聞かなかった。聞く必要がなかった。
二階から資料を持ってきた。宝石商の取引記録。マリーの証言の書き起こし。年次報告書の分析。すべてをカウンターに並べた。
カシウスは一枚ずつ、丁寧に目を通した。
読むのが速い。数字の羅列を追う目の動きが的確だった。この人も、帳簿を読める人間だ。
最後の一枚——年次報告書の分析——を読み終えた時、カシウスが顔を上げた。
「なぜ、ここまでやる」
初めて聞く問いだった。
「嫌がらせを受けた。噂を流された。営業を妨害された。——それだけなら、店を守る方法は他にもある。なぜ、帳簿の中身まで追う」
答えは、考えるまでもなかった。
「帳簿は嘘をつかないからです」
カシウスが、じっと私を見た。
「私は断罪されかけました。覚えのない罪で、証拠も精査されないまま。あの夜、騎士団長殿が証拠を示してくださらなければ——私はあの場で終わっていました」
声が、少し震えた。気づいて、握りしめた。
「でも、証拠がありました。出席簿がありました。数字と署名と日付が、嘘をつかなかった。——だから私は、同じことをしているだけです。帳簿の中の数字に、語らせる」
沈黙が落ちた。
カヴァの香りが漂っている。窓の外は暗い。路地の街灯がぼんやりと灯っている。
カシウスが資料を揃えて、立ち上がった。
「預かる」
一語。
「情報提供書の書式は、明日届ける。署名して提出すれば、正規の手続きで監査に反映される」
「……ありがとう、ございます」
カシウスが入口に向かう。扉に手をかける。
——振り向かなかった。前回は振り向いた。今回は。
でも、声だけが聞こえた。
「……よくやった」
低くて、短くて、ほとんど吐息のような声だった。
扉が開く。鈴が鳴る。閉まる。
軍靴の音が遠ざかっていく。
私はカウンターに両手をついて、しばらく動けなかった。
目の奥が熱い。泣くような場面ではない。泣く理由もない。
でも——「よくやった」と言われたのは、いつぶりだろう。
学園の六年間、誰にも言われなかった。ブランシェ家でも。前の人生でも——いや、前の人生では、店長に一度だけ言われたことがある。年末の棚卸しが完璧だった時に。
あの時と、同じ温度だった。
手の甲で目元を拭う。濡れてはいなかった。ぎりぎりで。
監査の日。
私は店にいた。当たり前だ。監査に立ち会う権限はない。資料は出した。情報提供書も署名して提出した。あとは——待つだけ。
朝の仕込み。開店。カヴァを淹れる。客が来る。注文を取る。カップを出す。片付ける。
いつも通りの一日を、いつも通りに回す。
マリーは事情を知っている。けれど何も聞いてこなかった。ただ、いつもより丁寧にカップを磨いて、いつもより素早く皿を運んだ。
午後、ジャンヌ夫人がカヴァ・オ・レを飲みながら、じろりと私を見た。
「あんた、今日は顔が怖いよ」
「……そうですか?」
「眉間に皺が寄ってる。カヴァより苦い顔だ。お客が逃げるよ」
「すみません」
「謝るんじゃないよ。笑いな」
ジャンヌ夫人がマドレーヌをひとかけ齧って、立ち上がった。
「何があるか知らないけどね。あんたの店のカヴァは、あんたが笑ってる時の方が美味いんだよ」
——何だそれは。科学的根拠がない。カヴァの味と店主の表情に相関関係はない。
でも。
「……ありがとうございます、ジャンヌ夫人」
少しだけ、笑えた。
夜。閉店。マリーを送り出して、帳簿をつける。
今日の売上を書き込む。数字はいつも通り。世界が裏で動いていても、カウンターの上の数字は変わらない。
扉の鈴が鳴った。
三度目だった。
カシウスが入口に立っていた。軍服が少し乱れている。一日中、動き回っていたのだろう。黒い髪が僅かに額にかかっている。
「終わった」
一語。
私は立ち上がった。
「監査で、神殿会計の帳簿を精査した。聖遺物修繕費の支出と実態の間に、三年分の不整合が確認された」
心臓が、鳴っている。
「差額は慈善事業の名目で別口座に移されていた。その口座の管理者は——聖女リュミエールの主席侍女だ」
呼吸を忘れていた。息を吸う。
「あなたの情報提供書と、商人の取引記録が傍証になった。独立した第三者の資料として、監査報告書に記載される」
「……つまり」
「貴族院に、公聴会の開催が上申される。聖女の周辺の会計不正について、公の場で審議される」
公聴会。
公の場。
「場所は——」
「王立リュミナス学園の大広間。慣例で、貴族院臨時公聴会は学園の大広間を使用する」
あの場所。あの大広間。シャンデリアの光と花の香りの——あの夜と、同じ場所。
「ノエル・ブランシェ」
カシウスが、私の名前を呼んだ。
低い声。あの夜、壇上で書類を読み上げた時と同じ声。でも——響きが違う。冷たい鋼ではなく、もう少し、近い温度。
「情報提供者として、公聴会に証言を求められる可能性がある」
証言。あの大広間で。
前回あの場所に立った時、私は断罪される側だった。
今度は——。
「……わかりました」
声が震えなかった。自分でも驚くほど、静かに言えた。
カシウスが頷いた。小さく、一度だけ。
そして——今夜は、カヴァを頼まなかった。報告だけをして、踵を返す。
「騎士団長殿」
呼び止めたのは、ほとんど無意識だった。
カシウスの背中が止まる。
「カヴァ、一杯いかがですか。——長い一日だったでしょう」
振り向いた灰色の瞳が、ほんの少しだけ——本当に少しだけ——揺れた。
「……もらう」
三文字。今日いちばん長い返事だった。
カヴァを淹れた。ノワール。いつもと同じ手順で、いつもと同じカップに。
カウンター越しに差し出す。カシウスが受け取る。両手で。
二人とも、何も言わなかった。
彼はカヴァを飲み干して、代金を置いて、出ていった。鈴が鳴った。
一人になった店内で、私は椅子に座った。
長い一日だった。数字が動いた。扉が開いた。
帳簿は嘘をつかない。
そしてもうすぐ、嘘をついていた人たちが——その数字の前に立たされる。
あの大広間で。




