第10話 私の場所
公聴会の朝は、晴れていた。
冬が終わりかけている。路地裏にも春の気配が混じり始めて、朝の空気がほんの少しだけ柔らかい。
第二鐘で起きて、階下に降りる。カヴァ豆をミルに入れて、取っ手を回す。いつもと同じ音。いつもと同じ香り。
今日は仕込みだけ済ませて、店はマリーに任せる。
マリーは朝一番に来てくれた。エプロンを締めながら、私の顔をじっと見た。
「お嬢さま」
「何?」
「顔色、悪くないです。よかった」
「……そんなに心配してた?」
「昨日の夜、三回もカヴァを飲み直してたので」
三回。そんなに飲んだか。眠れなかったのは確かだが、カヴァの杯数まで数えられていたとは。
「マリー。今日の営業、お願いね」
「はい。任せてください」
「ジャンヌ夫人が来たら、マドレーヌを一つ余分につけておいて。昨日、少し焼きすぎたから」
「わかりました」
扉を開ける。路地に出る。振り返ると、マリーがカウンターの中から小さく手を振った。
「行ってらっしゃい、お嬢さま」
「——行ってきます」
王立リュミナス学園の大広間。
あの夜と同じシャンデリア。同じ高い天井。同じ石の壁。
違うのは、今が夜ではなく朝であること。花の香りの代わりに、書類のインクの匂いがすること。そして——壇上に立っているのが王子ではなく、貴族院の審議官であること。
傍聴席に、見覚えのある顔がいくつかあった。学園時代の同級生。貴族の子弟。みな、数ヶ月前の卒業パーティーの夜を覚えているだろう。あの夜、壇上で断罪されかけた「悪役令嬢」が、今日は証言者として呼ばれている。
廊下で待機していると、書記官が名前を呼んだ。
「証言者、ノエル・ブランシェ」
立ち上がる。スカートの裾を軽く整える。
大広間の扉を抜けて、中央の通路を歩く。靴音が石の床に響く。左右の傍聴席から視線が集まる。
あの夜と同じだ。憐れみ、好奇心、少しの愉悦。——でも、今日の私は違う。
壇上に上がる。証言台に立つ。
審議官が私に向き直った。初老の男性。白い髭。目は厳しいが、声は落ち着いていた。
「証言者は、情報提供書に記載された内容について、自身の言葉で説明されたい」
「はい」
深呼吸を一つ。
「私は現在、王都中間区画でカフェ・ノワールを営む市民です。——本件に関わることになったきっかけは、開店後に受けた複数の営業妨害でした」
声は、震えなかった。
噂の流布。臨時審査。それらを追ううちに、聖女リュミエールの周辺に会計上の不審な動きがあることに気づいた経緯を話す。
「アマリージュ公国の登録商人を通じて、聖遺物修繕に使用されるべき宝石類の発注が過去二年間、どの商会にも入っていないことを確認しました。一方、神殿の年次報告書では、同期間の修繕費支出が約三倍に増加しています」
数字を読み上げる。年度ごとの支出額。報告された修繕件数。その乖離。
帳簿の数字は、声に出しても嘘をつかない。
「これらの傍証資料を、近衛騎士団の監査に際し、市民情報提供制度を通じて正規に提出いたしました。以上が、私からの証言です」
審議官が頷いた。
続いて、近衛騎士団からの監査報告が読み上げられた。カシウスの姿は——いた。壁際に立っている。黒い軍服。まっすぐな姿勢。表情は鉄のまま。
監査の結果。聖遺物修繕費の支出と実態の不整合。慈善事業名目の別口座。管理者は聖女リュミエールの主席侍女。三年間の差額は——かなりの額だった。
傍聴席がざわめいた。
「聖女リュミエール殿。弁明を許可する」
聖女様が立ち上がった。
銀の髪。薄紫の瞳。あの夜と同じ美しい顔。あの夜と同じ、うっすらと潤んだ目。
「これは侍女たちが独断で行ったことでございます。私は何も——」
「聖女殿」
審議官が遮った。
「別口座の設立認可書に、あなたの魔力印が押されています。これは監査で確認済みです。独断であるとする主張を裏付ける証拠はおありか」
聖女様の唇が、閉じた。
開いて、また閉じた。
涙が頬を伝った。——けれど今日、この場で、涙は証拠にならない。
「リュミエール!」
傍聴席からオーギュスト殿下が立ち上がった。翠の瞳が揺れている。
「審議官殿、聖女は被害者の可能性もある。侍女に利用されたのではないか。もう少し慎重に——」
「第一王子殿下。公聴会における発言は、許可を得てから行われたい」
審議官の声は静かだが、刃のように鋭かった。殿下が口を閉じる。
あの夜と同じだ。殿下は、大切な人を守ろうとして、手続きを無視する。あの夜は私を断罪するために。今夜は聖女を庇うために。
でも——制度は、手続きは、感情では動かない。
審議の結果が読み上げられた。
聖女の主席侍女以下三名の処分。神殿会計の全面再監査。聖女リュミエール本人については、監査継続の上、次回公聴会で改めて審議。
即座の断罪ではない。けれど、「何もなかった」ことにはできなくなった。帳簿の数字が、公の場で語ってしまったから。
壇上を降りる。中央の通路を戻る。
傍聴席の視線が、また私に集まっている。でも、今度の視線の色は——あの夜とは違った。
全部が好意ではない。全部が理解でもない。でも、その中にいくつか、確かに変わった目があった。
大広間を出て、回廊に出た。
息を吐いた。長く。肺の奥から。
壁にもたれかけて、目を閉じる。終わった。——いや、まだ終わっていない。聖女様の件は継続審議だ。でも、今日の分は終わった。
足音が聞こえた。
硬い音。軍靴。
目を開けた。
カシウスが、回廊の向こうから歩いてきた。
鉄の表情。灰色の瞳。あの夜と同じ——いや、同じではない。瞳の奥に、ほんの微かな光があった。あるいは、私がそう見たかっただけかもしれない。
彼は私の前で足を止めた。
「店は、開いているか」
それが、公聴会の後の最初の言葉だった。
労いでもなく、祝辞でもなく。「店は開いているか」。
——この人は本当に、こういう人だ。
「ええ。毎日」
「……行く」
二文字。踵を返す。歩き出す。
「騎士団長殿」
背中が止まる。
「——ありがとうございました」
振り向かなかった。でも、背中が——ほんの一瞬だけ——強張ったように見えた。
軍靴の音が遠ざかっていく。
私は壁から背を離して、立ち上がった。
帰ろう。店に。
中間区の路地裏に入ると、夕方の光が屋根の隙間から差し込んでいた。石畳が金色に染まっている。
ノワールの扉を開ける。鈴が鳴る。
「おかえりなさい、お嬢さま!」
マリーが飛んできた。目が赤い。泣いていたのか。
「……ただいま」
「ジャンヌ夫人がずっと待ってて——」
「待ってたんじゃないよ。カヴァが美味いから居ただけだよ」
カウンターの奥から、ジャンヌ夫人が手を振った。隣にギュスターヴさんがいて、黙って頷いた。
いつもの店。いつもの人たち。
「結果は——」
「終わったわ。全部ではないけど、一歩目は」
「そうかい」
ジャンヌ夫人はそれ以上聞かなかった。代わりにカップを差し出した。
「あんたも一杯飲みな。店主が一番疲れた顔してどうするんだい」
マリーがカヴァを淹れてくれた。私の分。自分の店のカヴァを、自分で飲むのではなく、人に淹れてもらう。
一口、含んだ。
——少し薄い。でも、温かかった。
扉の鈴が鳴った。
黒い軍服。長身。まっすぐな姿勢。
カシウスが入口に立っていた。
ジャンヌ夫人が「おや」と言い、ギュスターヴさんが目を丸くし、マリーがカップを落としかけた。
「いらっしゃいませ」
私は立ち上がって、カウンターに入った。
「カヴァを。ノワールで」
「はい」
淹れる。いつもの手順。いつもの豆。いつものカップ。
窓際の席に運ぶ。——いつもの席。いつの間にか、そう思うようになっていた。
カシウスがカップを受け取る。両手で。
一口飲んで、カップを置いた。
「……苦いか」と、聞いてみた。初めて来た日と同じ質問。
灰色の瞳がこちらを見た。
「いや」
一語。あの日と同じ答え。
でも——口の端が、ほんの僅かに動いた。笑った、とは言えない。鉄の仮面にひびが入った、とも違う。
ただ、少しだけ——緩んだ。
私はカウンターに戻って、帳簿を開いた。
今日の売上を書き込む。マリーが回してくれた分と、今の一杯。
帳簿の最後の行に、ペンを走らせた。
『本日、黒字。常連六名。——うち一名、毎日来る人が増えた。』
ペンを置く。インクが乾くのを待つ。
窓からの光が、カウンターの白磁を照らしている。水差しの中の白い花は——とうに枯れていたので、今朝、新しい一輪を活けた。買ったのではない。路地の隅に咲いていた野花を、一本だけ。
白い花が、夕日を受けている。
店内に、カヴァの香りが漂っている。マリーが奥で洗い物をしている音。ジャンヌ夫人とギュスターヴさんが小声で何か話している声。窓際で、黒い軍服の人が静かにカヴァを飲んでいる。
六年前に思い出した。この世界が、誰かの書いた物語であること。私が「悪役令嬢」であること。断罪される結末が待っていること。
だから準備した。六年かけて。断罪されてもいいように。どこに落ちてもいいように。
断罪は不発に終わった。準備は無駄にならなかった。自立宣言を出して、家を出て、路地裏の元パン屋を借りて、カヴァを焙煎して、看板を掛けた。
噂を流された。審査をかけられた。元婚約者が来た。帳簿を追った。証拠を集めた。壇上に立った。
全部、自分で選んだ。
全部——ではないか。助けてくれた人がいた。マリー。ベルトラン。ジャンヌ夫人。ギュスターヴさん。ピエールさん。
そして——傘をくれた人。
一人で立つと決めた。それは変わらない。でも、一人で立つことと、一人きりでいることは違うのだと、この店が教えてくれた。
カシウスがカップを置いた。空だった。
立ち上がる。代金をカウンターに置く。
「ごちそうさま」
あの言葉。二度目の。
「ありがとうございます」
答えて——それから、自分でも思っていなかった言葉が口から出た。
「また明日も、お待ちしております」
営業の台詞だ。客に向ける、いつもの言葉だ。——のはずだった。
でも声が、少しだけ上ずった。
カシウスの足が止まった。扉に手をかけたまま。
振り向いた。
灰色の瞳が、まっすぐ私を見た。
「……ああ」
一語。
鈴が鳴って、扉が閉まった。
軍靴の音が遠ざかる。規則正しく、硬く——でも今日は、ほんの少しだけ、歩調が速かった。
気のせいかもしれない。
でも、もう——「気のせいだ」と言うのは、やめにしようと思った。
窓の外を見た。
路地に夕日が差している。屋根の隙間から、空が見えた。冬の終わりの空は高くて、淡くて、明日も晴れそうな色をしていた。
帳簿を閉じる。
——ここが、私の場所だ。
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