第7話 帳簿は嘘をつかない
近衛騎士団の詰所は、王宮の東翼にあった。
白い石壁に、鉄の門扉。門柱に剣と盾の紋章が刻まれている。——傘の柄と同じ意匠だ。
門の前に立って、三秒だけ迷った。
元悪役令嬢が、近衛騎士団の詰所に、傘を返しに来ている。冷静に考えると、かなりおかしな状況だ。
でも借りたものは返す。それだけのことだ。
門番の騎士に用件を告げると、少し怪訝な顔をされた。
「……傘を返しに?」
「ええ。カシウス・ヴァランティーヌ騎士団長にお借りしたものです」
騎士団長の名前を出した途端、門番の態度が変わった。怪訝から、困惑に。
「団長は現在、外出しておりまして——少々お待ちを」
待たされること数分。門の奥から出てきたのは、カシウスではなかった。
砂色の髪。人好きのする顔。カシウスより少し背が低くて、少し肩幅が広い。軍服の襟元に副団長の徽章がついている。
「やあ、お待たせ。副団長のレオ・バルトレットです」
声が明るい。カシウスとは真逆だ。笑顔がある。抑揚がある。人間の会話をしている。
「ノエル・ブランシェと申します。騎士団長殿にお借りした傘を——」
「ああ、傘! 聞いてますよ。団長が雨の中、傘なしで帰ってきたので何事かと思ったら——」
レオ副団長は傘を受け取って、まじまじと見た。
「うちの備品ですね、これ。団長、自分の私物の傘は持ってるのに、わざわざ備品の方を渡したのか……?」
「は?」
「いえ、こちらの話です。お気になさらず」
気になる。非常に気になる。——が、追及する立場でもない。
「確かにお返しいたしましたので、これで」
「まあまあ、せっかく来てくれたんだから。お茶でも——いや、うちの茶は不味いんだった。あなたの店のカヴァとかいうやつの方がよっぽどいいらしいですね」
「……ご存知なんですか」
「団長がね」
レオ副団長は、それ以上は言わなかった。ただ笑っている。意味ありげに。
帰ろう。これ以上ここにいると、何か余計なことを聞いてしまいそうだ。
「あ、そうだ。一つだけ」
背を向けかけた私に、レオ副団長が声をかけた。
「最近、団長が中間区の巡回ばかり志願するんですよ。もともと巡回ルートに入ってるとはいえ、団長が直々に回る区域じゃないんですけどね。何か理由を知りません?」
知らない。
「さあ。中間区は治安が良いので、息抜きにちょうどいいのでは」
「なるほど。息抜きね」
レオ副団長がまた笑った。全然納得していない顔で。
詰所を後にする。門を出て、大通りに戻る。
中間区の巡回を志願している。あの人が。
——それは、つまり。
いや。深読みしすぎだ。巡回は巡回だ。近衛騎士団長には団長の事情がある。路地裏のカフェの店主には関係ない。
関係ない。
自分にそう言い聞かせながら歩いていると、中間区の入口でマリーが立っていた。
息が白い。走ってきたわけではなさそうだが、頬が紅潮している。興奮か、緊張か。
「お嬢さま——お帰りなさい。あの、少しお話が」
「どうしたの」
「思い出したんです。あの侍女のこと」
足が止まった。
第4話の夜、マリーが言いかけて止めたこと。聖女の侍女をブランシェ家で見たという話。あれから日が経って、私からは催促しなかった。思い出せる時に話してくれればいいと。
「場所を変えましょう。店で」
ノワールに戻り、閉店の札を出した。マリーにカヴァ・オ・レを淹れて、向かいに座る。
マリーは両手でカップを包んで、少しずつ話し始めた。
「私がブランシェ家の台所にいた頃——お嬢さまが学園に入られてから二年目くらいだったと思います。聖女様の侍女が、月に一度か二度、屋敷に来ていました」
「お母様を訪ねて?」
「いいえ。旦那様——男爵様の書斎に、直接」
お父様の書斎。
「何をしていたの?」
「私、お茶を運ぶ係だったんです。書斎の前まで持っていくと、いつも扉が閉まっていて、中から声が聞こえました。帳簿の話をしていたと思います」
「帳簿」
「はい。数字のやりとりと——『写し』がどうとか、『原本は神殿に』とか。お茶を置いて戻るだけだったので、断片しか聞いていないんですけど」
マリーが顔を上げた。
「あの時は意味がわかりませんでした。でも、お嬢さまが聖女様のことを調べていると聞いて——もしかしたら、関係があるんじゃないかと」
帳簿。写し。原本は神殿に。
頭の中で、断片が繋がりかけた。
聖女リュミエール。神殿に所属する聖女の活動には、王家と神殿の双方から資金が出る。聖遺物の管理費、慈善事業、祭事の運営費。それらの出入りを記録する帳簿がある。
もし聖女の周辺で資金の流れに不正があるなら——たとえば、慈善に回るはずの金が別の用途に使われていたなら——それは神殿会計の帳簿に痕跡が残る。
そしてその「写し」が、なぜかブランシェ家にあった。
お父様が関わっていたのか。あるいは——巻き込まれていたのか。
「マリー」
「はい」
「ありがとう。とても大事な話よ」
マリーが、少しだけ目を潤ませた。
「お役に——立ちましたか」
「ええ。十分に」
マリーが帰った後、一人でカウンターに座った。
聖女の神殿会計。帳簿の写しがブランシェ家にあった。侍女が月に一、二度、書斎に出入りしていた。
なぜ、ブランシェ家に。
男爵家は下位貴族だ。神殿の会計に関与する立場ではない。けれど、関与させられていたとしたら——たとえば、帳簿の一部を「預かる」という形で、共犯関係に組み込まれていたとしたら。
お父様がそれを知っていて協力していたのか。知らずに利用されていたのか。
どちらにしても、聖女の周辺には資金の問題がある。そしてそれを隠すために、ブランシェ家を——私を——利用する理由があった。
悪役令嬢の断罪。あれがただの正義の暴走ではなく、口封じの一環だったとしたら。
——考えすぎだろうか。
でも、帳簿は嘘をつかない。数字は感情で動かない。証拠は紙の上に残る。
問題は、神殿会計の帳簿を見る手段が、一介の市民にはないということだ。
扉を叩く音がした。
立ち上がって開けると、門番のような顔をした配達人が封書を一通差し出した。
「中間区商業組合より」
封を切る。
『臨時再審査の結果、営業許可の継続を認める。——なお、保証人の信用格は十分と認定された』
通った。
営業は続けられる。この店は、明日も開く。
封書をカウンターに置いて、帳簿を開いた。今日の分の記録をつける。
数字を書き込みながら、呟いた。
「帳簿は嘘をつかない」
私の帳簿も。——聖女様の帳簿も。
ペンを置く。インクが乾くのを待つ。
窓の外は暮れかけている。路地の石畳に、夕日の残りが薄く伸びている。
聖女の神殿会計の帳簿。あれを見ることができれば、すべてが繋がる。
けれど、それは私一人の力では届かない場所にある。
神殿の帳簿を閲覧できる権限を持つのは、王族、上位貴族、そして——神殿監査に関わる機関の人間だけだ。
路地裏のカフェの店主には、縁のない世界。
のはずだった。
ふと、傘のことを思い出した。
今日、詰所で返してきた黒い傘。備品の傘。私物があるのに備品の方を渡した、あの人。
近衛騎士団長。王宮の東翼に詰所を持ち、王族の警護と王都の治安を統括する役職。
その権限の中に——神殿の監査に協力する義務が、あったはずだ。学園の法制史の授業で読んだ記憶がある。
まさか。
いや、まさか、もなにもない。あの人に頼るつもりはない。頼る理由もない。傘を返しただけだ。これ以上の接点はない。
帳簿を閉じた。
灯りを落とす。
二階への階段を上がりながら、一つだけ確かなことを考えた。
証拠は、どこかにある。帳簿の中に。数字の中に。
それを引き出す方法を——見つけなければならない。




