第6話 契約と、不器用な傘
その封書は、朝の仕込み中に届いた。
マリーが受け取って、カウンターに置いた。宛名は「ノワール店主 ノエル・ブランシェ殿」。差出人は中間区商業組合。
封を切る。中の書面に目を通して、手が止まった。
『営業許可の臨時再審査について通知する。下記の期日までに必要書類を提出すること。不備がある場合、営業許可の一時停止もあり得る。——なお、再審査に際し、王都市民一名の保証人署名を要す』
臨時再審査。
営業許可の審査は、通常なら年に一度だ。開店して一ヶ月も経っていない店に臨時審査がかかることは、まずない。
——まず、ないはずだ。
「お嬢さま、どうしました?」
「少し面倒なことになったわ」
書面をカウンターに広げる。マリーが覗き込んで、眉を寄せた。
「臨時……再審査?」
「ええ。しかも保証人が要る」
保証人。王都市民一名の署名。
普通の市民が店を開くなら、家族でも知人でも頼める。けれど私は——自立宣言で貴族籍を離れた元令嬢だ。王都に身寄りはない。ブランシェ家はもう頼れない。頼る気もない。
中間区に知り合いは増えた。ギュスターヴさん、ピエールさん、ジャンヌ夫人。でも保証人というのは、その人の信用を担保にするということだ。知り合って一ヶ月にもならない相手に頼むのは、重すぎる。
「……噂の次は、制度ですか」
マリーが小さく呟いた。
噂で潰せなかったから、今度は手続きで潰しにかかる。商業組合に口を利ける立場の人間。——貴族か、貴族に近い誰か。
聖女様の周辺が動いていると考えるのが自然だった。
期日は十日後。書類自体は揃えられる。問題は保証人の一点だけ。
「マリー、今日の営業は任せていいかしら。午後から少し出かける」
「もちろんです。——あてはあるんですか?」
「一人だけ」
ベルトランの宿は、商業区画の旅籠だった。
アマリージュからの定期便のたびに王都に数日滞在する。次の便までまだ日があるはずだと踏んで訪ねたら、ちょうど帳簿を広げているところだった。
「おや。豆の追加かい?」
「いえ。少し、お願いがありまして」
事情を話した。臨時再審査のこと。保証人が必要なこと。
ベルトランは黙って聞いていた。途中で一度だけ眉を上げたが、口は挟まなかった。
話し終えると、彼は帳簿を閉じて言った。
「わかった。署名しよう」
「……よろしいのですか」
「俺は王都の商業登録を持っている。市民としての署名権もある。書類上の問題はない」
「書類上の問題ではなく——ベルトランさんの信用を使うことになります」
「知ってるよ」
ベルトランは椅子の背にもたれて、私を見た。商人の目だ。値踏みではない。測っている。
「あんたの店は、俺の豆を一番面白く使ってくれる場所だ。潰れたら困る。——それに、臨時審査を一ヶ月目の新店にかけるってのは、筋が悪い。誰かが裏で糸を引いてるなら、なおさらだ」
「……」
「商売仲間だろう。当然のことだ」
ありがとうございます、と言おうとした。けれど声が出る前に、喉の奥が少しだけ詰まった。
借り。これで二つ目だ。豆の卸と、保証人。
助けてもらうのは嬉しい。でも、「助けてもらわなければ立てない」という事実は、どこか苦い。カヴァとは違う種類の苦さだ。
「——ありがとうございます。この借りは、売上で返します」
「そう言ってもらえると助かる。俺も商人だからな」
ベルトランが笑った。笑うと目元の皺がさらに深くなって、怖い顔が少しだけ柔らかくなる。
署名をもらって、書類を整えた。
商業組合の窓口は、大通りに面した石造りの建物の二階にある。受付の職員に書類一式を渡すと、保証人の欄を確認して、少し驚いた顔をした。
「……アマリージュ公国の登録商人ですか。信用格としては十分ですね」
想定外だったのだろう。元貴族の小娘に、まともな保証人がつくとは思っていなかった顔だ。
「書類は受理いたします。審査結果は五日以内に通知します」
「ありがとうございます」
窓口を出て、階段を降りる。
——通った。少なくとも、書類は受理された。
審査の結果がどうなるかはわからない。でも、「保証人がいないから不受理」という最悪の筋は消えた。ルールの中で戦って、ルールの中で通した。
大通りに出ると、空が暗くなっていた。
朝は晴れていたのに。西から厚い雲が流れてきて、街の上に蓋をしている。
歩き出した三歩目で、最初の雨粒が額に落ちた。
四歩目で、本降りになった。
——傘を持っていない。
当たり前だ。朝出る時は晴れていた。マリーに「午後から出かける」とだけ言って、鞄ひとつで出てきた。
走って帰るか。中間区まではそう遠くない。でも書類の控えが鞄に入っている。濡らすわけにはいかない。
大通り沿いの建物の軒下に駆け込んだ。石壁に背をつけて、雨を避ける。
冬の雨は冷たい。吐く息が白い。軒の端から雨水が線になって落ちてきて、石畳を叩いている。
通りを行く人たちは足早だ。傘を持っている者、走っている者、荷物を頭の上に載せている者。誰も私のことなど見ていない。
——少し、寒い。
三分経った。五分経った。雨は弱まらない。
足音が近づいてきた。
硬い音。規則正しい。軍靴。
私はもう、その足音を知っていた。何度か店の前を通り過ぎていった音。一度だけ止まって、また遠ざかっていった音。
足音が、私の前で止まった。
顔を上げる。
黒い軍服。長身。雨に濡れた黒髪が額に張りついている。灰色の瞳。
カシウス・ヴァランティーヌ。
あの夜以来——いや、数日前に硝子越しに目が合った夜以来、初めて、こんなに近くで顔を見た。
彼は私を見下ろして、一瞬だけ何かを考えるように瞳が動いた。
それから、右手に持っていた傘を差し出した。
黒い布張りの、飾り気のない傘。柄は木製。
「……濡れる」
それだけだった。
一語。主語もない。動詞だけ。——この人は本当に台詞が少ない。
「あ、いえ、大丈夫です。じき止むと思いますので——」
言いかけて、雨脚が強くなった。軒からの雨水が太い筋になって、靴の先を濡らす。
説得力が、まるでない。
カシウスは傘を持ったまま、腕を下げなかった。差し出したまま、じっとこちらを見ている。鉄の表情。何を考えているかわからない。
でも——腕が、微かに震えていた。
寒いのだろうか。それとも。
「……ありがとうございます」
傘を受け取った。指先が触れた。冷たかった。彼の指が。——この人も、雨に濡れているのだ。
「あの、騎士団長殿は——」
「問題ない」
二語。質問が終わる前に返ってきた。
カシウスは一礼した。あの夜、硝子越しにしたのと同じ、軍人の短い礼。そして雨の中を歩き出した。傘なしで。
「——ちょっと、待ってください」
声をかけた。彼の背中が止まる。
「傘をお返ししないと。どちらに——」
「近衛の詰所に」
振り向かずに答えて、そのまま歩いていった。雨の中、まっすぐな姿勢で。三歩目には早足になって、路地の角を曲がって見えなくなった。
残されたのは、私と、黒い傘。
傘を開く。雨を弾く布の音が、頭の上で鳴った。
——借り物が、また一つ増えた。
ベルトランの保証と、カシウスの傘。
一人で立つと決めたのに、借りばかりが増えていく。それは少し悔しくて、でも——傘の下は暖かかった。雨が頬に当たらないというだけで、世界がまるで違って見える。
歩き出す。中間区へ向かう。
傘の柄を何気なく見た。木製の柄に、小さな刻印がある。剣と盾の意匠。
近衛騎士団の紋章だった。
——これ、備品では。
私物ではなく、騎士団の備品を貸してくれたのだろうか。それとも、近衛の制式品を個人で持っているのか。どちらにしても、返さなければならない。
近衛の詰所に。
あの人はそう言った。近衛騎士団の詰所。王宮の東翼にある、あの詰所に。
元悪役令嬢が、近衛騎士団の詰所に傘を返しに行く。
「……何の冗談よ」
声に出したら、おかしくて、少しだけ笑ってしまった。
雨は降り続いている。
傘の中は狭くて暗い。でも、さっきまでの寒さは嘘みたいに遠い。
中間区の路地に入る。石畳が濡れて光っている。ノワールの看板が、雨の中でぼんやり白く浮かんでいた。
扉を開けると、カヴァの香りがした。マリーが仕込みを続けてくれていたらしい。
「お嬢さま、おかえりなさい。——あら、傘。朝は持っていませんでしたよね?」
「借りたの」
「誰にですか?」
「…………近衛騎士団長に」
マリーが目を丸くした。
「きっ——!?」
「声が大きいわよ、マリー」
傘を入口の傘立てに差す。黒い布から雨粒が落ちて、床に小さな水溜まりを作った。
返しに行かなければ。近衛の詰所に。
——明日にしよう。今日はもう、十分に疲れた。
帳簿を開く。今日の売上を書き込む。午後は留守にしたが、マリーが一人で回してくれたらしい。カヴァ・ノワール四杯、蜂蜜カヴァ二杯、ガレット五枚。
「マリー、一人でよくやったわね」
「ジャンヌ夫人が手伝ってくれました。お皿運ぶの、すごく早いんです、あの人」
ジャンヌ夫人。洗濯屋の女将が、皿を運んでくれた。
この店は——少しずつ、人の手が増えている。
帳簿を閉じる。灯りを落とす。
二階への階段を上がりながら、ふと手のひらを見た。
傘を受け取った時に触れた、あの冷たい指先の感覚が、まだ残っている気がした。
気のせいだろう。
——気のせいだ。




