第5話 元婚約者の席はございません
試飲を始めて五日目。
路地の入口に小さなテーブルを出して、通りがかりの人に一口ずつカヴァを配る。朝の一時間だけ。それ以上は豆がもたない。
最初の二日は惨憺たるものだった。
「何だいこれ、薬?」「苦っ」「泥水みたい」——率直な感想が次々と飛んできて、マリーが隣で泣きそうな顔をしていた。
三日目から、少し変わった。
「昨日の苦いやつ、もう一口くれないか」
荷運びの男がテーブルの前で足を止めた。その隣にいた女が「何それ」と覗き込んで、試しに飲んで、顔を歪めて——翌日また来た。
味は、覚えてもらえる。
噂は消えていない。「断罪された悪役令嬢の店」という話は、中間区のどこかでまだ囁かれているだろう。でも、それと並走するように「路地裏の苦い飲み物の店」という認識が広がり始めていた。
五日目の朝、試飲テーブルの前に三人並んだ。全員、初めての顔だ。
「あんたんとこのカヴァ、隣の路地の鍛冶屋が美味いって言ってたよ」
人の口から口へ。それがいちばん強い。
帳簿の赤字は、まだ赤い。でも数字の減り方が緩やかになっている。
——このまま、いける。
そう思った昼下がりだった。
扉の鈴が鳴って、私は顔を上げた。
「いらっしゃいま——」
声が止まった。
止めたつもりはなかった。喉が勝手に閉じた。
入口に立っていたのは、金の髪に翠の瞳の青年だった。
上等とは言えない麻の上着に、飾り気のない革の長靴。平民の格好をしている。——しているが、隠しきれていない。姿勢が良すぎる。肌が白すぎる。何より、あの翠の瞳は間違えようがない。
第一王子オーギュスト。
卒業パーティーの壇上で、私を断罪しようとした人。
「……一杯、もらえるかな」
声を低くしている。変装のつもりだろう。けれど声の質は変えられない。正義を疑わない人間の、澄んだ声。
一瞬だけ、頭の中を計算が駆け抜けた。
追い返すか。受け入れるか。
追い返せば角が立つ。相手は王族だ。変装していようが、後から「元婚約者の店に拒否された」と言われれば面倒なことになる。
受け入れる。客として。それだけ。
「どうぞ、お好きな席へ」
営業の声が出た。前の人生で何千回と繰り返した、感情を棚に上げる技術。
殿下は——いや、この場では「客」だ——窓際の席に座った。メニューの黒板をしばらく眺めて、首を傾げる。
「……カヴァ? 聞いたことのない飲み物だな」
「当店の看板商品です。苦味がございますが、よろしければカヴァ・ノワールをお勧めします」
「では、それを」
カップを運ぶ。手は震えていない。震えるほどの感情が、不思議とない。
あの夜——壇上で名前を呼ばれた時は、心臓が鳴っていた。でも今、カウンターの中から見る金髪の青年は、ただの客だ。場違いな服を着た、場違いな客。
殿下がカヴァを一口飲んで、眉を寄せた。
「……苦いな」
「ええ。そういう飲み物です」
殿下はカップを置いて、私を見た。翠の瞳が、何かを探るように動く。
「ノエル」
名前を呼ばれた。王子殿下の声で、この店で、私の名前を。
「——お客様、何かご注文の追加はございますか」
「違う。そういう話じゃない」
殿下が声を落とした。テーブルの上で手を組む。
「……あの夜のことは、私の判断が間違っていた」
来た。
わかっていた。この人が変装してまでここに来る理由は、これしかない。
「証拠を精査しなかった私の落ち度だ。お前には——君には、申し訳ないことをした」
言葉だけを聞けば、誠実な謝罪だ。実際、殿下の表情には後悔があるように見える。
——けれど。
「だから、戻ってこないか。婚約の件も、改めて」
やはり、そうだ。
「お客様」
私は微笑んだ。前の人生で接客していた頃の、いちばん丁寧な笑顔。苦情対応の時に使っていたやつだ。
「恐れ入りますが、当店はカヴァの専門店でございます。縁談の取次はいたしかねます」
殿下の目が丸くなった。
「……何?」
「お飲み物がお口に合いませんでしたら、蜂蜜を添えることもできますが」
「ノエル、ふざけているのか」
「いいえ。大真面目です」
カウンターの内側で、両手を前に揃えた。背筋は伸ばしたまま。笑顔は崩さない。
「私は自立宣言を済ませた市民です。殿下の婚約者でもなければ、ブランシェ男爵家の令嬢でもありません。この場でお答えできるのは、メニューに関するご質問だけです」
殿下が椅子の背に身体を預けた。翠の瞳が揺れている。あの夜と同じだ。「間違えた」と気づいた人間の、でも「間違えた」と認めたくない人間の目。
「……本気か」
「はい」
「後悔しないのか」
「しませんわ」
後悔しない。それだけは確かだった。六年かけて準備して、自分で選んで、自分の足でここに立っている。元の場所に「戻る」という選択肢は、最初からない。
殿下が立ち上がった。カヴァは半分残っている。
「……わかった。今日のところは」
「今日のところは、ではなく。これが私の答えです、殿下」
声に力が入った。営業の笑顔が少しだけ剥がれて、素の声が出たのがわかった。
殿下は何か言いたそうな顔をして——結局何も言わず、扉を押し開けて出ていった。
鈴が鳴って、静かになった。
「——何様だい、あの若造は」
声の主は、窓際の反対側の席にいたジャンヌ夫人だった。いつの間にか二杯目のカヴァ・オ・レを飲み終えている。
「上等な服着てるわけでもないのに、態度だけは貴族そのものだね。あんたに説教しに来たのかい」
「さあ、どうでしょう。ただのお客様ですわ」
「客ね。——あの手の男はね、自分が振った女が幸せそうにしてると気に食わないのさ。あんたが惨めでいてくれた方が、自分の正しさが保てるからね」
ジャンヌ夫人はカップを置いて、立ち上がった。
「大丈夫さ。あんたの店のカヴァは、あの若造よりよっぽど中身がある」
夫人が帰っていく。扉の鈴がまた鳴る。
私はカウンターに両手をついて、小さく息を吐いた。
——そして、少しだけ笑った。
中身がある。カヴァに。ジャンヌ夫人は褒めているのか貶しているのかわからない。でも、なんだかおかしかった。
殿下が残していったカヴァを片付ける。半分残ったカップを下げて、受け皿を洗って、テーブルを拭く。
それだけ。それだけのことだ。元婚約者が来て、帰った。私の日常は何も変わらない。
夕方、最後の客が帰って、マリーを送り出した。
閉店の支度をしていた。カウンターを布巾で拭いて、椅子を上げて、床を掃いて。
ふと——入口の硝子に、人影が映っているのに気づいた。
扉の外に、誰かが立っている。
黒い軍服。長身。まっすぐな姿勢。
硝子越しに、目が合った。
灰色の瞳だった。
鉄みたいな表情。けれど、瞳の色は鉄ではない。夕暮れの光を含んだ、淡い灰色。
——あの人だ。
卒業パーティーの夜、壇上で書類を読み上げた人。カシウス・ヴァランティーヌ。
彼は硝子越しに私を見て——ほんの一瞬だけ、何かを言いかけるように唇が動いた。
けれど声は聞こえなかった。硝子が隔てている。
次の瞬間、彼は姿勢を正して、短く一礼した。軍人の礼だった。それから踵を返して、路地の奥に歩いていった。
軍靴の音が遠ざかる。規則正しく、硬く、迷いなく。
私は布巾を持ったまま、しばらく入口の硝子を見ていた。
彼の立っていた場所の足元——扉の前の石畳が、濡れている。
外は、いつから雨が降っていたのだろう。
店の中にいたから気づかなかった。窓は閉めていたし、路地裏は軒が深いから、雨音が届きにくい。
でも、石畳は濡れている。彼の軍靴の跡だけが、扉の前にくっきり残っている。
——いつから、そこに立っていたのだろう。
わからない。聞けなかった。聞く間もなかった。
布巾をカウンターに置いて、帳簿を開く。今日の売上を書き込む。殿下の分——半分しか飲まなかったが、一杯分はきちんと置いていった——も計上する。
数字を書きながら、指先が少しだけ冷たいことに気づいた。
雨のせいだろう。
帳簿を閉じて、灯りを落とす。
二階に上がる階段の途中で、一度だけ振り返った。
暗い店内に、カウンターの端の水差しだけが、街灯の光をうっすら受けている。白い花が、まだ咲いていた。




