第七十四話《青春の小箱》
少しだけ緊張しながら、伶は実家のインターホンを押した。
扉を開けたのが母親ではなく弟だということに、安堵して肩の力を抜く。
「どしたの。珍しいね、兄ちゃんが帰ってくるなんて」
「ちょっと用があってな。久しぶりだな。ちゃんと飯食ってっか?」
昔のように、弟の頭に手を置いて、髪をくしゃっと撫でる。
慣れたその動作にも、どこか違和感を感じた。
少し見ないうちに、随分背が伸びたのだ。
「そう思うんなら、たまには作りに帰って来てよ。あー、兄ちゃんの手料理が恋しいなー」
「もう高校生だろ? 飯くらい自分で作れるようになれよ」
「俺は、兄ちゃんと違って不器用なのっ!」
偲は頬を膨らませて、子供のようにいじけてみせた。
偲が今も子供らしくいられるのは、紛れもなく、兄である彼がその心を守ってきた証拠だろう。
それを自分の手柄だと、彼は決して驕ることはしないだろうが──。
それもまた、実に彼らしい。
自室の押し入れの奥を漁って引っ張り出したのは、ひとつのダンボール。
零が居なくなって封印した、零との思い出の数々だ。
ゆっくりと、その箱を開ける。
それは禁忌の箱では無いと、伶はもう知っている。
否応なしに連れて行かれてしまった、許可無く出られなかったあの城は、今は自分の意志で、好きな時に触れることができるアルバムのような場所なのだ。
中に入っているのは、放課後遊んだ川に落ちていた綺麗な石や、夏休みに探検した山で見つけた珍しい落ち葉等、どう見てもガラクタばかりだ。
それでも、今はどれも、大切なものに思える。
箱の一番下にあったノートをペラペラと捲ると、そこには零の筆跡で書かれた言葉達が並んでいた。
曲を作る際に零が使っていた、詞のアイディアを書き綴った作詞ノートだ。
伶は最後のページに書かれているフレーズに、思わず手を止めた。
【いつかまたそこで青う】
零らしい斬新な捩り方だと、思わず笑みが零れる。
次の新曲のタイトルにしたいと思えるくらい、素敵なフレーズだ。
もう戻らない子供の時間を青春と呼ぶのなら、彼と再会した瞬間、きっとそれは鮮やかに蘇るだろう。
まるで子供に戻ったかのように、青春を取り戻すように、きっと馬鹿騒ぎをするに違いない。
赦しを与えられるとは思っていないが、いつかあの世でまた会う時に、赦してくれって甘えられるくらいには、誇れる自分でいたいと思う。
まだ一度も使ってない『一生のお願い』ってやつを、ここぞとばかりに使ってやるのもアリかもしれない。
零の文字を、そうっとなぞる。
指先に伝わる熱が、色褪せない想いが、埃を被ることなく、ちゃんとここに在る。
零が居なくなった穴を、心にできた空白を埋める為に、創作に打ち込み数々の作品を生み出してきた。
しかし、それを埋めるものなど存在しないことくらい、最初から分かってた筈だ。
空白は空白のまま、そこに居座り続けてくれたらいいと、今はそう思える。
それを大事に携えたまま、自分の大切な一部だと感じながら、愛で続けていたい。
それでも、彼は創作をやめたりしないだろう。
作品を生み出し続けることを、表現し続けることを、今更やめたりはしないだろう。
今の彼にとっての創作は、数字や評価を獲る為のものではない。
彼と親友を繋ぐ、伶と零を繋ぐ、大切なコミュニケーションのひとつのように思えていたのだ。
忘れてしまわないように、親友への手紙を書き続けるように、脳内を流れるこの音楽と共に、それを表現し続けていきたい。
零が見つけてくれた、すごいと言ってくれた、この奇妙な傷と宝を携えて──。
そして、過去に囚われ続けるだけではなく、今の仲間と歌う最高の曲を作ろう。
生意気で、憎たらしくて、不器用で、子供みたいな奴ら。
彼らと想いを叫べば、いつかあの空の上にも届くかもしれない。
零や、れんだけじゃなく、この世界で彼らを見つけてくれた人達の心にも、寄り添い明日を生きる活力になってくれるかもしれない。
その期待にもし裏切られることになっても、それはきっと、絶望なんかじゃない。
落日に裏切られても、それはただの世の理で、絶望なんかじゃない。
例え絶望の形をした何かが襲って来たって、動じず真正面から向き合ってやろう。
(絶望? 失望? 上等だ、付き合ってやるよ)
最初は厄介だと思った奴でも、絶対に気が合わないと思った奴でも、時間をかけて付き合っていくことで、いつか親友と呼べる存在に成り得たように。
太陽と影が交わったように、いつかその出会いが、世界を照らす一筋の光に成り得たように。
──ハロー、絶望!
調子はどうだい?
ところで、この曲聴いた?
俺は凄くいいと思うんだけど、おまえはどう?
そんな調子で、いつかその正体とも、話し合って、殴り合って、笑い合って、相棒みたいになれたらいい。
「偲」
背中を見守られる気配がして、弟の名を呼ぶ。
「ありがとな」
零との夢の続きを叶えるきっかけを作ってくれたのは、間違いなく彼のおかげだ。
偲は全てを察したように、「どういたしまして」と応えた。
「兄ちゃん。零くんのこと、俺も一緒に憶えてるからね。兄ちゃんと零くんが作った曲も、今の兄ちゃんの作ってる曲も、俺は大好きだよ」
偲の言葉に、喜びと安堵で胸がじわっと温かくなった。
──認めてくれる人がいる。
彼の作品を、彼らの作品を、忘れずに愛してくれる人がいる。
誰かの記憶に遺るものを生み出せることは、それだけで素晴らしいことじゃないか。
それを教えてくれた彼らに恥ずかしくないよう、これからも、自分の声に耳を傾けていこう。
「しゃーねーな。冷蔵庫に卵あるか? オムライスでも作ってやるよ」
「やったー! 俺の大好物じゃん! 兄ちゃんイケメン! モテモテ料理男子! 稀代の天才!」
「はっ、そうだろそうだろ」
篠崎伶に向けられた称賛の言葉に、謙遜や自虐は一切無しに、彼が誇らしげに胸を張って笑う。
脳内を駆け巡る軽快なメロディーに、ご機嫌な鼻歌が混じった。
彼の為の人生は、ようやく、始まったばかりだ──。




