第七十三話《美しく生きる》
「みおちゃん。本当に出て行っちゃうの?」
玄関で母親に呼び止められて、美生はスーツケースを一旦置いた。
「考え直した方がいいんじゃない? ほら、最近何かと物騒だし……。それにみおちゃん、料理やお洗濯なんてしたことないでしょ?」
「そうだぞみおちゃん。何か困ったことがあるなら、お父様がなんとかしてあげるから。なんでも言ってごらん」
そこに父親も加わって、あの手この手で引き止められる。
それでも今の美生は、情に絆されて、自分の気持ちを曲げることはしなかった。
「ありがとう、お父様、お母様。二人のこと、美生は大好き。だけど、一回自分の力で全部やってみたいの。できることも、できないことも、今までやってこなかったことを、自分でやってみたい。それにね……」
力強い眼差しで、美生は二人を真正面から見つめた。
自信と希望に満ち溢れた瞳は、キラキラと輝いている。
「二人が思ってるより、美生は、強いよっ!」
何よりそう口にできる強さが、今の美生にはあった。
玄関の扉を閉めて、まだ誰も通ったことのない新雪に足跡を残すような気持ちで、美生は一歩を踏み出した。
雨上がりの空には、綺麗な虹が架かっている。
まるで、彼女の旅立ちを祝福してくれているようだ。
(綺麗……! 今日はちょっとだけ、世界が、美生に優しい……!)
優しい日があれば、厳しい日もある。
人生だって、そんな、天気みたいなもの。
もしも、世界に見捨てられているような気持ちになったとしても、それは彼女を陥れようとしているわけではない。
晴れの日があれば、雨の日もある。
ただ、それだけのこと。
その全てが、絶望なわじゃない。
雨が降ったら傘を差すように、目が悪くなったら眼鏡をかけるように、身を護る方法は、きっとある──。
今までの美生だったら、虹の美しさに心を震わせる前に、ブログのネタにとすかさず写真を撮ったことだろう。
しかし今それをしないのは、SNSから暫く離れることにしたからだ。
見なくたって、目で確認しなくたって分かる。
美生のファンは、美生を愛している。
そう思える今のこの気持ちが、信頼というやつなのだろう。
足取りは軽く、このままどこまでも行けそうな気がする。
ここからようやく、自分の人生が始まる。
勿論、ひとつも不安が無いと言えば嘘になる。
生まれてからこれまで実家を出たことがなかった美生は、正真正銘世間知らずな箱入り娘だ。
思い通りにいかなくて、壁にぶつかることも当然あるだろう。
それでも、挑まずにはいられない。
この世界のことを、自分のことを、知りたいと思わずにはいられない──。
どんなに願っても、世界は簡単には変わらない。
醜いものや汚いものは確かに存在して、それが綺麗さっぱり無くなることはない。
世界はいつだって、容赦無く現実を突き付けてくる。
それでも、考え方ひとつで、見える世界は変わってくる。
雨上がりの空に虹が掛かるように、嵐の後に草木が芽吹くように、そんな優しさに触れることだってある。
世界は、まだまだ捨てたもんじゃないと、そう思える。
その優しさに触れた時、ちゃんと心が動く人間で在りたい。
ありがとうと、感謝の気持ちを忘れない人間で在りたい。
手首の包帯に、そっと触れてみる。
誰かと約束した気がする。
自分を大切にしろ、と──。
でもそれは、決して安全な場所に留まっていろという意味ではないように思える。
新しいことを始める時に、まだ見ぬ道を行く時に、危険を怖がっていては何もできない。
その結果傷付いてしまいそうな時には、自分で自分を護ってあげるしかない。
誰かに護られてばかりなのは、弱いフリをして膝を抱えているのは、もう懲り懲りだ。
今の彼女は、誰かに選ばれるのをただ待つ側じゃない。
(美生のことは、美生が一番に選んであげるんだ!)
それこそが、彼女が名前に願いを込めた、美しく生きるということなのだろう。
「さ、行くよ!」
自分に呼びかけるように声を出して、踏み出す足に力が入る。
やりたいことが、山ほどある。
バレエのレッスンもまた通いたいし、勉強したいことや、取りたい資格だってたくさんある。
なんだってできる気がする。
美生の人生は、美生のものなのだから──。
誰もが見上げ憧れる、月のうさぎにはなれなくても、一生懸命お餅をついて、皆に小さな幸せを配ってあげることくらいはできるかもしれない。
それだけで、充分素敵だ──。
自由で無限の可能性に満ちた世界は、とても広く、輝いて見えた。




