第七十二話《長靴を履いて》
雨上がりの雲間から光が差し込んで、勇為は傘を畳んだ。
もちろん、その手に持つ傘は一本だけ。
彼の傘は、彼に降り注ぐ雨を防ぐだけのもので充分だ。
誰かの為に荷物を増やすことも、誰かの為に身を呈して肩を濡らすこともしなくていい。
それでも、その誰かを想う優しさは変わらない。
自分を犠牲にしなくても、誰かの盾になろうとしなくても、愛はきっと、確かめ合える──。
ポケットのスマホが鳴り、通話ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし? ……うん、ごめんね。さっき会って話した通り、僕の気持ちは変わらないよ。……うん、そうだよね……でも、ごめん。僕と、別れてください」
誠実な勇為の言葉に、受話器の向こうの彼女が、涙声で訴える。
『嫌だ! 別れたくない! 悪いとこがあったら直すから!』
「悪いところがあったのは、僕の方だよ。君は何ひとつ悪くない。自分勝手で、本当にごめん」
泣きながら言葉を詰まらせる彼女が、納得がいかないと言うように、受話器の向こうで声を上げる。
『なんで!? 勇為の求める愛に、ちゃんと従ってたじゃん!』
「うーん、実は僕も、愛がなんなのか、よく分からないんだよねぇ。本当の愛を知りたくて、今、探してる最中なんだ」
知っているつもりでいた愛の形は、それが唯一ではないと知った。
きっと、人の数だけ、それぞれの形がある。
「だから、君も見つけて。そしたらいつか、僕に教えてね。君の幸せを、遠くから願ってる。愛してるよ」
その言葉に、嘘は無かった。
今の彼にとっての愛は、誰かを鎖で繋ぎ止める為の手段ではなく、相手の存在を尊重し護ろうとする為のものだった。
そこには強要も、証明も必要ない。
ただ互いが互いらしくいられる為に、時にはそっと手を離すことも、愛と呼んでいいのだ。
関係性に囚われなくても、その形に名前を付けてしまわなくても、きっと、愛は成立する。
また電話が鳴って、本日五度目の通話ボタンを押す。
「もしもし? ……うん、そうだよね……でも、ごめん。僕と、別れてください」
例え最低だと罵られても、これが彼なりの、ケジメの付け方だった。
「……うん、ありがとう。愛してるよ」
今の彼にとって、『愛』は呪いの言葉ではない。
『愛』とは、きっと、人それぞれの願いの結晶だ。
ただ愛する者の幸せを願うことに、条件や理由など必要無いのだ。
それはあの日、子供の自分が教えてくれた。
二人だけの秘密を分け合うように、宝物を見せ合うように、それは素晴らしいものなのだと確かめ合えた。
遠く離れた相手をそっと想うことも、報われない想いを一人胸の奥で灯し続けることも、それだけで、幸せを感じられるものなのだ。
この心が、ちゃんと、生きている証拠だ──。
空を仰いで、深く息を吸う。
そして踵で大地を感じながら、息をゆっくり吐いていく。
息を吐き切ると、今度は肺いっぱいに、新しい空気が入ってくる。
──そんな、ただの繰り返し。
生きる為の、単純な行為の繰り返し。
脳に酸素を回す為の、心臓に血液を届ける為の、彼が彼を生きようとする、大切な行為。
わざわざそんなことを、言葉にする方が可笑しいかもしれない。
それでも彼にとっては、とても大切なことだった。
時間に抗おうと、成長を止めてしまおうと、かつてはその体を死へと誘おうと、それらの行為をすることさえ拒んだ過去。
それを持つ彼にとって、食事や呼吸に罪悪感を抱かなくていいということは、それだけで幸せなことだった。
──正直、食べることに関しては、まだ苦手意識は拭えない。
しかしそれも、無理に克服しなくていい気がしていた。
食べたい時に食べて、寝たい時に寝る。
そんな当たり前のことで、幸せを感じられる今の自分の体は、結構好きだと思えた。
(誰かを愛する為には、まず僕が、僕の体を、心を愛さないと。だってこの体と心は、ちゃんと、愛を知っているからね)
空を見上げると、そこには虹がかかっていた。
胸がいっぱいになって、思わず写真に収める。
この景色を、見せたい人がいる。
幸せなこの瞬間を、分け合いたい人がいる。
彼は彼だけのたった一人のお姫様を失ったが、彼女と過ごした日々の全てが、消えて無くなったわけではない。
素敵な景色に綺麗だと心が動くこと、それを誰かと共有する喜びを、幸せと呼ぶこと。
全部、あの人が教えてくれたことだ。
それを愛することに、罪悪感を抱く必要はないのだ。
(僕はちゃんと、愛されていたよ……!)
心に燻る感情は、行き場の無いその感情は、ここにずっと居座っていたっていい。
扉を開けて、無理矢理追い出すことはない。
あの日、もしかしたらあの人が帰って来るんじゃないかと、玄関の扉を開けっ放しにしていたように、世界に期待し続けてもいいのかもしれない。
撮影した虹の写真を、ブログに投稿してみる。
即座に付くイイネの数も、彼にとっては愛だ。
鼻唄を歌いたい気分になって、長靴で軽快なステップを踏んでみる。
そうしたところで、なんだかお腹が空いたなと感じ、安堵の笑顔が零れる。
小さな体に幾つもの愛を詰め込んで、勇為は水溜まりを飛び越えた。




