第四十八話《ツミ》
「こちらも納期があるので、延ばせるにしても一週間が限界ですよ」
「……はい……すんまんせん……」
レコード会社との打ち合わせで、伶はバツが悪そうに頭を下げていた。
新曲の締め切りに間に合わず、納期の延期を申し出ていたのだ。
喫煙所に移動し煙草に火を点け、大きく息を吐き出しながら天を仰ぐ。
今まで感じたことのない、静かな世界の感覚。
──今朝起きた時のことだ。
違和感を感じて、すぐに気が付いた。
──音楽が流れていない。
生まれてからずっと脳内で流れていたその音は、突如プツンと途絶えてしまっていた。
慣れない沈黙の中で、これが普通の人が感じている感覚なのかと、戸惑いが消えなかった。
音の無い世界とは、こんなにも心細く、不安に煽られるものなのか、と──。
いつしか伶にとってのそれは、迷惑な雑音だと煩わしく思っていたそれは、子守唄のように寄り添ってくれるような存在だったのだ。
もう一度深く煙を吐き出して、沈黙に耳を傾ける。
煙を吐き出す音、灰を落とす音、動く度に服が擦れる音。
なんでもない小さな音さえ、こんなにハッキリ聴こえるものなのかと、新鮮だった。
『これで聞こえるようになっただろ。俺の声』
沈黙を打ち破る声がして、心臓を掴まれたような感覚がする。
恐る恐る視線をズラすと、目の前に白い影が浮かんでいた。
──誰だ、と聞かなくても分かる。
その姿は、紛れもなく、子供の自分の姿そのものだったのだから──。
『誰の名前を背負ってんのか、なんの為に曲作ってんのか、忘れたのか?』
──忘れてなんかいない。
そう反論しようとして、彼の言っていることが、何も間違っていないことに気付く。
親友の為に作っていた筈の曲は、いつの間にか目前の数字を獲る為だけの道具と成り果てていた。
手段と目的が入れ替わり、卑しい欲を満たす為だけに、自分の魂を売り渡してしまっていたのだ。
今の自分の姿を見たら、零はなんと言うだろう。
零が嘆いた、あの時大人になりたくないと零した、まさにその姿になっている自分を見て──。
絶望し、軽蔑し、憎むに違いない。
そんな今の姿を、この罪を、昔の自分が赦せる筈が無い。
「……悪かった……。もう、辞める……。こんなこと、終わりにするから……」
そう口にしてみると、体からすうっと力が抜けていくような感覚だった。
どうせ今のままでは、もう曲を作ることもできない。
間違った盗作紛いの手段はもう使うことができず、今まで頼り切ってきた、脳内を流れる音楽も止まってしまった。
詰み、だ──。
ここまでかと、伶は迷うことなく、この道を諦めることを選んだ。
しかし彼は、この後に及んで、こんなことを考えていた。
(なんで……零じゃないんだ……)
目の前に浮かぶ、白い影。
怪奇現象と名付けるには、強引すぎる幻。
こんな思考が透ければ、より軽蔑されるのは分かっている。
それでも、思わずにはいられなかった。
どうせ化けて出るなら、なんで、と──。
──理由は分かっている。
自分に、そんな資格は無いからだ。
零に合わせる顔も無ければ、零が自らに会いに来てくれる筈も無い。
それだけ、赦されないことをしたのだから──。
ゆらゆらと狼煙を上げる煙草の煙が、彼に罰を与えていく。
禁忌を破り、玉手箱を開けてしまった、浦島太郎のように──。
「やっ。お疲れ」
そう言って喫煙所に入ってきたのは、燈のリーダーである燈夜だった。
意外な人物の登場に、伶は気怠げに尋ねる。
「……吸うんでしたっけ?」
「たまにね。一本もらえる?」
隣で掌を出す燈夜を怪訝に思いながらも、伶は何も言わずに煙草を手渡した。
燈夜が日常的に煙草を吸っているところは、見たことがない。
きっと気を遣わせてしまったんだろうと、やるせない気分になった。
「新曲、行き詰まってるんだって?」
「……あー、俺もう辞めるんすよ」
そんな燈夜の気遣いすらも今は面倒になって、伶は会話を終わらせるように言い放った。
「……どうしたんだよ突然。そりゃあ煮詰まってりゃ、そんな気分になるのは分かるけどさ」
一時の気の迷いのような言い方をされて、反論しなければと気が焦る。
──目の前で、れんが見ている。
かつての自分に監視されて、人質を取られている気持ちになって、慎重に言葉を選ぶ。
ここで間違えたら、本当に後がない。
その影に向かって言い訳を連ねるように、自分に言い聞かせるように、一人ボソボソと呟いた。
「こんなことやったって、なんの意味もなかったんだ……。そこそこ売れて、世間に認められて、それに浮かれて、本当の目的を見失ってたんだ……。俺はたった一人の為に、あいつの為に、曲を書いてた筈だったのに……」
一度口にしたら、堰を切ったように、言葉がどんどん溢れ出て行く。
まるで体内の毒を、内臓が押し出そうとするように、暴れ出すそれは、自分の意志では止められない。
「死んだ人間に向けて、曲を書いてたんだ……。そんなものを世に放って愛されたって、なんの意味もない……。誰にも認めさせない。称賛も批判もいらない、そんなものさせない。俺とあいつだけの音楽にしなきゃ……。あいつだけの為に、曲を作らなきゃ……」
ボソボソと小さく呟く伶の言葉を、燈夜は遮ることなく黙って聞いていた。
そして最後まで吐き出した伶が、肩で息をするのを待って、呆気に取られたように言った。
「……俺と同じだ」
「……は?」
まさかの燈夜の言葉に、伶は耳を疑った。
あんたみたいな人間が、俺なんかと同じ筈が無いだろう、と──。
「俺もそうなんだ。死んだ人間に捧げる歌を書き続けてる。一方的な手紙みたいにさ。返事なんか来やしないのに、懲りずにずっと。それでも、この想いを形にせずにはいられないんだ」
昔を懐かしむように、その手紙の送り主を想うように、燈夜は優しく微笑んで、遠くを見た。
『燈夜くん』
愛おしそうに名前を呼ぶ、一人の幼い少女。
今でも鮮明に、その笑顔は心に棲みついている。
「俺達のことを何も知らない人達が、その曲を聴いて、分かったように評価されて、時には称賛も批判も、しっくり来ないことだってある。何が欲しくて、こんなこと続けてるんだろうって。でも、曲を作ること自体が、俺が手にしたいものだったんだ。二度と会えないその子と会話をするように、一緒に過ごせたかもしれない今日の出来事を、日記にしたためるみたいにさ。また明日って言って手を振るみたいに、そんなふうに曲を作ってる」
もう会えないからこそ、二度と取り戻すことのできない尊い時間だからこそ、その思い出はいつまでも輝き続けている。
そして、それを風化させない為に、彼らはその想いを音楽にして、奏で続けているのだ。
「だから、それでいいんじゃないかなぁ。人の数だけ物語があって、聴いた人が、自分の人生に当て嵌めて感情移入してくれたり、時には勇気を与えて、背中を押すこともできる。俺と彼女とで作り上げたもので、誰かの人生の灯を照らすことができるんだ。それってきっと、素敵なことだと思うから」
「……」
燈夜の話を、伶は黙って聞いていた。
同じ作曲家として、こんなふうに誰かの創作についての話を聞くのは初めてだった。
燈夜の言った通り、人の数だけ物語がある。
そんな彼らの物語も、いつか知ることができるだろうか──。
「ごめんね、これは完全に俺の話だから、伶の思う創作と、同じとは言えないかもしれないけど。でもおまえの音楽、俺は好きだよ」
その特定の誰かを想う言葉から、今度はちゃんと、伶に向けて言葉を投げかける。
自ら演奏も手がけるバンドの曲と違って、伶の打ち込み特有の音楽は、燈夜からすると、とても新鮮で魅力的だった。
「何か力になれることがあったら、いつでも言って。作曲家同士、何かヒントになるものを、渡せることもあるかもしれないからさ」
「……はい……」
牙を抜かれた獣のように、伶は力無く項垂れた。
失礼な態度を取ったにも関わらず、真剣に話をしてくれた燈夜に対して、自分が恥ずかしくなった。
そうしてまた、自分の罪をひとつ、またひとつと増やしていく──。




