瞳の奴隷⑦
「――大体さぁ、あんたみたいなお嬢様学校のお金持ちサマがさぁ、いちいち出しゃばってくるような事じゃないでしょ?」
ひと気のない薄暗い路地裏に入った途端、露骨にガラの悪い声が聞こえてきた。その先にあった光景は、はたして悪い予感通りのものだった。
路地の隅に追いやられ、小刻みに震えていたのはドロシーさん。その周りを取り囲むように、彼女と同じ制服を着た三人の女子生徒が、苛立った態度を隠そうともせず立っていた。その内の一人には見覚えがあった――確か昨日、ひと悶着ありかけたジュリア・マクベスという人だ。その彼女が先頭に立って、リッターさんに睨みをきかせていた。睨まれているリッターさんの方はといえば、ほとほと呆れ果てたという表情で、凄まれている事をなんとも感じていないようだった。
「金持ちだろうがなんだろうが、真っ当な神経を持っている人なら、普通にこの状況は見過ごせないでしょうに。全く、ロイの方がまだ恥や常識というものを持っていますよ」
「ちょっとその言い方は失敬じゃない? ま、こんなヤンキーくずれのジャリガキよりマトモだってところは正しいけどー?」
リッターさん達の元へ歩み寄りながら、ロイさんは軽い口調でなかなかに辛辣な事を言った。これにはさすがに相手もカチンときたのか、ジュリアさんも一歩前に身を乗り出してきた。けれど、そこで彼女はふと立ち止まり、苦い顔をした。ロイさん達のさらに後ろからやって来ている私達と目が合ったからだろう。ジュリアさんは分かりやすく大きく舌打ちした。
「ありゃりゃ、あんまりボク達は歓迎されてないっぽいね、ノエル」
「お仲間まで連れてきやがって……面倒くさいし、白けたわ」
「お仲間を連れ立っているのはお互い様じゃありませんかね?」
「あーはいはいお嬢様の仰る通りだわ、うざってぇ」
後ろの二人に来るよう手ぶりで合図して、ジュリアさんはそのままロイさん達の横を通り過ぎる。そしてそこでわざとらしく立ち止まると、ドロシーさんの方を軽く一瞥した。当然彼女は大きく震える。そんな彼女を庇うように、ロイさんが三人の前に立ちはだかる。
「マジさ、あんたら金持ちサマの趣味って訳分かんないんですけど。あんないらない子の為にこんな、」
「――何て言った」
灼けつくような激流。胃から込み上がる、唸るような痛み。わななく右手。静観しておくべきか、という判断は脳裏から霧消していた。
冷静な反応ではない。それは一種の反射的なものに近い反応。だが抑えられない。抑えようもない。
「要らない子? 今、そう言ったの?」
風が逆巻く。煩く震える。右手の先を鋭く切れる風が包み込む。痛みを感じる余裕もなく。バケツごとインクをぶちまけて拡げるように、感情を怒りが塗り潰す。
「要らないって、どういう事だ。どういうつもりでそう言った、お前」
声が聞こえる。聞こえはするけど、聴こえない。虫の雑音のようにしか耳に入らない。意味も判らない。
誰が囀っている?
目の前の彼女か?
後ろの二人組か?
それとも他の誰かか?
いや、誰でもいいのか。
誰が鳴いていようが、私の感情と行動は一つだけなのだから――
「――ノエルッ!」
振り下ろそうとされていた右腕をポーラに抑えられて、ようやく私は我に返った。目の前を見ると、後ずさるジュリアさん達の姿が。その顔の色は紙より白くなっていた。
「……行けよ」
声の出せない私に代わって、ポーラが若干上ずった声でそう言った。けれど三人は震えて身を寄せるだけで微動だにすらしない。
「いいから早く行けって言ってるんだよッ!」
しびれを切らしたポーラの怒声で、ジュリアさん達はようやく走り去っていった。
後に残ったのはリッターさん達の愕然とした表情と、片隅で泣きそうになっているドロシーさん。そして、私の右腕を掴んで離さない、ポーラの熱を帯びた両手の感覚だけだった。
「……ノエル、さん」
リッターさんの言葉と、ドロシーさんの揺れる視線が右手に向けられる。そこでようやく気が付いた。切り傷まみれになった手先から流れる血と痛みに。
「ポーラ。私、今、何をしようとしていたの?」
「……ノエル。キミが悪いんじゃない。今のはキミのせいじゃない。あいつがあんな心無い事言わなきゃ、キミもこんな……ごめん、答えになってないね」
「……………」
黒ずみがかった赤色に染まった右手を、どこか他人事のように見つめる。それは紛れもない自分の手だというのに。切り離せる訳はないのに。
ひび割れて、歪に汚れたそれが私の心だという現実は、変えようもないというのに――
「……えっ?」
ふと、右手にもう一つの感触。それは、いつの間にか私のそばまで来ていた、ドロシーさんの指先だった。
「……っ」
「ドロシーさん……」
小さな手から伝わる震えとぬくもり。私はそれを、そっと握り返した。
「ごめんなさい、変なところを見せてしまって。でも、もう大丈夫。大丈夫ですから」
「……………」
彼女は揺れる瞳をこちらに向けて、ふるふると首を横に振る。それからまた俯いてしまった。責任を感じているのだろうか。彼女のせいでは決してないのに。
「心配しないでください。ちょっと怒りすぎてしまっただけ……それだけですから」
「……………」
ドロシーさんはなおも、縋るような視線をこちらに向ける。
そこで感じた、一つの違和感。どうして彼女は、ただこちらを見るだけで、何も言わないのだろうか。その違和感を感じ取ったのは、どうやらポーラも同じらしかった。
「ドロシーさん、もしかして、キミ」
と、ポーラが尋ねかけたところで、彼女は私から離れると、そのまま路地裏から走り去っていった。その後ろ姿を、ポーラはただ黙って見つめていた。
「……ノエルちゃん」
彼女の姿が見えなくなった後。私のそばまでそっと歩み寄り、ロイさんは重い表情を浮かべた。そのすぐ後ろでリッターさんも沈痛な表情を見せる。
「その、ごめん。良くない事に巻き込んじゃったみたいね。まさかこんな事になるなんて……」
「私からも、申し訳ない、ノエルさん。さっさと私が事を納めておくべきでした」
「そんな、お二人のせいじゃ、」
「いいから、今は私達のせいにしときなさい。その方が、少しは気が楽になれるんじゃない? 一人で抱えるよりは、人に抱えてもらった方が、ね」
「……………」
「とりあえず、後の事はこっちに任せて。これから天気も崩れそうだし、二人は先に帰ってゆっくり休んだ方がいいわよ。というか絶対に休むこと。オッケー?」
「……だね。うん、ボクらは先に休んでた方がいいかもね。ノエル」
私はポーラとも視線を合わせる事ができないまま、小さく頷いた。そして、重い足を引きずるように、彼女の後ろを歩く。
無音の路地裏から出た後、ふと空を見上げた。ぬるい水滴がぽたりと一つ、額に降ってきたのは、ちょうどその時だった。




