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偶像の定理  作者: 御冬夏夜
35/43

ケルビムの炎 ⑭

「分かってましたよ? 最初から」


 それは自分にも言い聞かせているかのような口調だった。


「ノエルさん達に敵うはずがないんだって。会長が二人を生徒会に招いた時から、半ば諦めてた。だって私には、何の取り柄もないんだもの。二人みたいな勇気もなければ、機転もきかない。だから焦って折角のトリックも台無しにしちゃって。こんな何にも出来ない私が、二人に敵うはずなかったんです」

「何も出来ないって、そんな事、」

「ずっとずっとそうだった」


 ゆらりと、幽鬼のように。ポーラの声も届かず、どこも見ていないミーシャさんの足が前に擦り出る。


「どうしてお前はそんなに馬鹿なんだ、なんにも出来ないんだって。父も母も、ずっと私にそう言って。その通り私はずっと何も出来ていなくて。でも、いいよって。それでも大丈夫なんだって会長は言ってくれて。温かな居場所まで……こんな私なんかのために、『家』の代わりとなる場所まで作ってくれて。嬉しかった。本当に、心から嬉しかったのに――

     ――そこにあなた達がやってきた」


 空気が一層冷たくなったような感覚。一心に私を睨め上げるミーシャさんの視線。ようやく理解した。彼女の動機と、本当の狙いを。


「分かってましたよ? いつかはこうなるって。会長だって大変忙しいんだから、優秀な人が必要になるのは当然です。そうなれば私なんかの居場所なんてなくなるに決まってる。使えないから、いらないから。婉曲的に入らせないように私が言ったところで、そんな意見聞き入れてもらえる訳もない」


 嫉妬だとか、そんな次元のものではない動機。それを彼女に与えてしまったのは。


「怖いんですよ、ノエルさん、ポーラさん。私は、二人の事が怖い」


 胸の奥からこみあげてくるものを抑え込むのに必死で、何も答えられない。

 そんなつもりじゃなかった。誰一人、そんなつもりはなかったというのに。彼女は、そのささいなすれ違いにさえ気付けないほどに追い詰められていたのだ。誰からも見えない心の奥底では。


「どうして? どうして私の居場所を奪おうとするんですか?」


 強い口調で私達を問い詰めるミーシャさん。その頬には――きっと彼女自身も気付いていない――涙が一筋流れていた。


「やっと見つけた居場所なんです。やっと見つけた楽園なんです。それなのに、どうして……どうして壊そうとするんですかッ!」


 彼女の右手には、いつの間にか刃が剥き出しになったカッターナイフが握られていた。その切っ先は震えながらも、迷う事なくこちらに向けられている。


「出て行って……私の楽園から出て行って!」

「……駄目だ、ミーシャさん。そんな事したって、キミは幸せになんかなれない。本当はキミだって分かってるはずだ」

「うるさいッ! あなたに私の何が分かるんですか!?」

「分かるよ。ボクには……()()()()()()()()()()


 揺れる声色。彼女の表情は、ミーシャさんに真っ直ぐ向けられているために、こちらからは伺えない。


「もう、やめにしよう? お願いだから……ボクじゃキミを止められない。キミを止める事が出来ないんだ。きっと決意が揺らいでしまって、動けなくなってしまうから」

「……ッ。う、うう……」

「ミーシャさん。これ以上、自分自身を傷つけないでくれ」


 震え、迷うミーシャさんの方へと、ポーラが半歩踏み出した――その時だった。


「――ま、待ってください! 今中に入るのは危険だ!」


 廊下の方から聞こえてきた、リルハさんの切羽詰まった声。それにつられてドアの方に振り向いたのと、ドアが荒々しく開けられたのはほぼ同時の事だった。


「あなたは……」


 呼びかけるよりも先にその人は――オーネス卿は鬼のような形相でこちらに詰め寄る。ただミーシャさんの方だけを見つめて。


「お前はッ! お前はどうしていつもそうなんだッ!」

「ッ……!」


 顔から血の気が引き、弱々しく後ずさる彼女の手からカッターが落ちる。そんな彼女の元へ、オーネス卿は迷わず突き進んでいき。力強く握りしめられた拳を、そのまま彼女の顔目掛けて――


「――何やってんだよあんた!?」


 振り下ろされる寸前。間一髪の所で間に入ったポーラがその腕をつかんで止めた。けれどオーネス卿は収まらない。


「離してくれ! これは教育だ! 他人様に迷惑しかかけられんうちの馬鹿な娘には教育が必要なんだ!」

「教育って、そんな訳あるか、」

「躾の為に殴る事の何が悪いんだ!? オーギュスト夫人もそうだ、いつもいつも綺麗事ばかり。それで子供がまともに育つものか! さあどいてくれ、これはうちの家族の問題だ、躾の邪魔をするんじゃ――」

「――邪魔するに決まってるでしょう、オーネス子爵殿」


 低く、圧の込められた声と共に、苦い表情で姿を見せたのはベイカーさんだった。その隣には冷淡な視線をオーネス卿に向けるマイヤーさんの姿もあった。


「どういう理由があるにしたって、大の大人が子供を殴りつけるというなら、それはただの暴行罪だ。それも現行犯」

「いくらあなた様が貴族様であられましてもね? オーネスさん。我々警察としましては、さすがに現行犯は見逃せない訳なんですよ。どうです、ご理解いただけましたか?」

「うっ、く……」


 口調は違えど怒気をはらんだ二人の言葉に、ようやくオーネス卿は拳を下した。そして彼は不満げな顔をしたまま。


「……し、失礼するっ。後はお二方にお任せする」


 吐き捨てるようにそう言って、出入り口に立っていたリルハさんには見向きもせずに、早足で図書室から出て行った。それを流し目で見送った後、ベイカーさんは深々と嘆息した。


「すまん、マイヤー君。卿の事は頼めるか」

「仕方ありませんね。貸しですよ?」

「分かってるさ。礼は後で十分にするよ」


 苦笑いを残して、マイヤーさんはオーネス卿の後を追っていった。その足音が聞こえなくなってから、ベイカーさんは私達に複雑な表情を向けた。


「ノエルちゃん達にも迷惑をかけたな。完全に私の手落ちだ……チェルシーちゃんに頼まれた通り、オーネス子爵夫妻には知られないよう動きたかったんだが。困った事に、彼は警察に広く顔が利く御仁でね。その伝手で話が漏れ聞こえてきたんだろうな……嫌な事に巻き込んでしまった。本当にすまない」

「い、いえ、私達は大丈夫です。それより……」


 その場にへたり込んだまま動けなくなっているミーシャさんの方を見る。彼女の顔色は青ざめているを通り越して、紙のように白くなっていた。ベイカーさんは彼女の前で静かに屈みこむ。


「大丈夫か? 一人で立てそうか?」

「……………」


 彼女は未だ震えながらも辛うじて頷き、ゆっくり立ち上がった。そんな彼女に、ベイカーさんは優しく声をかける。


「くれぐれも無理はしないようにな……それじゃ、後の事は私に任せてくれ」


 先導するベイカーさんの後ろを、ミーシャさんは俯いたままついていく。そして、図書室を一歩出た所で、ふと彼女は足を止めて。


「ごめんなさい、私なんかのために」


 ただ一言、リルハさんにそう言って。一度も顔を上げる事のないまま、ミーシャさんは立ち去っていった。

 後に残されたのは、肩にのしかかるような冷たい空気だけだった。

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