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良和の時間 その8 妻になる時間

 日曜日の夕方。良和は「夕食でも買いに行くか」と外出した。近くの花山公園を抜け、スーパーへ向かう。夕日がとても綺麗だ。が、途中で、見慣れた女性が佇んでいるのを発見した。

 沙紀だった。両手で顔を抑えているが、指の間から涙が零れている。

「沙紀!」

 良和は思わず声を掛けた。沙紀は良和に気付き、手で持っていたハンカチで涙を拭った。

「……立花さん」

 立花さん。それは結婚前に沙紀が良和を呼ぶときの名前だ。良和は今が2016年だということを再認識した。この沙紀は結婚前の沙紀なのだ。

「どうしたの?」

 沙紀は泣いているところを見られたのが気まずそうだった。

「……何でもないです」

「何でもなくなんかないよ。君のことが心配なんだ」

「……立花さんには関係ないことです」

 沙紀のつっけんどんな態度が良和の胸を痛める。この沙紀がまだ良和を何とも思っていない事実を痛感させられる。だからといって、泣いている沙紀をほっておくことはできなかった。良和は沙紀の未来の夫なのだ。

「分かった。何も聞かない。その代わり……焼き鳥でも食べに行かないか?」

「焼き鳥?」

「近所に焼き鳥がとてもうまい店があるんだ。そこで食べて飲んで、嫌なことは忘れちゃおうぜ!今日はおごるから!」

 良和は沙紀の手を強引にひっぱって、居酒屋「鳥元」へと連れて行った。


「さあ、食べてごらんよ。絶品だから」

 目の前に並べられた焼き鳥を良和が沙紀に勧める。

 沙紀は焼き鳥を一本手に取り、恐る恐る口へと運んだ。

「……おいしい」

「だろだろ、どんどん食べて!」

 良和もビールを片手に焼き鳥を食べ始めた。沙紀もぐいっとビールを飲む。

「お、なかなかいける口だね!」

 箸が進みだした二人は、まず最初はあたりさわりのない話を始めた。仕事のこと、悪友の加藤のこと、花山公園の桜のこと……。

 そして沙紀は、良和に心を許し始めたかのように、少しずつ本題を話し始めた。

「男の人って……みんなそうなんですか?」

「へ?」

 良和は意図を掴めず、聞き返した。

「男の人って……みんな浮気するんでるか?」

 ああ、元彼の浮気現場を見たから泣いていたんだな、と良和は理解した。

「いや、僕は浮気はしないと思うけど……」

 沙紀だけだよ、とはここではまだ言えなかった。

「そうですよね!普通は浮気なんかしないですよね!やっぱあの人……軽いって言うか、女たらしって言うか……」

「へぇ、なんかひどい奴だね!」

 良和は元彼の一樹に嫌な目に会されたので、一樹のことは好きではなかった。そのため、沙紀が一樹のことを悪く言うのは、良和には小気味よかった。元彼の悪口を肴に、どんどん酒が進んでいった。


***


「ずいぶん飲んだね~。一人で帰れる?」

「だ、ダイジョブです」

 沙紀は酔って千鳥足になっている。どう見ても大丈夫ではないので、沙紀に肩を貸しながら、良和は駅の方へ歩いて行った。当たりは暗くなっている。途中、花山公園に差し掛かった。小さな崖の上の小道を通る。崖下には暗い林が広がっていて、林の向こうには街明りが見える。

 沙紀は足を止めた。良和が沙紀の様子を見ていると、沙紀が思い出したようにつけていたネックレスを首から外した。シルバーのハート型のものだった。沙紀は少しそのネックレスを見ると、いきなり「えい!」と投げ捨ててしまった。ネックレスは暗闇の中、放物線を描いて崖下に消えて行った。そして沙紀は闇に向かって叫び始めた。

「一樹のバカヤロー!」

 良和も便乗して一緒に叫んだ。

「一樹のバカヤロー!」

 二人の大声は夜の街明かりに吸い込まれていった。

 少しの沈黙の後、沙紀に笑顔が戻った。

「あー、スッキリした!立花さん、今日はごちそうさまでした。付き合ってくれてありがとうございます」

 パッと見、沙紀は一樹のことを吹っ切れたようにも見える。が、良和は、結婚生活を経て沙紀の性格がよく分かってきた。沙紀はまだ強がりを言っている。

「沙紀……辛いときには、思いっきり泣くといいよ」

 その言葉を聞いた沙紀は、目に涙を貯めて堪えていたが、しまいには大粒の涙が零れてしまった。良和は思わず沙紀を抱きしめた。沙紀はそれに抵抗することもなく、良和の腕の中で大声で泣き続けた。

 何分もの間、沙紀の泣き声が暗闇をこだましていた。

(沙紀にこんな悲しい思いをさせるなんて……一樹め、許さん!)

 これは良和の本心だった。もっとも、一樹が浮気したおかげで良和は沙紀と結婚できたのだが、それとは別にして沙紀の悲しい顔を見るのが良和には辛かった。


 しばらくして……良和が気付いたときには、沙紀は良和の腕の中で立ったまま寝息を立てていた。

「沙紀……もう帰ろっか」

 沙紀の返事はない。良和はどうしようかと途方に暮れた。タクシーで送るにしても、良和は沙紀の結婚前の住所を覚えていなかった。

 仕方がない……良和は、沙紀をおぶって自分の家へと連れて帰った。


 良和の部屋に入り、よいしょっと沙紀を抱えてベッドに寝かせると、良和はふうっと一息ついた。沙紀が軽くてよかった、とほっとしている。良和はベッドの下に腰を下ろし、沙紀の顔を覗き込んだ。沙紀は寝ているようだ。だが、ときどき口から嗚咽が漏れる。一樹の夢でも見ているのだろうか。

 良和は寝ている沙紀にゆっくりと語りかけた。

「沙紀……今は辛いだろうけど、安心して。僕が君を必ず幸せにするから」

 沙紀が寝ていることを再確認して、良和は続けた。

「君は僕の妻になるんだ。僕は絶対に浮気はしない。心配することは何もないよ。だから……今日は、ゆっくりお休み」

 少しの間の後、沙紀の口が開いた。沙紀は今の言葉を聞いていたようだ。良和は少し驚いた。

「立花さん……まだ付き合ってもないのに、いきなりプロポーズですかぁ?気が早すぎますよ……」

 そのまま沙紀はまた寝息を立てる。良和は沙紀を安心させるために未来の事実を伝えただけのつもりだったが、確かにプロポーズに聞こえる言葉だった。良和は「なるほどこうこうことか」と頭を掻いた。

 それにしても、と良和は思う。酔って火照った沙紀は、なんて色っぽいんだろうと。服の第二ボタンが外れて胸元が少し見えている。スカートが少しめくれ、脚が露わになっている。良和はここ一週間、沙紀と関係をもっていないことに気付いた。そろそろ我慢の限界が近づいている。ただ、この沙紀は結婚前の沙紀だ。ここで手を出してはいけない、と良和は辛うじて理性を保っていた。

 が、それも長くは持たなかった。

 沙紀が「うーん」と寝返りをうち、寝顔を見ていた良和の首にいきなり抱きついた。

 そのまま沙紀の胸元に引き寄せられる良和。

 良和の理性がポンと音を立ててはじけ飛んだ。


***


「しまった!」

 良和はガパッと跳ね起きた。何も身に着けていない。窓の外はもう明るくなっている。沙紀は……もういないようだ。昨日のことは……酔ってはいたが、よく覚えている。

「やっちゃった……酔った勢いで……」

 良和は自己嫌悪に陥った。失恋して酔った女性を手籠めにするだなんて、自分はそんな不埒な男とは思っていなかった。いや、相手は自分の妻になる人だから、問題ないのか?良和はそう自分に言い聞かせて、なんとか理性を保った。それにしても……プロポーズといい、沙紀と寝たことといい、ありえないことと思っていたが、結局そうなってしまった。やはり運命には逆らえないのだろうか。

 時計を見ると8時を回っていた。まずい、今日は仕事だ!と飛び起きた。テーブルの上のメモに気付いたが、後で読もうとスーツのポケットに入れて会社に向かった。が、そのメモは会社に着いたらポケットから消えていた。2016年に家で書かれたメモは、2017年の会社には持って行けなかったのだ。しかし良和はそのメモを読んだことがあったのを思い出した。メモは2016年のスーツのポケットに入ったままだった。確か、沙紀の電話番号と「帰ります」という言葉が書かれていた。


 その日の夜。二日酔いに襲われながらもなんとか仕事を終え、帰宅した良和が家の前に付くと、窓から明かりが漏れているのが見えた。

「そうか、今日でタイムスリップは終わったんだっけ」

 良和は安堵の表情になった。

 良和が玄関のドアを開けると、予想通り「おかえりなさい」と沙紀が出迎えてくれた。

「ただいま、沙紀」と返す良和。

 呼び捨てにされたことで、沙紀がもしかして?という顔になる。良和は沙紀に期待通りの言葉を告げた。

「沙紀、もう元に戻ったよ」

 その言葉を聞いて、沙紀もすべてを理解した。

「あなた!……わたしと結婚した、わたしの夫の「あなた」なのね?」

「うん。心配かけたね。もうタイムスリップはしないから、大丈夫だよ。安心して」

「よかった!!」

 沙紀が良和にギュッと抱きつき、良和の胸に顔を埋めた。良和も沙紀を抱擁し、頭をなでる。

「イテテ、きついよ、沙紀」

「だって、うれしんだもん!」

 沙紀は、しばらく喜びを噛みしめた後、今日いちばんしたかったことを思い出して、抱きつきながら顔を上げた。

「あなた……ところで、ご飯にします?それともお風呂?それとも……」

 沙紀が良和の顔色を窺う。良和は微笑んで言葉を返す。

「そうだねぇ、最近沙紀の温かい手料理を食べてなかったし、疲れたからお風呂にも入りたいし、でもそれより」

 そう言って、良和がよいしょと言ってお姫様のように沙紀を抱きかかえた。きゃっと声を上げる沙紀に構わず、良和はベッドへと向かっていった。

「それとも、にしようかな」

 沙紀は顔を赤らめた。


***


「ねえあなた」

シーツから顔だけだした沙紀が良和に話しかける。満ち足りた表情で、汗がにじんでいる。

「何だい?」

「今になって思うんだけど……プロポーズしてくれたときのあなったって……ひょっとして……今のあなただったのかしら」

「え?」

「だって……その……あのときも……今みたいに……上手だったから」

 思えば良和も結婚半年でずいぶん上達したものだった。ただ、この質問に正直に答えていいか、ちょっと迷った。なんだか悪いことをしたような気になったのだ。だが、結局、正直に白状した。

「……うん」

「それって、あなたにとっては昨日よね」

「……そうなるね」

「ひどーい!!」

 沙紀は良和の頬を思い切りつねった。

「え、え、何で?」

「だって、わたしの方は何もなかったのに、あなたの方は一年前のわたしと楽しんでたんでしょ?」

「いや、どっちも君じゃないか!」

「そうだけど…なんか浮気された気分……」

 沙紀はプンプンと怒っていたが、やがてやさしい顔に戻った。

「でも……」

「でも?」

「わたし、本当によかった。あなたが夫になってくれて」

 良和もやさしい顔になる。

「僕もよかった。君が僕の妻になってくれて」

 そう言うと、ベッドの上で二人はキスをした。


【良和の時間・終わり】

ここまで読んでくれてありがとうございました。

いちおうこれで一段落です。

一樹はどうなったのか?アパートを格安で借りれている理由とは?

その辺は番外編に書こうと思います。そのうち。

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