第27話:終わりなき靴底
1.境界の審判
白亜の公爵別邸の崩壊から数週間。
王宮の絢爛たる大法廷とは異なり、王都の外縁、平民と貴族の居住区が交わる「境界の街」に建てられた質素な石造りの建物。
そこには新設された、いかなる身分も通用しない、真の『境界の法廷』が静かに佇んでいた。
その被告人席に、一人の男が立っていた。
白銀の法衣ではなく、薄汚れたが整った罪人用のローブをまとい、手首には魔力封じの手錠を嵌めたまま、背筋を真っ直ぐに伸ばした男。
真木・フォン・バルドー。
彼は自らの犯した罪――魔導ドラッグ『ハイドラ』の開発、および流通、国家転覆陰謀――のすべてを、言い逃れすることなく、淡々と、しかし確固たる声で告白していた。
「……すべての計画、すべての罪は、私個人の意思によって行われました。下層街の貧民たち、および実験に使われた子供たちに対する責任は、すべて私にあります」
法廷の傍聴席の最前列。
ツヨシはすり減った革靴を踏みしめ、腕を組んでその姿をじっと見つめていた。
彼の隣には、へし折れた予備の杖を胸に抱いたアルフレッド、片眼鏡を静かに指先で微調整するクラウス、そして漆黒の制服から私服へと完全に着替えたルークが並んでいる。
「真木・フォン・バルドー。あなたの犯した罪は、国家の秩序を揺るがす大罪である」
裁判官を務める老魔導師が、厳かに宣告する。
「しかし、あなたが暴露したバルドー公爵の組織的実験、および国家予算横領の証拠開示、そして実験に利用されていた数千の貧民の命を実質的に救った事実を鑑み、死刑ではなく、王都最深部の監獄での終身刑を言い渡す。……反論はあるか」
「ありません」
真木は深く頭を下げた。手首のチェーンが、チャリ、と冷たく静かな音を立てる。
審判が終わり、法廷を退出する際。
真木はツヨシたちの前で一度だけ、歩みを止めた。護衛の兵士たちも、この「境界のデカたち」の重圧に押されるようにして、静かに距離を置く。
「……剛さん」
真木は、細い眼鏡の奥の瞳に、涙を浮かべながらも、前世のあの警察学校の廊下を共に歩いた時のような、真っ直ぐで穏やかな微笑みを浮かべた。日本語だった。
「僕の歪んだシステムを、泥だらけの革靴で踏み潰してくれて、ありがとうございました。……僕の心は、あの雨の倉庫街で死んだあの日から、ようやく、前に向かって歩き出すことができます」
「マサキ。お前を生き長らえさせたことを、俺は一秒だって後悔しちゃいねえよ」
ツヨシは一歩前に進み、真木の細い肩を、優しく、しかし痛いほど強く叩いた。
「生きろ。生きて、罪を償え。お前が生きたあとの世界はな……俺たち四人のデカが、地の果てまで歩き回って、泥だらけの靴で守ってやるからよ。……またな、相棒」
「……はい、剛さん。……僕の、最高の刑事」
真木は深く、本当に深く頭を下げると、手錠を鳴らしながら、静かに光の射す奥の廊下へと去っていった。
東野圭吾作品のクライマックスに漂う、愛ゆえに狂った犯罪者の、あまりにも静かで美しい「救済」が、境界の法廷に満ち満ちていた。
2.キャリアの新しい法衣
「――全く、お前の野蛮な捜査のせいで、私のエリートとしてのキャリアは完全に灰になったよ、ツヨシ」
法廷の外。冷たい秋風が王都グラナダの硬い石畳を吹き抜ける中、クラウスが自嘲気味に、しかし誇らしげに息を吐きながら言った。
彼の白金魔導杖は失われ、かつて王宮で「お偉いさん」と恐れられていた高級な法衣も、今は平民と同じ質素なウールの外套に変わっていた。だが、その青い瞳に、官僚的な保身の影は微塵もなかった。
「お前が組織の犬になりきれねえってことは、最初から分かってたよ、クラウス課長」
ツヨシは不敵にニヤリと笑った。
「いや、もう『課長』じゃねえな。無職のキャリア様か」
「誰が無職だ、野蛮人が」
クラウスは胸元から、新設された『境界の捜査特別班』の非公式な木製徽章を取り出して見せた。それは、王宮のどの階級にも縛られない、法秩序が崩壊した場所にのみ現れる「境界の法の番人」の証だった。
「王宮法務省は私を免職にしたが、新しい王都の議会は、私にこの『境界の特別班』の指揮権を委ねた。……これからは、王宮の隠蔽工作に怯えることなく、身内の不正であろうとも、法の刃を真っ直ぐに叩き込める。最高の合理性だ」
「係長! 私たちも正式にクラウスさんの班に配属されました!」
アルフレッドが、修復され、今度は青い魔導結晶を据え付けた真新しい杖を掲げて嬉しそうに言った。
「ルークと私のコンビで、王都のすべての物理的・魔導的ゲソ痕(足跡)を特定します。ツヨシさん、もう『おこぼれ』の捜査なんて言わせませんよ」
「係長の地道な足の動かし方、私が完璧に監査して、次の現場を特定しますよ」
ルークが、尖った耳をピクリと動かし、鑑識用の照準器を構えて不敵に笑った。
今野敏の描く、官僚主義を捨てて真の法の精神に目覚めたキャリアと、現場を歩き潰すノンキャリア。立場も、種族も違う4人のデカたちが、一つの「信頼」という見えない鎖で固く繋がっていた。
「へっ……、随分と頼もしい『野良犬ども』になったじゃねえか」
ツヨシは懐から安価な薬草を取り出し、マッチで火をつけた。
吸い込んだ紫煙を、ゆっくりと朝日の光の中へ吐き出す。
「お上が作った綺麗な秩序じゃ、現場のノイズは片付かねえ。……お坊ちゃんたち、靴底を減らす準備はいいか」
3.再生の足音
夕暮れ時の下層街。
かつて不気味な仄青いハイドラの光に侵食されていた路地裏には、今、あちこちから活気のある生活のノイズが響いていた。
ハイドラの呪縛から解放され、ヴァルター大魔導師が遺した治療薬が正式に認可されたことで、魔力枯渇症に喘いでいた多くの平民たちに、真の平穏が戻りつつあった。
エルフの孤児院の裏庭。
夕日に赤く染まる芝生の上で、子供たちが元気にボールを追いかけて走り回っていた。
「ツヨシさん、アルフレッドさん!」
カレンが、じょうろを置いて駆け寄ってきた。彼女の首元には、かつてヴァルターの爪の間に挟まれていたのと同じ、鮮やかな『紫色のマフラー』が優しく、誇らしげに巻かれていた。
「子供たちの頬の赤み、もう消えそうにないな、カレン」
ツヨシが言うと、カレンは涙を浮かべながら、深く、丁寧に頭を下げた。
「はい。ヴァルター先生の遺したデータのおかげで、王都の薬事院も正式に治療薬を平民に配布することを認めました。……先生のダイイングメッセージは、ツヨシさんという『本物の刑事』に届いた。……本当に、あの日、先生の遺した部屋を調べてくれて、ありがとうございました」
「俺はただの、足の遅いデカだよ、カレン」
ツヨシは笑いながら、カレンの頭を乱暴に、しかし愛おしそうに撫でた。
「事件が起きた。そこに転がっている遺体の無念を晴らすために、俺たちは靴底を減らしただけだ。……お前たちのその笑顔が、じいさんへの、何よりの報告書の代わりになる」
カレンと子供たちに見送られながら、4人のデカたちは、夕暮れの下層街を歩き出した。
東野圭吾作品の結末に漂う、愛する者を守り抜いた者たちにのみ訪れる、静かで、温かい再生の光が、ドブ川の街を美しく照らしていた。
4.終わりなき靴底
グラナダの西街区、大きな夕日が、王都の城壁の向こう側へとゆっくりと沈んでいく。
ツヨシは歩みを止め、懐からクシャクシャになった煙草を踏み消した。
ふと、自分の足元を見つめる。
革製の重厚なブーツ。
前世の旭川や歌舞伎町の泥を吸い、この異世界グラナダのすべての石畳を、下層街のドブ川を、そして公爵別邸の大理石を踏み潰してきた、刑事の象徴。
その靴底は、すっかり擦り減り、つま先には小さな穴が開きかけていた。
「ツヨシ、どうした? 靴に石でも入ったか」
クラウスが立ち止まり、不思議そうにツヨシを振り返った。
アルフレッドとルークもまた、それぞれの杖と短杖を構え、ツヨシの隣で並び立つ。
「いや……」
ツヨシはゆっくりと顔を上げ、不敵な、狂犬のような「デカの笑み」を浮かべた。
「すり減らすべき靴底は、まだ、たっぷりと残ってるなと思っただけだよ、お坊ちゃんたち」
王都の北東、貴族街の方面から、魔導のパトロール隊の喧騒と、新たな事件の発生を告げる魔導ホイッスルの音が、夕風に乗ってかすかに聞こえてきた。
現場が、彼らを呼んでいる。
この世界のどこかで理不尽な犠牲者が、その無念を晴らす「執念」を待っている。
「行くぞ。……現場が動く」
「はい、ツヨシさん!」
「言われなくとも」
「係長、私の足跡、遅れないでくださいよ」
夕暮れのグラナダの硬く、冷たい石畳の上に、4人のデカたちの影が、長く、そしてどこまでも力強く伸びていく。
靴音を響かせ、彼らは再び歩き出す。
彼らの終わりのない法執行の旅は、今、このすり減った靴底の上から、本格的に始まるのだ。
(『異世界に転生しちゃったので刑事になってみた。』 完)
最後まで読んでいただきありがとうございました。明日からは「ツヨシ」シリーズ第6弾が始まります。




