第40話 勝ったあとほど、配合は難しい
ミカヅキノユメが榊原ファームへ入ったのは、連勝の翌々日だった。
馬房の位置は、前の日のうちに決めてある。
人の動線も変えた。
フユノホシの緩衝帯はそのままにして、ミカヅキノユメには出入りの少ない列の端を使う。
「兄さん」
美緒が馬房札を見ながら言う。
「本当にここでいい?」
「いい」
「もう少し事務所に近い方が、見やすくない?」
「人が増える」
「ああ」
美緒はすぐに納得した顔になった。
「じゃあ、ここだね」
「ああ。まず“見やすい”を捨てる」
「勝ったあとの牧場とは思えない地味さ」
「その地味さが要る」
ミカヅキノユメは車を降りた直後こそ首を高くしたが、暴れはしなかった。
ただ、耳の動きは忙しい。
人が一人増えるたびに、目だけ先にそちらへ行く。
「触るの、私と兄さんと玲奈さんだけ?」
美緒が聞く。
「最初はそうする」
「三人だけで回る?」
「回すしかない」
「人を増やさないの?」
「増やしたら、この馬は崩れる」
玲奈が横で頷いた。
「あと、桶の位置も変えない」
「まだ一口も飲んでないけど」
「だからよ」
玲奈が言う。
「今の一口は、場所ごと覚えるから」
ミカヅキノユメは馬房へ入ってからもしばらく動かなかった。
乾草にはすぐ行かない。
水もまだ見ているだけだ。
だが、それでいい。
焦って近づく方がまずい。
恒一が一歩だけ下がった時、事務所の電話が鳴った。
美緒が顔を上げる。
「今日、多いね」
「勝ったあとだからな」
「いい電話?」
「出てみないと分からない」
受話器を取ると、三雲だった。
『榊原さん、今いい?』
「要件次第だ」
『嫌いじゃない返しだね』
「で、何だ」
『今日、もう一件ある』
「見学は断る」
『見学じゃない。もっと金の話』
「……」
『三十分で着く。聞くだけ聞いて』
そこで電話は切れた。
嫌な切り方だった。
「兄さん?」
美緒が聞く。
「三雲」
「嫌な間だった」
「金の話らしい」
「良い話じゃないの?」
「良い話ほど、嫌な時がある」
ミカヅキノユメの馬房へ戻ると、牝馬はまだ水を飲んでいなかった。
ただ、首の高さは少しだけ下がっている。
「兄さん」
美緒が小声で言う。
「今、電話で人増やしてる場合じゃない気がする」
「そうだな」
「でも、お金の話なんだよね」
「ああ」
「嫌だな」
「俺もだ」
三雲が連れてきたのは、見覚えのある男だった。
市場で数回見たことがある。
長谷部。
馬を育てるというより、売る位置まで運ぶことに長けた人間だ。
車を降りるなり、長谷部は厩舎を見回した。
「勝った牧場って聞いたが、静かだな」
「うちは前から静かです」
恒一が言う。
「それは結構」
長谷部は笑った。
「静かな方が見せやすい」
その一言で、嫌な方向が見えた。
事務所へ入ると、長谷部はすぐに紙を出した。
「一歳牝馬を二頭。短期で置きたい」
「短期?」
「秋の見せ場までだ。馬房は二つ。人はこっちで連れてくる。見学もこっちで回す。榊原さんとこは場所と日常管理を出してくれればいい」
「見せ場って何をする」
恒一が聞く。
長谷部は悪びれずに答えた。
「歩かせる。見せる。必要なら少し動かす。写真も撮る。値段を付けるための段取りだ」
「……」
「悪い話じゃない。金はかなり出す」
美緒が紙を見て、息を止めた。
たしかに高い。
ミカヅキノユメの預託料とは比べものにならない。
冬の飼料代も、獣医代も、かなり軽くなる額だった。
「どう?」
長谷部が聞く。
「二頭入れるだけで、今のうちならかなり楽になると思うが」
美緒は紙を見たまま言う。
「……かなり助かる」
「だろう?」
「でも条件が多い」
「勝った牧場なんだから、そこは使わせてもらう」
長谷部は軽く言った。
「実際、タチカゼの連勝は売り文句になる」
その言い方で、恒一は椅子に背をつけた。
売り文句。
そこが違った。
ミカヅキノユメは、うちに任せる理由があって来た。
こっちは違う。
うちの勝ちを、こっちの見せ方に使いたいだけだ。
「人はこっちで入れると言いましたね」
「ああ」
「何人ですか」
「見学の時は増える。四、五人は普通だ」
「うちの動線は使えません」
「なら変えればいい」
「変えません」
「……」
「今いる馬が崩れる」
長谷部はそこで初めて、少しだけ顔を変えた。
「勝った直後に、ずいぶん余裕だな」
「余裕はありません」
恒一が答えた。
「だから、崩す仕事は受けない」
三雲がそこで口を挟んだ。
「落ち着け、二人とも」
「お前はどっちだ」
恒一が聞く。
「話を持ってきたのは俺だ」
「そうだな」
「でも、今のうちがこれを受けると、何でも売る牧場に見える」
「……」
「だから、持ってきたけど勧めてはいない」
それは三雲らしい言い方だった。
美緒が紙を置く。
「兄さん」
「なんだ」
「この金額、かなり助かる」
「ああ」
「でも、ミカヅキノユメを入れた直後に、見学の人を増やして、動線を変えて、歩かせて見せる馬を二頭入れたら」
「分かってる」
「フユノホシも崩れるし、シラユキノハナの仔も崩れる」
「そうだな」
「タチカゼが勝って作った静けさを、自分で壊すことになる」
玲奈がそこで入ってきた。
「何の話?」
「二頭入れて、見せて、売る話」
美緒が言う。
「金はいい」
「断り」
玲奈は即答した。
「早いな」
恒一が言う。
「ミカヅキノユメが来た初日に持ってくる話じゃない」
「……」
「今それ受けたら、“うちが持てる頭数”じゃなくなる」
「金はかなりいい」
「だから危ないの」
玲奈は長谷部を見ずに、恒一だけを見る。
「兄さん。今のうちが守ってるのは馬房じゃない。馬ごとの余白」
「……」
「余白を売ったら、その後は全部雑になる」
長谷部はそこで少し笑った。
「理想は立派だ」
「理想じゃない」
恒一が言う。
「昨日までのうちなら飛びついてた」
「今は違う?」
「今は、受ける一頭と断る金を分ける」
事務所が静かになった。
ミカヅキノユメの馬房から、まだ水を飲まない気配だけがある。
その静けさが、逆に答えをはっきりさせた。
「長谷部さん」
恒一が言う。
「この話は受けません」
「理由は?」
「高い。でも、うちの勝ちを安く使う話だからです」
「……」
「勝った牧場に預けたい仕事なら受ける。勝った牧場を使いたい仕事は受けない」
「面白い言い方するな」
「そうですか」
「金に困ってる顔のくせに」
「困ってますよ」
恒一は答えた。
「だからこそ、困ってる顔のまま受けると足元を見られる」
三雲が小さく笑った。
「その返しはいいな」
「お前が持ってきたんだろ」
「だから聞けてよかった」
長谷部は紙をしまった。
「惜しいな」
「こっちもです」
恒一が言う。
「でも、惜しいで受ける時期は過ぎました」
「なるほど」
長谷部は立ち上がった。
「また条件が変わったら来る」
「その時は話を聞きます」
「今度は“使う”じゃなく“任せる”形で持ってくるよ」
「それなら聞きます」
二人が帰ったあと、美緒が椅子にもたれた。
「断れたね」
「ああ」
「しかも、かなりでかい金」
「でかいな」
「今のうち、前なら受けてた」
「受けてた」
「しかも、うまく回せる気でいた」
「……ありえる」
玲奈が短く言う。
「でも今は違った」
「ああ」
「それなら十分」
外へ出ると、ミカヅキノユメがようやく水桶に鼻先を下ろしていた。
一口。
それだけだったが、小さくはなかった。
「兄さん」
美緒が後ろから言う。
「なんだ」
「今の一口の方が、さっきの金より大きいかも」
「そうかもな」
恒一は少しだけ笑った。
勝った。
だから金は来た。
でも、金を断って残った静けさの方が、たぶん今のうちには高い。
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榊原恒一の現状
牧場経営力:A-
配合読解:C-
繁殖観察:A-
若駒評価:A
現場判断:A
資金繰り判断:B+
交渉・信頼:A-
牧場再建度:36%
榊原ファーム経営状況
現金余力:低
資金繰り危険度:高
繁殖牝馬群期待値:上昇中
若駒資産価値:A
自家保留価値:A
牧場ブランド:B-
倒産危険度:高
補助表示
若馬売却成否:成立
育成先:北斗トレーニングファーム
受託繁殖:ミカヅキノユメ 受入済
断った案件:短期見せ預託二頭
管理方針:受ける一頭、断る金を明確化




