追いかけっこ
第六感が働いた、とかじゃない。
たまたま僕の立っていた場所には月明りが届いていた。それが、急に影で覆われた。
すぐさま背後を振り返るも人の姿はない。一瞬混乱するも、ある可能性に気づき空を見上げた。
「ようやく追いつきましたよ」
やはりという思いと、あり得ないという気持ちがせめぎ合う。
僕らの頭上には、さも当然のように宙に浮き、こちらを見下ろしているクラーラさんの姿があった。
「……空中浮遊ができるって、本当だったんですね」
そんな僕の呟きは誰にも届かず。月光を背に受けたクラーラさんは、妙にハイな様子で喋り出した。
「全く急に逃げ出すなんてひどいではありませんか。私はどうしてあなた方が守平君を殺したのか聞きたかっただけだというのに」
「だから僕たちは須藤さんを殺したりなんてしてません!」
「言い訳は不要ですよ。お二人にしか守平君を殺すチャンスがなかったことは見ていたので知っていますから」
「だからそれが誤解で――」
「それよりこちらの壁はいったい何でしょうか? もしや守平君だけでなく私たちのことも逃がさず殺すつもりでいたのですか? だとしたらとんだ殺人鬼が紛れていたものです」
こちらの話に耳を傾けるつもりはないらしい。
京子さんに目を向ければ、彼女も僕と同じ気持ちの様子。互いに小さく頷き合うと、暗い山の中を全速力で駆け出した。
背後からクラーラさんの陽気な声が追ってくる中、僕は京子さんに確認した。
「クラーラさんの霊能力っていったい何なんですか! ああやって空を飛ぶ以外にもできることってあります!?」
荒い息を吐きながら、京子さんは「知らん!」と声を張り上げた。
「一通りの霊能力っぽい不思議現象が起こせるって噂があるのは知ってるけど、正直嘘だと思ってたから! 何ができるかなんてこっちが聞きたい話よ! あなたこそ何か知らないわけ!」
「クラーラさん本人から、透視とか千里眼とか空中浮遊はできるって聞きましたけどそれだけです! 本当にできるかは知りません! 空中浮遊はできてましたけど!」
ことこの状況において、わざわざトリックを用いて空中浮遊を演出する意味はない。とんでもなく胡散臭い人ではあるが、霊能力者だということは真実だったらしい。加えて、この暗く広い山の中で的確に僕ら二人の居場所を特定してきたことから、千里眼の力も事実だった可能性が高い。
つまり、ここでどれだけ走って距離を稼ごうとも、彼から逃げきるのは不可能ということだ。
早くも呼吸が苦しくなり、僕は走るペースを落とす。隣を見れば、京子さんも辛そうに胸を押さえていた。
後ろを振り返り、見える範囲にはクラーラさんの姿がないことを確認する。それから僕は彼女の手を引いて、近くの大木の影に身を隠した。
しばらくの間呼吸を整える息遣いだけが夜闇に響く。やがて、どちらともなく口を開いた。
「山も下りれず、警察も呼べず、能力不明の霊能力者に命を狙われる。これって、だいぶ詰んでませんか?」
「……ただ命を狙われてるだけじゃないはずよ。危害を加えるより先に話しかけてきたんだから、多少は対話の余地がある、はず」
「対話が無理そうだからこうして走って逃げたと思うんですけど……」
「うるさい」
結局、この状況を打開する方法は何もない。
諦めの溜息を零すと、京子さんがぼそりと「助けを呼ぶしかないわね」と呟いた。
「助けって、誰にどうやって?」
「決まってるじゃない。そんなの――」
「追いかけっこはもう終わりですか?」
「「っ!!!」」
またしても急に空から声が降りかかる。
慌てて空を見上げれば、息一つ切らさず微笑みを浮かべているクラーラさんが、僕らを見下ろしていた。
相手が超常的な存在であることをまだ十分に理解できていなかったことに気づき、僕は強く唇をかんだ。
空を飛べるということは、当然足音を立てずに接近できることを意味する。聴覚での索敵など無意味で、全方位に視線を飛ばし続ける必要があった。
呼吸こそ落ち着いたが、体力はまだ回復していない。ここでまた走って逃げ出しても、結果は同じでこちらの体力がより消耗するだけ。
今どうにか対峙する他なかった。
横目で京子さんを見ると、彼女は小さく口を動かし「時間を稼いで」と頼んでくる。
時間を稼いでどうにかなるとも思えないが、僕自身にこれといった策はない。
腹をくくり、彼女の言葉を信じることにした。
「……終わりですよ。もう僕らが逃げる必要はなくなりましたから」
思考を高速回転させ、意味深なセリフを投げかける。
後先考えず、ただ時間を稼ぐだけならどうにでもなる。それっぽいでたらめなストーリを―を組み立てるだけの情報は既に手にしているのだから。
クラーラさんは月明りで輝く禿頭をつるりと撫で上げ、「ようやく話す気になってくれましたか」と笑みをこぼす。
やはり話は通じていない。ただそれも、今の僕には好都合だったが。
「ええ、いくらでも話しますよ。クラーラさん、あなたこそが須藤さんを殺した犯人だったんですね」
クラーラさんはピクリと体を震わせるも、動揺を見せず言い返してきた。
「突然どうしました? そんな意味のない嘘をついて。私こそが最も守平君殺害の犯人から遠い存在だというのに」
「あなたは本気でそう思っているのでしょうね。でも、その思い込みが問題なんです。あなたは、真犯人に操られ、自覚のないままに須藤さんを殺害してしまった」
「……無意味な話をすることで私を惑わそうとしているのでしょうか? それともただの時間稼ぎですか?」
「そのどちらでもないことはクラーラさん自身が一番ご存じじゃないですか? ここまでの自分の行動を振り返った時、なぜそうしたのか身に覚えのない、はっきり思い出せないことがいくつもあるはずですよ」
「……」
予想外なことに、クラーラさんは笑みを消し、険しい顔で黙り込んだ。
こちらとしては既に没となった、人を操る霊能力者が黒幕という説を流用しただけなのだが、どうにも心当たりがあったようだ。
これは正気に戻ってもらうチャンスかもしれないと淡い期待が芽生える。しかし僕が次の言葉を口にするより早く、クラーラさんの目つきが鋭さを増し、
「彼があなたを警戒していた理由がようやく分かりました。これ以上の問答は危険ですね」
おもむろに両手を前に突き出した。




