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「よっ」
「巳影さん!どうしたんですか、こんな所で」
遅番の仕事を終え、駅に降りた午後10時過ぎ。
ロータリーの隅にある花壇のレンガに腰かけていたのは巳影さんだ。
手にはスケッチブックを抱えていた。
「それ、もしかして愛さんの……?」
訊ねると「あぁ、そうだよ」と、僕に差し出した。
「え……っとこれは」
戸惑いながらも、差し出されたスケッチブックを受け取る。
「愛が猫になる前に裕二に渡してくれってさ。何でお前にって思ったけど、なんだかんだ、あいつにとって自分の想い出を託すのには裕二が良いって思ったんだろうな」
巳影さんは「よかったな」と僕の肩をとんとんと二度叩てから背を向けた。
「まってください!もしかして巳影さん――」
彼はもう人間の姿になるのは難しいんじゃないか。
その後ろ姿が仄かに光が飛んでいるように見えた。
蛇になるときのような、白い光が滲み出ているように見えたのだ。
「どうして愛さんにあの店をする切っ掛けをあげたんですか?」
巳影さんは「ああ」と、僕には背を向けたまま懐かしむように夜空を仰ぐ。
「あいつ、時々俺の祠の傍で寝泊まりしてたんだよ。きったねぇ姿で、腹鳴らしてさ。寂しさか、苦しさからか、夜な夜な泣いててさ。俺は生きるものの運命は変えてやれない。だから、まぁ・・・情が移っただけだ。それ以外の何物でもねぇよ」
本当にそれだけなのだろうか。
彼の愛さんにだけ向ける優しいまなざし。
「愛さんのこと――」
「人間如きの感情の枠に当てはめようとすんじゃねぇよ。じゃあな」
巳影さんはこちらを振り返る事無く、右手をひらひらとさせながら暗闇へと消えていった。
「ただいま」
今日は愛さんにとっておきのおやつをあげよう。
猫用のクッキーだ。
愛さんが作ってくれたクッキーには到底及ばないだろうけれど、売っている中で一番美味しそうなやつを選んできた。
正直、僕ひとりの食事の方がもっとお粗末な物を食べている気もしたが、それでも良い。
愛さんが少しでも喜んでくれるなら。
人間と過ごした良い想い出もひとつ増えるのなら。
扉を開ける。
きっといつものように玄関前で待ち構えているだろう。
だが、そこに愛さんの姿は無かった。
静かな部屋に、水槽のエアーポンプの音が虚しく広がる。
金魚がひとり、寂し気に泳いでいた。
「愛さん!」
ベランダは閉めていたし、もちろん玄関もだ。だけどどこにも居ない。
クローゼットも、トイレも、風呂場にも居ないのだ。
「どこ、いったんだよ」
焦りで自然と息が荒くなる。
心臓の音が耳にまで響くくらい大きく拍動を感じる。
もしかして消えたのか?
巳影さんは、もう長くはもたないと言っていた。
その彼ですら、身体が消えかかっているように見えたのだ。
もし、そうなら……。
僕は、抱いたままのスケッチブックを開く。
ページをぱらぱらと捲り、ひとつひとつを見ているうちに鼻の奥がツンとし始め、みるみる涙が溜まり始める。
ぽたり。
涙がひとつぶ、僕を描いたページの端に落ちて、慌てて服の袖口で拭った。
ぽたり、ぽたり。
駄目だ、止まらない。
ぐずぐずと鼻をすすり、声にならないまま嗚咽を漏らす。
愛さんの為に置いていたクッションには、僅かに黒いしなやかな細い毛が付いている。
「愛さん、愛さん」
幸せだっただろうか。
僕はちゃんと、彼女に人間との暮らしのあたたかい想い出を作れただろうか。
いつも優しい笑顔を向けてくれた彼女が蘇る。
すすってもすすっても、鼻で息が吸えない程に詰まる。
涙でぐちゃぐちゃな目を乱暴に擦り、僕はスケッチブックを抱きしめたまま家を飛び出した。
波の音がしない。
代わりに潮の香りが流れて来る夜の丘は、とても静かで、そしてがらんと殺風景だった。
マンションは工事現場さながら、色んな機材が置かれ、シートが掛けられ、順調に作業が進んでいる様だった。
ミモザの樹は切られないまま、ぽつんと取り残されている。
この数日で一気に咲いた黄色い玉状のミモザを見上げる。
一年前の今頃。
この下で愛さんに会ったんだ。
あのマンションの三階の窓で、花に水をやる愛さんのふわふわとした黒髪が陽光を浴びて煌めいていた事。
それが、まさしく天使のようだとひとめに恋に落ちたこと。
抱いたスケッチブックをぎゅっと握る。
ふと、黒猫と月で過ごす最後の日の愛さんとの会話を思い出した。
『あと一ページだけ空いてるんですね』
『えぇ、ここは今夜にでもゆっくりと。とっておきの一枚を描くつもりです』
このスケッチブックを見せて貰った時のものだ。
その場にしゃがみこみ、一番最後のページを捲る。
ようやく泣き止んだはずの僕の目は、また涙でいっぱいになっていた。
あの店で過ごした僕たちの絵だった。
カウンターで巳影さんがミルクを飲み、
小鳥遊が大きな口でケーキを頬張る隣で、樋口さんがミステリー小説に没頭する。
窓辺の一番奥の席では龍さんが目を伏せながら、窓の向こうに広がる穏やかな海の音を聞く。
僕はそんなみんなの姿を楽しむように、珈琲カップに口をつける。
そしてその絵には、愛さん自身も描かれていた。
キッチンで絵を描いている自身の姿。
見たものを、想い出を、水彩色鉛筆に乗せて優しい色合いで描いた一枚の絵。
街頭がミモザを照らし、その下で泣く僕をも優しく照らす。
もうこの絵の中には戻れない。
にゃあ。
俯いた僕の視線の先に、黒猫の前足が見えて慌てて顔を上げた。
半透明の、今にも消えてしまいそうな黒猫が僕の前に座っていた。
「あ、愛さん?」
愛さんが、ひざまずいた僕の足に頭を擦る。
手を伸ばしても触れられない。
透けて触れない愛さんの小さな頭を、そっと撫でる。
「ありがとう、ございました……。また会えて良かった。あの時みたいな満開のミモザの下で……」
にゃあん
甘い声でひとつ鳴いた愛さんの身体が、白い綿毛になって空に消えていく。
「ありがとうございました。好きです。ずっと、ずっと大好きです。愛さんと過ごした時間は忘れません」
愛さんの魂である綿毛は満天の星空に昇って、ひとつ、またひとつと消えていく。
やがて最後のひとつが、名残惜しそうに僕の頭上で少し止まって。
ふわふわと海風に乗るようにして、空へと消えていった。
愛さんが空に還る一部始終を、最後のひとつが見えなくなっても、ずっとずっと見つめていた。
夜空に浮かぶ三日月の隣にいる黒猫。
あの喫茶店の看板に描かれた絵を思い出しながら。
満開のミモザの樹の下で。




