歪影
前方、約50メートル。
姿は見えない。
ただ、何かがそこにいた。
気配なのか、目に入っていて気が付かない違和感なのか、上手くは言い表せない。
だが心配することはない。こういう危険から仲間を守るために俺のスキルがあるのだから。
——鑑定。
先程から少し休んだせいか、痛みはない。ポーションでは失った魔素は回復しないが、少しくらいならまた問題なく使えそうだ。
違和感の方に目を凝らす。
何もないはずの空間に、うっすらとした影が浮かび上がる。まるで夜の闇に溶け込むような、黒い影。輪郭が見えるにつれて影はどんどん濃さを増していき、やがて夜の闇そのものが姿を現した。
現れたのは、フードを被った黒い男の幽鬼。
ホームの白線に立って、列車の来ない線路をじっと眺めている。
明らかにさっき倒したレイスとは纏ってる雰囲気が違う。下半身も輪郭がハッキリしていて、足もある。物語やネットで見る幽鬼のイメージとはかけ離れていた。
ただ、俺が一番驚いたのはそこではなかった。
(あれは…黒いスーツ?喪服をきたレイスか?いや…)
—Nighttrain Wraith—
鑑定で一瞬だけ、文字が浮かび上がり、ブツッという音がして直ぐに消える。
——ドクン
正体が分かるや否や、浮かび上がったモンスターの名前に心臓が跳ねた。
スーツじゃない。
あれは駅長だ。
一瞬で理解した。駅長の制服。この幽霊駅の主人。つまり、こいつはこの第三層の守護者だ。
ダンジョンによっては中間層にこういう、所謂中ボスのような存在がいることがある。大抵は階層の最奥にいるはずだが、稀に徘徊するタイプも居ると聞いたことがある。
「…最悪だ」
思わず呟く。ひなのと出会って、漸く希望の芽が出てきたと思った途端にこんな化け物に会うとは。
しかも、鑑定が妨害された。
鑑定スキルの情報は自分と相手の力の差で見える情報量が変わる。
つまり、名前が一瞬しか見えないことは自分と相手に隔絶した差がある事を意味する。
ヤバい。
全身の毛穴から冷気を送りこまれるように、急激に体が冷たくなっていく感じがした。
向こうはこちらに気付いているのか、いないのか。
気付いていたら、向こうはこちらを相手をするのか、しないのか。
鑑定を初めて数秒にも満たない時間で、俺は頭をフル回転させて考えた。
(…今の所、襲ってくる気配はない。どうする?戦っても勝ち目は薄そうだ。一旦ひなのを連れて逃げるか?それともこのまま隠れてやり過ごす?或いは——-)
「…神谷?」
焦る俺の思考を切ったのは、ひなのだった。
「あんた、今何が見えてるの?」
ひなのにはまだ見えていない。俺はひなのの腕を引いて注意深くその場を後退ると、駅のベンチの影に潜んでから声をひそめてひなのに言った。
「向こうにヤバいのがいる」
俺は『見た』方を指差す。
「姿は消してるが、50メートル先のホームの上に、駅長の姿をした幽鬼がいる。まだこっちにに気付いてないみたいだが、明らかに格上だ。今まで会ったどのモンスターよりもヤバい」
極めて危険な奴だ、と強調してひなのに伝えたつもりだった。守護者の可能性が高い事、戦うのは下策だと、そう伝えた。だが。
「駅長?」
ひなのの様子が先程とは明らかに違っていた。
「アイツだ」
ひなのが言った。
「アイツが恵を」
ひなのの目がみるみる怒りに変わっていく。
「———恵を殺した」
わなわなと声が震える。
俺は耳を疑った。恵はさっきのレイスに殺されたはずじゃないのか?俺も殺されかけた。結果的とはいえ、ひなのは仇を討ったはずだ。
俺の不安な表情を見て少しだけ冷静になったのか、ひなのは軽く深呼吸する。そして、先に答えた。
「あんた、殺されるところを見たわけじゃないんでしょ」
遮らないように小さく頷く。
「いくら丸腰でも、恵がただのレイスごときに負けるなんてあり得ない」
「恵と三層から一層に逃げる途中、アイツが急に現れた。…二人で休んで油断してた所に、間を割って入るみたいに、いきなりヌッと出てきたのよ。応戦したけど魔法は全然当たらないし、騒ぎで他のモンスターも集まってきたから、後で二人で合流しよう、って一旦別々に逃げたの」
ひなのの目は怒りと、涙が浮かんでいた。目の前の敵に対する怒りと、自分に対する怒りだった。その目からは後悔が痛いほど伝わった。
だが。
「一旦、冷静になろう」
状況はあまり良くない。不可視の相手を見るために、今も鑑定は常時発動していなければならなかった。既に目の奥の痛みが少し戻ってきている。
「どきなさい。止めたらあんたから殺すわ。」
ひなのは本気だった。瞳の奥に危険な炎が揺れていた。
だが、こちらも引くわけにはいかない。
「頼むから、落ち着いて聞いてくれ」
俺も必死だった。
「俺はここに来るまでに鑑定を使いすぎて、もう長くは持たない」
「いくらひなのでも見えない相手には攻撃は当てられないだろ」
「ここで戦闘になれば、恵だけじゃなくて俺とひなのも死ぬ。恵のためにも、ここは堪えてやり過ごすべきなんじゃないのか」
「頼むから、ここは退いてくれ」
これで止まる…
…わけがない。
正直なところ。
止められないのは分かっていた。もし殺されたのが恵ではなく、凛や坂城なら俺も差し違えても殺しにいく。理屈ではない。
「神谷」
ひなのが言った。そして、両の手で俺の手を取って、胸の前でしっかりと握りしめた。
「お願い」
突然のひなのの行動に俺は目を見開く。
「敵の位置を教えて。絶対に私が一撃で仕留める」
その時だった。
鑑定の目の端で捉えていた黒いフードの影が、微かに揺れ動いた。




