紫陽花の君は?3
くしゅん、と小さなくしゃみが出た。
雨に濡れた空気が肌にまとわりついて、さすがに体の芯まで冷えてきたのが分かる。
「おい、大丈夫か。そろそろ帰るか」
友人が傘を軽く揺らしながら言ってくる。
「おぅ、さすがに山の上は冷えるな」
そう返しながら、カメラをバッグにしまい、紫陽花の斜面にもう一度だけ目を向ける。
雨粒をまとった花が、光を吸い込んだみたいにしっとりと色を深めていた。
その景色を胸に刻んでから車へ向かおうと振り返った瞬間、ふわりと甘いような、どこか懐かしいような香りが鼻先をかすめた。
「ん?」
思わず足が止まりかける。
紫陽花の匂いとは違う。
雨の匂いとも違う。
ほんの一瞬だけ、柔らかい香りが鼻腔をくすぐった。
「はよ来いよー、帰るぞー」
友人の声が飛んできて、意識はそちらへ引き戻される。
「はいはい」
そう言って助手席に乗り込むと、車内の暖かさにほっと息が漏れた。
そのまま「腹減ったな」という話になり、帰り道にあるいつもの定食屋へ向かうことにした。
店に入ると、馴染みのおばちゃんが笑いながら声をかけてくる。
「また二人かいな。たまには女の子連れておいでや」
「俺らの魅力に気付いてくれる子がおらんのですよ」
と友人が言うと、おばちゃんは「あんたらなぁ」と呆れたように笑った。
席に着き、いつもの定食を頼むと、「あいよ!」と明るい声が厨房に消えていく。
カメラからスマホへデータを移しながら、湯気の立つ味噌汁をすすってひと息つく。
「ふぅ……あったまるな」
「ほんまにな」
そんな他愛ない会話を交わしながら食事を終える頃、
スマホへのデータ移行もちょうど完了していた。
「お、全部入ったわ」
そう言って最後に撮った写真を何枚か確認する。
紫陽花の青。
雨粒の光。
山の斜面に広がる淡い色のグラデーション。
その中に、ふと、見覚えのない人影が写っていた。
紫陽花の花のような淡い青から白へと溶けていくようなワンピース。
切れ長の目をした女性が、こちらをまっすぐ冷たく見ている。
「ん?」
思わず声が漏れた。
「なに見てんねん」
向かいの友人が箸を置きながら聞いてくる。
「いや……今日、俺ら以外おらんかったよな?」
スマホを見せるでもなく、ただ確認するように言う。
「おぅ。あの雨やぞ?誰が来るねん」
友人は当然のように答えた。
その瞬間、帰り際に感じたあの“甘いほのかな香り”がふっと鼻の奥に蘇った。
紫陽花でも、雨でもない。
あの一瞬だけ漂った、柔らかい香り。
写真を閉じても、冷たく刺すような視線が頭を離れなかった…




