峠の影は続き、そして拡がる
峠の後日譚です
昔、一緒に走っていた友人から聞いた話の続きだ。
あの事故から一年。シルビアの男は潰れた薬指と小指を抱えたまま、走り屋を完全にやめていた。助手席にいた女は奇跡的に命を取り留めたが、事故以来、夜になると「誰かに見られている」と怯えるようになった。
ある晩、二人は外出先からの帰り道に、あの道の駅に立ち寄った。街灯はほとんど消え、売店のシャッターは錆びついたまま閉じられている。自販機の光だけがぼんやりと浮かび上がり、虫の羽音が耳にまとわりつく。
女はふと、売店のガラスに目をやった。そこには自分の姿が映っているはずだった。だが、映っていたのは二重の影。背後にもう一人、白い衣をまとった女が重なっていた。
その女は、ただ「白無垢」と呼ぶにはあまりにも異様だった。
衣は光を吸い込むように沈み、闇の中で逆に浮かび上がっていた。裾からは黒い液体が滴り落ち、路面に染みを広げていた。顔はなく、頭巾の奥は空洞のように黒く、覗き込むほどに深い闇が広がっていた。だが、そこからは確かに視線を感じる。目がないのに、見られている。
その時、女の口が動いた。声は低く、湿った土の中から響くようだった。
「……返せ」
「奪ったものを返せ」
「愛した者を渡せ」
「逃げても、因縁からは逃れられない」
助手席の女は震え、「誰かいる!」と叫んだ。男が振り返ると、そこには誰もいない。だがガラスには確かに、顔のない女が立っていた。男の潰れた指がじわりと痛み、冷たい風が吹き抜けた。
その夜から、助手席の女は夢にうなされるようになった。夢の中で彼女は真っ暗な峠を歩いている。背後から衣擦れの音が近づき、振り返ると白い影が立っている。裾から滴る黒い影が足元に広がり、彼女の足を掴んで離さない。
「……返せ」
「奪ったものを返せ」
「次はおまえだ」
彼女は冷や汗をかきながら目覚めた時、足首には痣が残っていることに驚愕した…。
やがて噂が広がった。峠を走った者の中に「助手席に誰もいないのに、女の声が聞こえた」と語る者が現れ始めた。
その声は「助けて」と囁くが、振り返っても誰もいない。
そしてある夜、MR2の走り屋が峠を降りていた時、助手席に白い影が座っているのを見たという。彼は一人で走っていたはずだった。ライトに照らされたその影は、顔のない女。裾から滴る黒い影がシートを濡らしていた。
その女は彼に向かって囁いた。
「……あの男に伝えろ」
「影はここにいると、伝えろ」
「因縁はまだ続くと、伝えろ」
「次は必ず奪うと、伝えろ」
彼は恐怖に駆られ、峠を走ることを二度とやめた。だがその夜から、彼の周囲の走り屋仲間が次々と「女の声を聞いた」と語り始めた。まるで彼が知らず知らずのうちに、呪いを広めてしまったかのように。
人々は囁くようになった。
峠の影は、因縁ある者だけでなく、関わった者すべてを呑み込む。




