10 厳ついヒーロ枯淡に参上
こんな恐怖を毎回味わって、どうして正気を保てるのだろうか。
これを何度も繰り返しているのだから、とっくに狂っていてもおかしくない。
今まで“慣れた”から、という理由を押し付けて納得していた疑問が浮上する。
何か……大切な、何かを忘れている気がする。
忘れてはいけなかったことを……。
自分の弱さを――現実を受け入れたことで沸いた疑問。
思い出さないといけないのに、そう思えば思うほどぽっかりと穴があいたような空虚さを覚える。
――キキ―ッ!
――ブー!!
と、考えふけっていた意識を引き戻すような、耳を劈く大きな音が二種類した。
始めの音は、ゴムと何かが擦れ合うようなよく分からない音だった。
その直後に鳴った音は、くらくしょんというこれまた商人に教えてもらった音だ。
彼の操るくるまという、馬も人も使わないで動く魔法のような乗り物についているボタンを押すと、こんな音がする。実際に押して鳴らしたことがあるので、よく覚えている。
きっとこの音は幻聴だろう。
だって、くるまがここにあるはずない。
今の我が国の技術では、くるまなんて作れないのだから。
死を目前にして、脳が懐かしい音でも聞きたくなったのだろうか。
ならもうちょっと、葉のそよぐ音とか、小川の流れる音とか、雰囲気の出るものにしてほしかった。死ぬ前に聞いた音がくらくしょんだなんて、まるで交通事故のようだ。
死を目前。にしては、その死はいつまでたっても訪れない。
衝撃も来ないし、風は冷たいし、知らないうちに殺されたわけではなさそうだ。
それに、未だ男たちの声が聞こえる。
もしかしたらこの声も幻聴なのかもしれない。
だって、彼らが動揺しているように聞こえるのだから。
抵抗する気のない私を前にして、何を驚く必要があるのだ。むしろそれで驚いているとか?
しばらく悩んでも、分からなかった。
自分の耳が信じられなくなった私は、未だ死んでいない理由を確かめるべく目を開いた。
そして、絶句した。
商人の言葉を借りるならこうだろう。
ふらぐ回収きたこれ。
さっきまでの私は、焦りと恐怖で周りが見えなくなっていたようだ。
男たちの後ろ姿の合間から見える、ぼんねっとと呼ばれる部分を前にした車。
ふろんとがらすから見えるのは、さっきまで考えていたあの人。
「おーい、さっさとそこ退かねぇとひき殺すぞー」
その声を聞いて、その表情を見て、自分の顔が綻ぶのが分かる。
凍っていた心が解けていくような安心感を覚えた。
体格に似合わないちょっと間延びした言い方からして、あのだらしない商人で間違いない!
というのも、あの人、お仲間さんがいない時間はいつも仕事さぼってたらしい。商業グループのリーダーでありながら。
お買い物をするたびに、帰るまでずっと愚痴を聞かされていたので印象に残っている。
今の私には、不本意だが彼がヒーローにしか見えなかった。
「な、なんだこいつ……」
「この女の知り合いか?」
「奴の乗ってるこの黒い物体はなんだ?接近に気づかなかったぞ」
男たちの慌てる声がする。
いい気味だとこっそり嗤いながら、ほっと息をつく。
「幻聴じゃなかったのね……このくらくしょんの音。も、もしかすればこれも幻覚?幻聴?私の頭、いよいよ可笑しくなっちゃったのかしら」
そんな僅かな可能性を考え、慌てて手を頭に当てたり、意味もなくあたりを見回す。
「そんなことはないから安心してほしいの!」
「うぇっ!?」
突然かかった背後からの声に驚いて肩を揺らす。
声の主は、綺麗なブロンドの先をピンクに染めた、小柄な少女。
彼女の身長は私の座高よりちょっと上ぐらいで、顔立ちも幼いことから、年齢は十歳前後と推測する。
確かこの子は、買い物の際彼の文句を述べていた…フィリアルだったかしら。
「あ……驚かせてごめんなの……」
うなだれて上に挙げていた手を下ろし、上目遣いに謝ってくる姿に私の心臓は撃ち抜かれた。
何この子、可愛い。私には彼女の背中に天使の翼が見える……。
「い、いいえ。むしろ感謝してるわ、助けてくれてありがとう」
微笑を作りながらそう言うと、フィリアル目を微かに見開いた。
いつも笑顔なのである意味ポーカーフェイスな彼女が、こういった感情を表にすることは珍しい。
「助けたのはあの男なの。何で私に感謝するの?」
「……」
そこで、私が犯した過ちに気づく。
私のさっきの発言で、彼女が私の救出に関わっていることを理解していると悟られてしまった。
普通、こんな少女があのくるまに乗っている厳つい男と知り合いだなんて、余程勘のいい人でなければ思わないだろう。
ここは、危ないから早く逃げろとでも言うべきだったろうに……しまった。
冷や汗が背筋を流れる。
死に戻りのことを話そうか?いや、きっと信じてくれないだろう。
信じてくれたとしても、化け物扱いされて終わりだ。
「もしかして、私とあの男が仲間だって気づいたの?」
しかし助け船が本人から出される。
これ幸いと便乗してそれらしい噓をつく。
「……そうね。タイミング良くここにいたこととか、瞳の色があの男の人と一緒だったこととかから、貴方と彼が血縁関係に当たると思ったのよ。そうでなくとも、彼と何かしらの関わりを持っている。違わない?」
「あいつと私は家族じゃないの。でも、関わりはあるの。あいつは私たちのリーダーなの。だから、お姉さんの推測はあってるの。凄いの!」
キラキラとした称賛の眼を見て、罪悪感が芽生える。
後で何か奢ってあげよう。
あと、ずっと前から思ってたけど、フィリアルの喋り方がどこか可笑しいように感じるのは気のせいじゃないわよね?