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青の335(サンサンゴ)  作者: 七里はるか
秘密の洞窟と少年のギター
2/3

ブルー・イン・グリーン

挿絵(By みてみん)


【おもな登場人物】


稲村いなむら なぎさ:高校一年生。親の離婚がきっかけで部活を辞めて内向的な性格へと変わってしまった。


秋谷あきや ひびき:凪の幼馴染。小学から中学まで凪と同じ声楽部に所属していた。


稲村いなむら まい:凪の母。凪が中学三年生の春に夫と離婚した。


長瀬ながせ 明花里あかり:1年C組の担任。声楽部の顧問で、凪と響が中学時代のコンクールでは審査員をしていた。

 凪と響が校門をくぐると、制服を着た生徒達がアリの群れのようにうごめいていた。その先には、クラス発表の貼られた掲示板が立っていた。

凪は生徒達の群れの後ろから掲示板を見ようと飛び跳ねる。しかし、この距離では書かれた名前はまるで視力検査の記号のようだった。彼女はすぐに諦めて、ため息をついた。


「私が先に行くからついてきて」

 響はそう言って、勇敢に人だかりの中を平泳ぎのように掻き分けて進んでいった。その背中に張り付くように凪も後ろをついていく。ぷはぁっと人混みの海からぼさぼさになった頭を出す。2人の名前がC組の行の先頭に並んでいた。

ツェーだって!一緒だね!」

ツェーとはドイツ音名でドの音を意味する。周囲の生徒達には何の事か分からなかったようだ。不思議そうな表情が一斉にこちらに向いた。すぐに凪はそれに気づき、恥ずかしくなったのか

「もう行こ」

と、今度は響の手を引っ張ってそそくさと下駄箱の方へと逃げていった。


「声、大きい」

 凪が不機嫌そうな声で言って響の手を軽くつねる。

「ごめんね」

 響は特に申し訳なく思っている様子もなく笑いながら謝った。


 下駄箱を探して上履きに履き替える。廊下に貼られた案内によると、1年生の教室は3階らしい。2人はとんとんと小さな足あとでリズムを刻みながら階段を登っていく。3階に差し掛かると新入生たちの賑やかな話し声が広がってきた。


 C組の教室に入ると、席順が書かれた紙が黒板に貼られていた。秋谷あきや ひびき稲村いなむら なぎで先頭から1番目と2番目の席だった。凪は一番前にならなかった事に安心した。

「やったね」

 一番前の席にもかかわらず、凪と並んだ事が嬉しかったようだ。響は自席に座って振り返ると、満足そうな笑顔で手を振った。無邪気であどけない響の表情に後ろめたくなって、凪は胸が締め付けられるような思いで目を伏せた。


 ちょうどその時、教室の扉が勢いよく開いた。スーツを身にまとった20代半ばくらいの女性がカッカッと高らかな靴音と共に入ってくる。その女性は胸を張って、自信に満ちた表情で口を開いた。


「今日からこのクラスの担任になりした。長瀬ながせ) 明花里あかり)です。よろしくね。」


 童顔の、茶色の明るい髪色をした彼女は、かわいい笑顔で1人ずつの顔を確認をするように教室を見渡す。先生と目があった男子生徒達は照れ笑いをしていた。凪は鼻の下を伸ばす男子達に、うんざりした表情でため息をついた。


「これだから男ってイヤ」

凪がため息のように言うと、響は困ったように眉尻を下げてまぁまぁというようなジェスチャーをした。むくれ面で頬杖をついていると、不意打ちのように先生と目が合う。すると、不思議な感覚が湧きあがった。


(私は多分、この先生を知っている。)

凪は、頭の中の虫食いだらけに抜け落ちた記憶をなんとか埋め戻そうとするが、何も思いだせなかった。唐突に目線の先で先生がくすっと笑う。恥ずかしくなって凪はとっさに顔を伏せた。


「それでは、一番前の席から自己紹介をしていってください」


 そうだった、始業式には自己紹介がつきものだ。凪の顔に、しまったという表情が浮かぶ。

響はスクッと立ちあがり、声に出さず『大丈夫』と唇を動かした。そして、教室の中央へ体を向けた。


秋谷(あきや) (ひびき)です、中学では声楽部に入っていました。高校でも声楽をやろうと思っています。これからよろしくお願いします。」

 彼女のはっきりとした声が教室に響く。


 教室の皆が響の凛々しい姿と声に静まり返る。男子達が興奮して「よろしく!」という声と共に拍手を送る。はしゃぐ男子達を先生がなだめるように静まらせてから、渚に視線を送る。


「あなたは確か、声楽コンクールの優勝経験者よね」

「はい。学校で先生の声楽部に教わりたいと思っていました」

「それは頼もしいわね」

「よろしくお願いします」


 凪の記憶の虫食い穴が一気に埋まっていく。ああ、そうだ。この先生は、中学の時の声楽コンテストの審査員だったんだ。

 響が礼をしてから、静かに着席する。凪は記憶を思い出すことに夢中で、それに気づいていなかった。


「じゃあ次は稲村さん、あなたね。」


 名前を呼ばれた凪はビクッと肩を震わせた。響は少し席をずらして、凪の方を向きながら、胸の前で両手を軽く握って応援する。憂鬱な気分がのしかかった重い腰を上げ、凪がのそりと立ち上がった。


稲村いなむら なぎさ…です。」


 緊張のあまり声がうわずっていた。凪は恥ずかしさで先生の返事も待たずに座ってしまった。少しして、男子達のひそひそ声が聞こえてくる。嫌だ、もうここから居なくなりたい。そう思って、凪は自分の頭を抱えた。


 机に伏せてしまった凪に、先生は変わらぬ笑顔で凪に質問をした。


「中学の時、部活は何をしていたのかしら?」

 突然の質問に凪の呼吸が止まる。驚きのあまり、心臓の鼓動が激しくテンポを上げていく。


「…何もしていませんでした。」


 とっさに凪は嘘をついてしまった。


「おかしいわね…?何もしていなかったの?」


 先生は不思議そうに頬に手をあてて首をかしげた。おそらく知っていたのだろう。凪と響が中学の声楽コンテストで優勝したという事を。


「次はあなたね」


 うつむいている凪を見て、これ以上話は埒があかないと思ったのか次の生徒を指さした。凪はようやく自分の番が過ぎたと安心して頭をあげようと思ったが、響の悲しそうな表情が浮かんで、そのままうずくまっていた。


皆の自己紹介が終わり、先生から新学期の予定連絡が始まった。相変わらず机に伏せて同じ姿勢をしていた凪は、そろそろ腰が背中が痛くなってきた。


「じゃあ教科書販売が終わったら、各自下校をしてください」

 そして、先生の視線が響の方へ向かう。


「悪いけど秋谷さん、日直がまだ決まってないから号令をしてくれる?」

「はい」


 響は一呼吸を置いて


「起立」


 と張りのある声をあげると。ざっと音を立てて、教室の皆が一斉に起立する。凪はその音に驚いて、一拍遅れてからのそっと立ち上がった。


「礼」

「さようなら」


 下校のあいさつが、教室の中を波のように広がっていく。先生が出ていくと、教室は一気にざわめいた。カバンを持った数人のグループが、次々と教科書販売の会場の体育館へ歩いて行く。響が振り向いて凪を誘おうとした瞬間、クラスメイトが響を囲みだす。


「秋谷さん、一緒に行かない?」

「それが終わったら部活見学に行かない?」

「じゃあ帰りに遊びに行こうよ」

「どこに行く?カラオケ?」

「いいねー!」


 響の周囲で男女が盛り上がっている。完全に凪の苦手なノリだった。彼女は困って助けを乞うような表情を後ろの席の長馴染に向けた。すると、クラスメイト達も同じように響の視線を追った。凪はそれを避けるように、おずおずと机の脇へ移動した。


「私、そのまま帰るから…」


 小さく答えると、背中に感じる視線から逃げるように教室の外へ出て行った。教科書販売所の貼り紙をたどりながら、階段を降り渡り廊下をとぼとぼと歩いていく。その先にある体育館の中へ入ると、ひんやりとした空気が張りつめていた。

 1年生の販売列へ並んでしばらくすると、受け付けのテーブルへやってきた。かばんの中から封筒に入った教科書代を取り出す。そして、それ目の前に立っている販売員のおばさんに手渡した。お金を確認すると、おばさんは後ろの段ボールから大きな紙袋を取りだしてよいしょとテーブルに乗せた。

 みしっ、とテーブルが悲鳴をあげる。凪がその紙袋を持つと、予想以上の重さに身体がよろけそうになった。ふらふらと出口の方へ歩いていこうとすると、おばさんに呼び止められた。


「もう一袋あるのよ」


 凪はその言葉に耳を疑った。おばさんは、もう1つの袋を取りだしてテーブルへ乗せる。みしり、という音が再び鳴った。おそるおそる、2つめの紙袋を持った瞬間、教科書がパンパンに詰まった袋は重力に身を委ねて勢いよく体育館の床に突き当たった。後ろからくすっと笑う声が聞こえる。凪は振り返らずに、肩が抜けそうになりながら体育館の外へと歩いていった。


 校門をくぐり並木道へ向かうと、関係者駐車場には保護者の車がびっしりと停まっていた。生徒たちは親の車に荷物を積んで帰るのだろう。母は今ごろ、1人で昼前の喫茶店をきりもりしていることだろう。他人と自分は違うのだ。凪は休み休み、一粒、もう一粒と額から湧きだす汗をぬぐいながら歩いて帰る。


 響と登校した時には緑に輝いていた通学路も、今は疲れと憂鬱で青みがかって見える。

家の前に差し掛かる頃には、凪のシャツは汗でびっしょりになっていた。玄関の鍵を開けて、両手の重りを床に置いた。一息ついてから再び立ち上がり、表に出て玄関の鍵をしめてからお店の裏口へ入っていった。


 カラン、という音に気づいて母が凪の方を見る。

「あら、おかえりなさい」

「ただいま」

 凪はそっけなく挨拶を返す。ポケットからシュシュを取り出し、栗色のショートボブをまとめる。そして、壁につるしてある、黒いカフェエプロンを手に取って腰に巻いた。カウンターにまわり、キッチンシンクに積み重なったカップをひとつひとつと洗いはじめる。


「入学式なんだから、遊んでくればよかったのに」

 母はレコード棚をごそごそと探しながらそう言う。


「別に」

 凪は眉間に皺を寄せて、目の前のコップから視線を逸らすことなく返事をした。


 娘の態度に母はふぅとため息をつきながら、ジャケットからレコードを取りだした。プレーヤーの上にそっと置いて静かに針を落とすと、それはスケートのように溝の上を滑り出した。

 チリ…チリ…という小さい音が聞こえた後に、静かで悲しげなピアノの音が響く。そこに、地を這うような強いウッドベースが絡みだすと、曲は途端に切なくドラマチックな展開になった。するとミュートされたミステリアスなサックスの音が、静かに二つの音の前に現れた。哀愁と緊張感のある音楽が店内に響いた。


 凪は春なのだから、もっと明るい曲にすればいいのにとも思ったが、今日の自分の気分には、この曲は悪くない。ジャズが嫌いな凪も、この曲だけは受け入れられた。


 静かなバラードと共に、凪の入学初日の午後は過ぎていった。

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