第1話:(前編)事故物件は「二重契約」中
六月の蒸し暑い午後。東京都心の片隅にある、年季の入った雑居ビルの一階。
そこには『九条住設・特殊案件対策課』――通称『九条工務店』の事務所がある。
「……結、これ見て。今朝入った新規の依頼。世田谷の築二十八年アパート。一週間前に特殊清掃が終わったばっかりの、いわゆる『ホヤホヤ』や」
現場監督の真壁凛が、プリントアウトされた間取り図をデスクに放り投げた。彼女はガテン系の作業服を粋に着こなし、首にはタオル、腰には工具袋という、およそ新宿のオフィスには似つかわしくない格好だ。
「特殊清掃済み……ということは、物理的な汚れは取れているはずですね」
デスクでCADソフトを操作していた代表の九条結が、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。彼女の視線はディスプレイから離れない。
「ええ。でも、不動産屋が言うには『内見に来た客が全員、玄関を開けた瞬間に悲鳴を上げて逃げ出す』らしいわ。凛、あんたの鼻はどうや?」
凛は鼻をヒクつかせると、嫌そうに顔をしかめた。
「ここからでも、微かに漂ってくるわ。腐ったドブ川と、古い線香を混ぜたような、あの独特の『停滞した匂い』がな」
「あらあら、それは大変。きっと新しい壁紙の色に迷って、居着いてしまっているのかしら?」
おっとりとした声で会話に加わったのは、インテリア担当の佐藤陽葵だ。彼女は優雅にハーブティーを啜りながら、霊障などどこ吹く風といった様子でカタログを眺めている。
「陽葵、それは楽観的すぎます。……凛、陽葵。準備を。現場へ向かいます。今日のノルマは『立ち退き交渉』と『現場検証』です」
結が立ち上がり、一級建築士の免許証と、特製のメジャーをカバンに収めた。
九条工務店の仕事は、単なるリフォームではない。
物理的な修繕と、霊的な解決。その両輪が揃って初めて、事故物件は「人が住める家」に戻るのだ。
***
現場は世田谷区にある、外観だけは小綺麗なアパートの二階、二〇三号室。
玄関の前に立った瞬間、凛が鋭く鼻を鳴らした。
「うわ……キツいわ。これは『煮詰まって』る。陽葵、一発頼むわ」
「はいはい、お任せください。……清めたまえ、祓いたまえ。この地の乱れを鎮めたまえ……」
陽葵が低く、しかし透き通るような声で祝詞を唱えると、玄関ドアの周りに漂っていた澱んだ空気が、ふわりと霧散した。
結がポケットから鍵を取り出し、シリンダーに差し込む。
「入ります」
ギィ、と嫌な音を立ててドアが開いた。
室内は一見すると綺麗だ。特殊清掃業者の手によって、孤独死の痕跡であるシミや悪臭は消え去っている。だが、部屋の奥――和室の隅に、それは居た。
半透明の、パジャマ姿の老人。
彼は畳の上に座り込み、虚ろな目で壁一点を見つめている。
「……見えますね。典型的な『残留居座り型』です」
結が淡々と告げると、凛がバールを肩に担いで部屋に足を踏み入れた。
「おじいさん、聞こえるか? ここはもう、あんたの家やないんや。賃貸契約は解除されとるんやで。不法占拠はアカンわ」
しかし、老人の霊は反応しない。ただ、ブツブツと何かを呟いている。
「陽葵、『声』を拾えますか?」
「ええ、少々お待ちを。……『まだだ』、『まだ払っている』、『契約は続いている』……。どうやら、お金に関する強い未練があるみたいですね」
結は老人の視線の先、和室の壁をじっと見つめた。
そこは、押入れのすぐ横。建築図面上では、ただの耐力壁のはずだ。
「凛、その壁の向こうに何かありますか?」
「待てよ。……(くんくん)……。あー、なるほどな。壁紙の奥、石膏ボードの裏側から『紙の匂い』と『金属の匂い』がするわ。それも、相当古い奴や」
結は老人の霊の前に歩み寄り、一級建築士のバッジを提示した。
「おじいさん。私は九条工務店の九条です。あなたの言い分は分かりました。あなたはまだ、この部屋の『オーナー』であるつもりなのですね?」
老人の霊が、ゆっくりと首を動かし、結を見た。その目は白濁し、憎悪よりも困惑に満ちている。
「……カネ……払った……。あそこに、ある……。わしの……一生分……」
「なるほど。隠し財産、というわけですか」
結は無表情のまま、メジャーをシュルシュルと伸ばした。
「ですが、残念ながらその『壁』は、次回の入居者のためにクローゼットへ改造する予定です。構造上、あなたの隠し場所は解体対象となります。……凛、やりなさい」
「了解! 景気良くいくで!」
凛がバールを振りかぶった。
老人の霊が「ヒィッ!」と短い悲鳴を上げる。
ドゴォォォン! という破壊音と共に、和室の壁の一部が派手に崩落した。
崩れた石膏ボードの裏側から転がり落ちてきたのは、ボロボロになった古い角型金庫と、茶封筒の束だった。
「……これですね」
結が手袋をはめ、封筒の中身を確認する。中にはぎっしりと、旧札の一万円札と、一枚の「自筆遺言書」が入っていた。
「陽葵、内容を」
「はい。……えーと、『この金は、長年疎遠になっていた娘の結婚資金に。自分が死んだら、壁を壊して見つけてほしい』……あら。おじいさん、あなた、見つけてほしくてここに居たのね?」
陽葵が優しく微笑むと、老人の霊の輪郭が、少しだけはっきりとした。
「……娘……。来たか……?」
「いいえ。来たのはリフォーム業者です」
結が冷徹に、しかしどこか筋の通った口調で告げた。
「おじいさん。あなたの『契約』は、この金庫が見つかった時点で満了です。これ以上の居座りは、娘さんへの贈与を遅らせるだけですよ」
老人は、足元に転がった金庫をじっと見つめ、それから結たち三人の顔を順番に見た。
彼の表情から、焦燥が消えていく。
「……そうか。……壊して、くれたか」
「ええ。跡形もなく。ついでにこの和室、最新の洋室クローゼットに作り変えますから。あなたの居場所はもう、物理的に消滅します」
結の言葉は容赦ないが、それは霊をこの世から切り離すための「儀式」でもあった。
老人の姿が、砂のように足元から崩れ、光の粒子となって消えていく。
「……頼む……。娘に……」
最後の言葉を残し、部屋の空気から「停滞」が消えた。
凛が窓を全開にすると、世田谷の爽やかな風が室内に流れ込む。
「ふぅ。一件落着やな。……さて、結。霊はいなくなったけど、このボコボコに壊した壁、どうするん? 予算、これだけで足りる?」
「問題ありません。最初からクローゼット化のプランで発注を受けていますから。……ですが、凛。少し気になることがあります」
結は、壁の奥、金庫が置かれていたさらに「下」の隙間を指差した。
「そこ。金庫の匂いとは違う、もっと不快な『何か』が混じっていませんか?」
凛が再び鼻を近づけ、その瞬間に顔を真っ青にした。
「……嘘やろ。これ、おじいさんの未練やない。もっと古い、根深い……『呪い』の匂いや」
床板の下から、パキパキと嫌な音が響き始めた。




