終章 そして無慈悲な夜は終わる
そのぬくもりを夢の中から何度持ち帰ろうとしたことか──
気がつくと、カルは白いもやの中にいた。
あらゆる方向がやわらかい光に満ちている。
不思議と心が癒される。先ほど闇の中で感じた安らぎよりもずっと優しい気持ちになる。
気がついたら戦いの中に身を置いていたのだ。
からからに乾いた心には、血のしたたりだけが生きている証しだった。
だが、今を守り、未来を救うためには、それだけでは駄目なのだ。
命を捨ててなお生きなければならない。
風がそよいでいる。その中に懐かしいものを感じた。
故郷の香りだ。家の出窓を飾りつけていた小さな花の匂いである。
花の名前などすぐに忘れてしまうカルに、妹が何度でも教え込んできたものだ。
白とピンクのプリムラである。
背後にそっと人の立つ気配がした。
それが誰なのか、カルにはわかっていた。
いつでもそこにいたのに、もうどこにもいない。
生意気なしゃべり方も、小気味のよい歩みも、まだはっきりと思い出せるのに今はどこにもない。
振り返りたい気持ちを抑え込む。
振り返ってしまえば、再び立ち上がることを自分の精神が拒否してしまうかもしれない。
だから、カルはそのまま話すことにした。
あの時から、ずっと言いたかったことがある。
あの時から、ずっと言えずに苦しんでいた。
カルは、それをようやく口にすることができた。
『一人で生き残ってごめん』
花の香りが微笑みを運んでくる。
『いつも一緒だよ』
空には星が瞬いている。
戦うことに夢中で気づかなかったが、陽はとうに暮れていたようだ。
体はやわらかな草地に横たわっている。
頭の下には、膝のぬくもりがあった。
「もうすぐ救護の者が来るから、動かないで」
切実に願い乞うような声だった。涙ぐんでいるようでもあった。
他にも、いくつかの顔がカルのことを心配そうに覗きこんでいる。
だが、カルの目はまだかすんでいて、どれが誰なのかまではわからない。
「大丈夫だったか……?」
「ええ、みんな無事よ」
指一本動かす力も残っていなかった。
脈打つような感覚が体のあちこちで感じられる。それを痛みとして知覚することすらカルの体はやめてしまっていた。
何か言いかけたところで、急に咳きこんでしまう。
周りを囲む顔から口々に止められたが、カルは細い息の中で言葉をつむいだ。
「街は……どうなってる」
ふた呼吸ほど間があってから、カルを囲む一人が答える。
「もう見てるよ」
カルの目には、星の瞬く夜空しか見えていない。
その中で、星がひとつ、ふたつと増えていく。
みっつ、よっつ、いつつ……じきに数えきれなくなる。
ぼやけていた視界から霧が晴れていく。
カルが見ていたのは夜空ではなく、学園都市の街並みであった。
避難していた人々が我が家に戻り、そこかしこで灯がともっていく。
そのひとつひとつに命の営みがある。
無数の命。無数の家族。無数の平穏。
また別の誰かがささやく。
「君がいたからあの灯はあるんだ」
しかし、カルはその言葉に心の中で首を振る。
ここにいる者も、いない者も、みんないたから最後まで戦えた。
一度は砕けた心が、再び立ち上がることができたのだ。
故郷と同じ風が吹く。
どこからかプリムラの香りがして、カルから遠ざかっていく。
だが、もう寂しくはない。
自分が守っているものの価値に気づいたから。
戦士に永遠の静寂などない。次の戦いまでの休息があるのみだ。
カルはまぶたを閉じた。束の間のやすらぎのために。
こうして、悪夢は終わった。
功績はあまりにも巨大で、それが誰に帰せられるべきかで議論も紛糾したが、結局のところ多くの目撃証言により、三人のソリストと一人のマスターサイドが賞せられることとなった。
しかし、一部の者たちの胸にとある名前が刻まれたことは言うまでもない。
それはひどく短い名前で、気心の知れた友人たちからも略されることなく呼ばれていたという。
その姓はナイトウォーダー。闇を払う者を意味していた。