十年恋愛 後
私、菅野睦美が二次元に嫁を持ち始めて早12年。いつの間にかこんなにも長い間二次元と三次元の狭間に身を置いていることになってしまっていた。
【 十年恋愛 後 】
高校生になってできた友達、莉香に唆されて読んだ小説が駄目だった。二次創作だというそのお話の原作が知りたくてやってみたゲームが更に私を深みに付き落とした。気づけば月々にもらう雀の涙の小遣いを握りしめ書店に足しげく通うようになり、いつの間にかそれだけでは物足りずに自らも創作する側に立つようになっていた。
最初の内は本当に下手で、人に見せられるようなレベルではなかった。それでも二次嫁への愛だけを胸にミミズ這った跡の集合体ような嫁達を描き続けた。
10年以上も真面目にコツコツやっていればどんな人間でもそこそこ上手く描けるようになるもので。長い年月身を置いているだけあって同人での活動にも慣れてきた。知名度も上がってきて、別ジャンルに移行する時にはついてきてくれる固定ファンもいてくれている。花も恥じらう20代をあと一歩で卒業してしまう28歳にもなっているというのに、仕事以外で出かけるといえばイベントか二次嫁にお布施を払いに行く程度の引き籠りになってしまっていた。
28にもなって。嫁は沢山いれど、彼氏の一人もできたことがない私。鏡を見るたびに自らの姿にため息が零れるそんな日常であるが、現実を見なければ割と充実した楽しい二次充ライフだった。日々のセクハラに鈍感なふりをして、遣り甲斐のない仕事に向き合い、同僚のしつこい嫌がらせに耐えていれば、何とか人は生きていけるのだ。
そんな私の偶の贅沢が、これである。
「見て見て奏、新しい嫁!買っちゃったっ!」
てへ☆とウィンクしながら昨日通販サイトから届いた抱き枕を掲げる。ちょっと眠そうなキャラクターと添い寝ができるという、巷で有名なあの商品だ。
そんな私に冷たい目線を送ってくる年下の男の子。名前を日下奏という。
「睦美ちゃん…それで何人め?」
「…7人?」
「シングルのベッドに何人囲う気なの…入りきれなくなった過去嫁はどうするつもり?」
「いいの!こたつに入っててもらうの!だから奏の席はありませーん」
「あっ、そう。じゃあ帰るね。このページとこのページ、まだ集中線とトーン終わってないから。」
「ごめんなさい!奏君ごめんなさい!!!大好きだからお願い置いていかないでぇ」
パソコンが一人一台と言えるほど普及している昨今で、アナログ原稿を描く人間がどれほどいるだろうか。そこそこの人数はいるだろうけど、それでも10年前よりかは比べられないほど少なくなっただろう。そんな時代錯誤な原稿用紙をぺらりと私に差し出す奏に、私は必死に追い縋った。
弟とは年に2・3度、しかもメールですら連絡を取らないが、その親友である奏とは月に2・3回会っている。この差はなんだと言われれば、その、なんだとしか言いようがない。
奏のことは第二の弟のように、それはそれは小さなころから…自転車に補助輪がつく前から可愛がってきた。
奏も私によく懐き、弟が不在の時でさえも『むつみちゃんむつみちゃん』と言ってうちに出入りしていた。あんまり可愛いものだから、私もよくかまってやっていたのだが、私が中学に入学したくらいから少しずつ疎遠になっていった。
私もその頃になると年下の男の子と遊んでも楽しくなくなっていたし、部活や友達の方が比重が重かったのであまり気にしていなかったが、あれが奏の思春期だったのだろうと思う。
疎遠になり、すっかり忘れていた奏のことを思い出したのは、奏が中学3年生に入ったころだった。
その頃には、家で顔を合わせることもほとんどなくなっていた奏。私が部活動に夢中だったのもあるし、奏が遊びに来てもすぐに弟の部屋に籠っていたりしたからだ。なので駅前のモックで莉香と小腹を満たしている時に、人通りの多い駅で見かけたその人物が本当に奏だったのか、私はしばらくの間確証が持てなかった。
冬生まれの奏は、春生まれの弟よりも随分と小さく、同じ年齢でも一つ学年が下のように見えていた。体が小さいせいで幼いころはからかわれることも多く、本当に女の子のように見えていた奏が、信じられないほど大きく育っていたのだ。
大きくといっても、当時の私とそんなに変わらなかったはずだ。163cmの自分と変わらなかったのだから、中学3年生の男の子にしては大きかったんじゃないかと思っている。それまで130cmくらいの印象しかなかった私にしてみれば、青天の霹靂もいいところだった。
そうか。弟がでかくなっていってるんだから、奏だってでかくなるよね。
偶に会った時も、リビングのソファに座っている奏をちらりと見たりするぐらいだったので、身長まで気にしたことが全く無かったので気づかなかったが、これが成長期というものなのだろうとしみじみと感じた。
その成長ぶりに驚いた私は、二度見、三度見、四度見して、ようやく本当に奏なのだと確信することができた。私があまりに驚いたのはその変貌ぶりだけではない。奏の周りを、まるで砂糖に群がる蟻の様にキャイのキャイのと可愛らしい女の子たちが取り囲んでいたのだ。
元々女の子のように可愛らしかった顔は大きくなってもそのままで、ひよひよのもやしみたいだった体には程よい筋肉が付き、甘いマスクのいいスパイスになっていた。最近弟が鏡を見ながら四苦八苦していたが、あれを目指していたのかと邪推できる自然な無造作ヘアーは、中学生ながらにワックスで整えていることが窺える。2人して雑誌でも読んで勉強したのかな、なんて思うと可愛らしくてうずうずした。
「むつぅ?どったのぉ?」
「ううんなんでもない」
前の席に座る莉香に首を振りながらも目線は奏に固定されたままだった。あまり表情は動かないものの、女の子たちを邪険に扱っている風でもない。
そっか、奏、もてるんだ。
小さなころは本当に女の子のようだった奏。弟の友達の中で一番可愛く、一番私に懐いていた彼がとにかく可愛くて可愛くて仕方がなかったが、もう奏はそんな小さな女の子のような存在ではないのだろう。
そのうち待ち合わせていた友達が来たのか、女の子たちに手を振ってその場を離れていく奏を、モックシェイクをズズズと音を立てて吸いながら見つめていた。
同じ年だったら。弟の友達じゃなければ。奏が懐いてこなければ。
視線を彷徨わすだけで目を引いてしまうような奏は、平平凡凡な畑の大根のような私なんかが、話も出来なかった存在だったのかもしれない。
現に、私は奏を見つけることができたのに、奏は私を見つけることはできなかった。私は何故かそれがとてつもなく寂しく感じた。
だからだったのかもしれない。
今までの有り合わせの服でのいい加減な参加とは違い、初めて通販サイトで買った立派なコスプレ服。コスプレOKのオンリーイベントには、すでにサークル参加と共にコスプレイヤー2人でも申請を出していた。
文字書きの莉香と駆け出し絵描きの私で、初めて作ったオフセットの合同本。少しでいいから売れれば良いな、なんて。欲を持ったのがいけなかったのかもしれない。莉香がまさかのインフルエンザにかかってしまうとは。
イベントの急なキャンセルは嫌がられるが無理ではない。一人での参加となるとサークルスペースを離れられないから、コスプレ参加は不可能になるだろう。連載も終わり、旬の盛りを過ぎた漫画のオンリーイベント。これからジャンルは廃れていく一方だろうと安易に想像できた。イベント主催者も、廃れていくジャンルにお金をかけれる余裕はない。こうして、衰退したジャンルはどんどんと世間から姿を消していくのだろう。
もうこれで最後かもね。最後ぐらい、花を咲かせるのに一役買いたいよね!と参加を決意した、オンリーイベント。今までのなんちゃってコスプレイベントとは違い、そのジャンルを愛する者たちが手向けに選んだ、特別なイベントだった。
その特別なイベントを彩るために、莉香と着る筈だったハルト様とソウタの服をかき抱いて泣いた。私は大いに、泣いた。
インフルエンザの報告をする莉香は泣いていた。ハルト様に申し訳ないと。私の分まで、ハルト様とソウタの仲を祝福してきてくれと。最後の最後で情けない相方ですまないと泣く莉花に、私は何も気にするなと涙声で伝えた。私が、ハルト様とソウタのことを誰よりも祝福してくるから!と。ちなみにハルト様もソウタもその名の通り、男である。ソウタのために用意したセーラー服は、彼が学園祭で無理やり着せられたコスプレ服であるが、この回は作中でも首位を争う人気回であり、セーラー服姿のソウタはソウコちゃんとしてファンに親しまれている。
『なんだったら弟君に着せて参加してもいいからぁ!!私の愛と金を無駄にしないでぇ!』とゲホゲホと咳き込みながら呪文のように唱えた莉香の電話はそこで途絶えた。最後に聞こえた怒鳴り声からして、インフルエンザにかかってるくせに長電話なんかするんじゃないとおばさんに怒られたんだろうなと想像がついた。私はそっと携帯の蓋を閉じた。
弟はこういうことに興味が全くない。出てくれなんて言おうものなら、1週間は目さえ合わせてくれなくなるだろう。男同士の乳繰り合いを生業にしている身としては、血を分けた弟に頼むのはさすがにどうかと思いそっと候補から除外した。
高校の友達にはオタクだということを隠している。今日カミングアウトして、明日のイベントに付き合ってくれなどとは、さすがに無理な注文である。私は必死に頭を悩ませた。誰か、誰かいないのか。その時に、ぴこんと頭の中に浮かんできた映像。
『むつみちゃ~ん!』
小さな両の手を目一杯に広げながら私にタックルしてくる愛しい奏。私はおもむろに立ち上がると、この間の駅前の姿は都合よく記憶の片隅に押し込めて、奏の電話番号を聞くために弟の部屋をドアを勢いよく開けた。
あれから早10年。
奏は今や、私の生活になくてはならない存在となっている。
奏を連れて行った初めてのイベントは、大盛況だった。
運営に確認したところサークルスペースでもコスプレ可能だというので、奏と2人、コスプレをしながら売り子をした。その結果、あまりにも完成度の高い麗しいハルト様を目当てに私のスペースにはひっきりなしにお客さんが訪れた。
みんなハルト様とのツーショット写真目当てだったが、最初から写真撮影はお断りの札を出していたので事なきを得られた。奏は、嫌な顔も疲れた顔もせずに、私が渡したハルト様の会話集を熟読して、会話の隙間隙間に挟んであげるという高等テクニックでオタク女子をメロメロにしていた。メロメロになったオタク女子たちはハルト様に勧められるがままに、ついでのように私達の本も買ってくれた。開始1時間で持って行っていた分すべて売り切ってしまうという、初参加にあるまじき光景に半ば呆然としてしまった。
その後はサークルスペースを掃除して引き払い、コスプレスペースに移動して思う存分楽しんだ。ここぞとばかりにハルト様にくっつくソウコになりきり、いろんな人と交流を持った。
奏はやはりというか、普通に女の子に間違えられていてそりゃあもう大モテだった。実は男なのだと知らせたらモーゼの十戒のように人垣が分かれてしまった事がトラウマになっていなければいいけれど、とほんの少し心配した。
その時に知り合った友達たちとは未だ連絡を取り合っている。奏もやはりにこやかに対応してくれて、本当に下げた頭が上がらなかった。
莉香がいなければ打ち上げをやるべき相手もいなかったので、そのまま奏と焼肉を食べに行ったのだが、奏はずっとにこにこと上機嫌だった。『コスプレが気に入ったの?』と身を乗り出しながら意気揚々と聞いたら少し固まっていたが、『また誘ってもいい?』という言葉には微笑んで頷いてくれた。それからコスプレ参加するイベントには必ず奏の服も用意するようになった。
高校卒業後に服飾の専門学校に進んだ私は、自分でコスプレの服を作れるようになっていった。すると当然のように奏の分も手作りするようになった。
奏は何でも着てくれて、何でも演じてくれた。その内、『次はこのキャラをお願いしたいんだけど』とテヘペロする私の為に漫画やゲームを見て予習してきてくれるようになっていた。当たり前だが、女ばかりのイベントで、成長期の盛りに入った奏は異色だった。その為、イベントに行く際は必ず先に運営に確認を取るようにしていた。確実に男が、それもどう見てもリア充まっしぐらのイケメンがコスプレしていることに会場の他のコスプレイヤーは中々対応に困っていたようだ。しかし、最初は遠巻きに見ていた人達も何度も通う内に親しくなっていき、いつの間にか奏のファンができるほどまでになっていた。
そんな奏はコスプレ面でも創作面でも私を支えてくれるよき理解者であり、相棒であり、もうなくてはならない存在となっていた。
そしてそれは、私生活でも同じであった。
土日の度に、『原稿が終わらない助けて!』だの、『そうめんを何度茹でても美味しくならない!』だの、『すき焼き食べたいからお肉買ってきて!』だの、『ピザ注文するけど食べる?』だの。
なんのかんのとメールを送れば、9割の確率で釣れる奏が傍にいてくれることを、私はほとんど当たり前の様に受け入れていた。
小さなころからうちに入り浸っていた奏を、両親も当たり前に受け入れていて本当に第三の子供のように扱っている。
実家に帰る度に聞かれるのは弟とのことではなく奏とのことだった。『あんた、奏君とは仲良くしとるんね?』と聞かれる度に、奏を可愛がってることなんて知ってるだろうにと思いながら、いつも適当に『仲良くしてるよ~』と流している。両親も、平凡な大根姉弟よりもコスプレ雑誌に載っていそうなイケメン奏の事に興味があるらしく、ことあるごとに奏のことを聞きたがった。
友達たちはもうほとんど結婚していて、3人も子供がいる家庭もいる。なんと子供が小学校に上がっている子だっている。そんな肩身の狭い世の中で、その事をつついてこない優しい家族がいる幸運を捨てる気にはなれずに、両親をあまり邪険に対応することはできなかった。切実すぎて、つつきたくてもつつけないのかも知れないが、その可能性はあまり考えたくなかったので見ないふりを続けていた。
「奏も暇人だねぇ。土日のたんびに手伝いに来てくれて…嬉しいけど、彼女の一人もいないの?」
「いたらこのページ終わんないけどいいの?」
「奏様~~!愛してるから私を捨てないでぇ」
「はいはい。」
あの小さかった奏も、もう24歳。
補助輪を外す練習をしている最中、『手を離さないでね?離さないでね!』と泣いていた奏が、24歳。
そんなアヒル倶楽部みたいなこと言われちゃぁ離すしかないじゃないかと手を離した瞬間こけて大泣きしながら私をポコスコ殴っていた奏がもう24歳。
それに伴い、私はもう28歳。夏生まれの私と冬生まれの奏は、学年では3つの差だが年齢では4つも開きがある。奏より4つ年上になってしまった私は、三十路に片足をかけるどころか爪先立ちで前のめりになってるぐらいの、笑えない年である。
16歳で二次元の住人に恋をしてから12年間。青春をオタクに捧げてきた私は彼氏の一人もできたことがない。28にもなって処女のままの私は、男の裸ばかり描いてるくせに実物を見た事がない。
一度奏に『お給料出すから脱いでくれないかな?てへ』なんて冗談半分で言った時は般若の両目から放たれた冷凍ビームで殺されるかと思った。地面タイプボケモンの気持ちがよぉくわかった一瞬だった。
『冗談だよ~』と慌てて笑って誤魔化したけれど、あれから偶に奏の視線が非常に痛い時がある。私は奏なら別にそのまま雪崩れ込んでも…と思ったからこその発言だったのだけれど、奏はそんな気持ちはさっぱりだったのだろう。確かに、友達の姉ちゃんに誘われた、なんて。微妙かもしれない。
それに、蝶よ花よな女の子たちに囲まれ慣れた奏は、アラサーにもなって処女な私なんか、面倒でしかないだろう。初めては面倒だってよく聞くし、女の子は濡れにくいし痛がるばかりだから男の方も気持ちもブツもどんどんと萎えていくものなのだと聞いた。誰から聞いたとかは思い出したくないが、彼らから見て若い女の子だってだけでそういうお誘いをしてくるおっさんは世の中には沢山いる。
初体験から気持ちいいのなんて物語の中だけで、気持ち良くなる為には実際には中々遠い道のりが待っているらしい。その道のりは信頼しあった二人だからこそ乗り越えられる茨の道なのだそうだ。茨の道を歩むには、奏にとって私では物足りなく感じたのだろう。大根だしな。と奏の鋭い目を見てそう思った。
こんなに顔がよくなきゃよかったのに。そしたら私だって。
いや私だってなんだ、と大慌てで首を振る。そもそもが、私が奏に目を付けたのだって彼が弟の友達の中で抜きんでて可愛らしかったからだ。スカートをはいていないのが残念なほどの可愛さにメロメロにされたからだ。女の子扱いされるのを嫌がることを知っているくせに、わざとセーラー服なんて着させて、まだ私のいうことは聞いてくれるなんて安心しなきゃ寂しいほど、可愛がっているのは奏の顔が可愛いからだ。
「そう、可愛いは、正義なの。」
「どうしたの急に」
「いいの!私には沢山嫁がいるし、嫁には嫁もいるけど、けどいいの!私は二次元に生きるの!」
「はいはい、聞き飽きたよそれ。」
唐突な言葉にも奏は動じずに対応してくれる。男の前でホモが好きだと叫ぶような常識外れの女でも、当たり前のように受け止めてくれる奏のことが、私は、いつからか。
「うふふ、奏のそういうところだぁい好き」
「はい、ありがとう」
冗談めかしてそういった私を、奏はさらりと受け流す。
「さて私も手を動かしましょうかね!」
そう言って腕まくりをしてティッシュを手の下に引いた私の邪魔をするように、携帯の着信音が鳴り響いた。
「…なにこれ、ホラー映画の主題歌?」
「…仕事関連だよ…。」
井戸から這い上がってくる女性を思わせるテーマソングをボタン一つで黙らせると、すぅと息を吐いて電話に出た。
「はい、菅野です。お疲れ様です。―――はい、はい。その件については以前も申し上げた通り、私の一存では―――いえ、社長のご意向です。はい、大変申し訳ございませんが―――いえ、社長に直接掛け合っていただかないと。―――はい、はい。大変申し訳ございません。はい。はい、失礼いたします。」
通話終了ボタンを押した瞬間にベッドにスマホを投げつけた私に驚きもせずに奏は集中線を引いている。微塵のぶれもないその背景に、キィイと腹が立ってくる。
「奏!ビール!」
「まだ昼間だよ」
と言いながら立ち上がり、冷蔵庫からビールとピーナッツを持ってきてくれる奏の頭を少し背伸びをしながら撫でてやる。10年前はほんの少しだけ高かった身長も、今では背伸びしなければ頭まで手が届かない。当たり前だが、もうソウコのセーラー服は似合わないだろう。
奏がビールの蓋を開けてくれたのを受け取ると、ゴキュゴキュ喉を鳴らしながら一気に飲み干す。再び台所に戻った奏がごそごそしているので、更におつまみでも作ってくれるつもりだろう。
その後姿を見て、私はなんだか、泣きたくなった。
二次元の世界が現実と交わらないことも、ビールの蓋を開けてくれる存在がいることも、休日でも仕事の電話がかかってくることも、いつの間にかコスプレや会場設営だけでなく原稿まで奏に手伝わせていることも。なにもかもに泣きたくなった。
「…もう、やだ」
「睦美ちゃん?」
ビールのパッケージが歪んで見える。いつの間にか、目の淵に涙が溜まっていたらしい。ふき取ることも出来ずに、私はぽとりと缶に涙を落とした。
「もうやだ!別にこんな仕事、望んでたわけじゃないし!」
「うん」
一度堰を切った感情が次々と溢れ出した。こんなこと、年下の男の子に聞かせるのなんてとても嫌なのに。奏の何でも受け入れてくれる肯定の言葉を聞くと、どうしても止められずに泣きながら叫んだ。
「本当は事務のつもりだったのに、なんでか社長のお気に入りになっちゃって、勝手に秘書みたいな役回りさせられて、仕事は忙しいのに給料は安いし、プライベートも侵されてるのに残業手当は一切出ないし、小さな会社だから当たり前にワンマン経営だし!朝も昼も夜も休日も!社長に呼び出されたら出なきゃいけないし!そのせいで何回奏と遊ぶのぽしゃられたかわかんないし!!」
「うん」
「社長の秘書ってことはそっちの世話もしてんだろなんて目で見られるのも、直接言ってこられるのもいや!エロビデオ見過ぎじゃボケ!最近のBL小説でもそんな笑えるような台詞言わないっつの!なんで職場の人間と2人きりになるだけで危機感持たなきゃいけないの!」
「うん」
「媚も売ってないしへつらってもないのに、なんで同性には嫌がらせされなきゃいけないの!なんで僻まれなきゃいけないの!別に特別手当なんかついてないよ休日手当なんて出た試しがないよ!!!そんなに代わりたきゃあなぁ、代わってやらぁ!そんで私は日がな一日エロエロでムフムフな漫画描いてやらぁ!もう!もう!もう…仕事なんて…―――辞めたい。」
辞めてやらぁ、と言えない私は、とことん社畜らしい。
つい奏の優しさに絆されて、ビールの冷たさに誘われて、台所から漂ういい匂いに満たされて愚痴ってしまった本音。言ってしまえばすっきりしたが、言ってしまった相手を思い出して冷や汗をかく。
今まで私は、奏の前で“友達のお姉ちゃん”の顔以外を出したことがなかった。だって、本当に小さなころから一緒にいるのだ。今更頼ったり甘えたり、うまくできる筈がなかった。なのに、こんなに弱った姿を見せてしまったことが恥ずかしくて、堪らない。
『な~んてね』と、なかったことにしようと隣にいる奏に顔を向けた。奏はエプロンを身につけて、膝に肘を立てながら、私の顔を真顔で凝視していた。綺麗な顔に真剣に見つめられて少し焦っていると、奏はふんわりと笑ってこう言った。
「うん。じゃあ今から市役所に婚姻届けでも貰いに行こっか。」
「…ん?」
立ち上がり、エプロンの紐を解いた奏はそのまま自分の荷物の方へ歩いていく。本気で出かける気だ、と血の気が引いた私は大慌てで奏を引き留めるために立ち上がった。
「ちょちょちょちょ、奏さん?!」
「辞めるんでしょ?仕事」
「辞めないよ!辞めたいって言っただけで、っていうか、は?!けっこん!?だれの!?」
「俺と睦美ちゃんに決まってるでしょ。」
「なんで?!付き合ってすらないのに?!」
何言ってるんだこの男、と本気で焦っている私に、奏は何言ってるんだこの女、とでも言いたげな顔をした。
「じゃあ睦美ちゃん仕事辞めてどうやって食ってくわけ?」
「いやいやだからさ!普通はさ、こんな風に弱音聞いたら、そんなことないよ頑張れとか、皆頑張ってるんだから、とか、さぁ?!」
「言うわけないじゃん。なんで今まで散々頑張ってきて弱音の一つも吐かなかった人にそんなこと言わないといけないの。」
ぽかんと開いた口からきゅんと鳴った心臓が飛び出てこないように、私は大慌てで両手で口を塞いだ。
「そんな人が、俺の前で弱音吐いたのに。こんなチャンスなんでみすみす逃さないといけないの。もう、指を咥えてチャンスを見送るような失敗は二度としないの。ほら、この筆で辞表書いて。」
「え?失敗?え?ていうか、え?!いやいやいや!それベタ用の平筆だし!!私そもそも毛筆さっぱりだから!!」
「はい、理由。一身上の都合により、寿退社いたします。」
「それ!一身上の理由って書く意味皆無!!って言うか、そもそも何言ってんの奏。いくら睦美ちゃんが仕事辞めたくても、それで結婚は、違うでしょう」
困った弟に言い聞かせるような口調になってしまったのが悪かったのか、奏は珍しくも明らかにむっとした顔をして私を見下ろした。二人羽織のような姿勢で包み込まれながら、紙に向かって筆を持たされていた私の手を解放する。こんな至近距離にいたのかと今更ながらにドギマギしてきた私に向かって、奏は大きなため息を吐いた。
「睦美ちゃん」
「ふぁ、ふぁい」
「ちょっとそこに座りなさい」
いや、座ってますけど。とは言えない空気を感じた私は素直に反転した。
「正座。」
言われた通りに足を組む。奏の顔を見れずにほんの少し視線を逸らしている私に、奏はさらにご立腹なようだった。
「睦美ちゃんさ、なんで28にもなるのに親に結婚の催促の一つもされないと思ってたの?」
なぜその事を知っているのか大層不思議ではあったが、再び冷凍ビームを浴びたくなかった私は正直に答えることにした。
「だって、そりゃ、うちの親がのんびりしてるからで…しょ?」
「そんなわけないじゃない。28にもなれば、会う度に聞かれてもおかしくないよ。」
いやだから、なんでそんな事情まで知ってる。と喉から出そうになる言葉を必死に押し留める。確かに、仲間の数多くがアラサーなこの分野においてそういう話題は尽きることがない。一旦『結婚』という文字を読めば、堰を切ったかのように次から次へと親への愚痴や不満や二次への愛が溢れかえるチャット画面も見慣れたものだ。だけど、それをリア充まっしぐらであろう奏が知っているのが不思議でならなかった。
「奏はそういうこと言われなくて済んでよかったね。今はいなくても、すぐに彼女とかできるんでしょ。」
ちらりと目線を上げると、やはり冷凍ビームを放つ奏がいた。ひぃいと顔を背けようとする私の頬を片手で掴むと、両のほっぺを親指と人差し指でむにゅりと押し付ける。口がひょっとこの様になって恥ずかしいのに、奏は手を放してくれない。
「あのねぇ。言うに事欠いてまだ鎌かけようってどういうこと。さっきもだけど、そんなことする前になんか言うことあるでしょ。俺に。」
真っ直ぐに向ってきたその言葉に、私は既にたじたじだった。
「ななななななななぁに言ってんの奏さん。鎌かけたりなんて、睦美ちゃんは別にねぇ…」
「とりあえずもう少し貯金が貯まるまでと思ってたけど、どんどんどんどん差は開いていく一方だしもういいや。稼いだ分使ってもらわないと、男として立つ瀬がないんですけど。なんで引き籠りは皆貯金が趣味なわけ?」
「はいいい!?」
「あのさ、この10年、何にも考えないで睦美ちゃんの隣で、睦美ちゃんの嫁の服着てると思ってた?なんでそんなこと我慢できたと思う?恋敵だよ?わかってる?そういう可能性は、考えたことなかったわけ?」
「そそそそういう可能性って、ななななななだってだってななななな」
「俺が言ってる意味わかる?男同士が裸で抱き合ってる表紙の本が散乱してても、仕事以外は年がら年中引き籠ってそれを描いてても、平気で1週間前の洗濯物を放置してても、コタツ布団を月に1度しか干さなくても、ほしいフィギュアがないからって手作り手伝わされても」
「わああああああああああああああああああ」
「ベッドに収まりきれない過去嫁も全部引っくるめて引き受けてやるって言ってるんだけど。そんな好条件出してくれる男、他にいるって、本気で思ってる?当てがあるなら連れて来い。今すぐに。」
「わああああああああああああああ」
「睦美ちゃんの気持ちなんて、睦美ちゃんよりよく知ってるよ。あんたは安心してたんだ。ずっとずっと、男として意識してないくせに、最後には俺がいるって安心してたんでしょ。知ってるよ。結婚とか子供とかいらないの。私は二次と生きていくの!なんて言いながら、どんどん結婚していく友達たちに焦ってたでしょ。考えてないふりしながらずっと不安だったんでしょ。けど、呼び出す度にちゃんと来る俺の顔見て、その都度安心してた。まだ来てくれるってホッとしてた。違う?」
「わああああああああああ…」
「ねぇ何の為に10年も俺が側にいたと思ってんの?なんでこんな生殺しみたいな関係続けてきたと思ってるの?現実なんて興味ない二次元に生きるなんて意味わかんないこと言ってる大好きな女に、俺の気持ち言ったところで、あんた俺を避けただろ。同人とっただろ。二次嫁捨てれなかっただろ。だから、ここまでついてきたんでしょ。」
「わあああああ…」
「俺の気持ちに気づいてたのかは知らないけどさ、好意を利用してたのは確実でしょ?よく言えるよね、裸見せろなんて。どの口が言ったわけ?あん?」
もう既に日本語さえ話せなくなってしまっていた私は、そこでようやく顔を掴まれていた手を放してもらえた。痛くなったほっぺをさすりながら、奏から視線を逸らしてめそめそと泣く。
「かなでくんキャラがちがう…」
「睦美ちゃんの大好きな二面性キャラでよかったねぇ」
「かなでぇ」
もうなにがなんだかわからなかった。とりあえず、二次元にばかり現実逃避していた私なんかと違って、奏はだいぶリアルの事を考えていたことだけはわかった。
お金に貯金って、なんのことだろうか。新刊が売れるたびに嬉しくて、奏に貯金残高を見せびらかしていたのが悪かったのだろうか。10年もやってれば加減もわかって、よっぽどのことがない限り赤を出すことはない。
基本的に引き籠っているから必要最低限の生活費しか使わないし、最近では二次嫁へのお布施も少しずつ額が減ってきていた。
あんなワンマン会社をそれでも辞めないのは、お給料に釣られているからに他ならない。貯蓄額は確かにそこそこまとまったお金になっている。
実家から出て一人暮らしをしている社会人2年目の奏には、少しばかり追いつくのが難しいかもしれない金額だ。
私としては、これだけ貯金があるからうちに来た時には遠慮せずに好きなもの食べて好きなことしてね、と言うつもりだったのだが、伝わっていなかったらしい。それどころか、嫌味にとられ、男の沽券に係わる問題にまで発展し、更にはプレッシャーを与えてしまっていたらしい。
現状について行けずに呆気にとられている私に奏は尚も言い募る。
「ほら。好きだよ、大好き、愛してる。全部睦美ちゃんの十八番だけど、どれがいいわけ?」
「わあああああん!ど、どれでもいいいですぅううう」
なんだこのお座なりな愛の言葉は。こんなんありか?こんなんありなのか?今一何も把握できていない私の大混乱を見て取れているだろうに、奏は言葉を止めてくれない。
「あっ、そう。」
いつの間にか向き合った姿勢で手を取られていた私は、手の平に巻き付いてくる奏の指を直視してしまい、もうどうしていいか完璧にわからなくなってしまっていた。男同士のこんなシーンならおかずにするどころか自分でも何度も描いていたのに、これが三次元で起こっている現実だというだけで全身から汗が吹き出してしまう。
「ちなみに俺は愛してるがいいです」
「愛して…るかもしれ」
「却下」
奏の要望に沿うような言葉を吐き出したものの、コンマ数秒もないうちに却下されてしまい、私は奏の指を振り払って立ち上がった。
「あぁ、もうっ愛してるわよそりゃああ!!!だって、もう奏のいない生活は考えられないのぉーー!!一人で食べるピザは美味しくないし、一人で見るテレビも楽しくないし、新しいジャンルで気になる男はなんか全員奏に似て来ちゃってるし、土日に奏に会えないと何にもする気がなくていつも原稿滞りがちだし!結局奏に助けてもらって、それを実はすごく喜んじゃってる、心底ダメな女ですぅうう!!年齢で4つも年上だし友達のお姉ちゃんだし処女だけど、奏が好きっぽいんだもんしょうがないじゃん構ってくれたらそりゃ嬉しいよぉおおお」
叫び終えると、しーんとした場に耐え切れずにうっつぷして顔を隠す。子供のようにわぁああん見ないでぇええと泣く私の頭を、よしよしと奏が撫でてくれた。
「睦美ちゃん、俺もね。ずっと前から愛してるよ。」
きゅんと鳴った心臓が口から零れたかもしれない。ポカンと口を開けた私に、奏はいつものようににこりと微笑んだ。
「じゃあお互いの気持ちを確かめ合えたということで、今度、おばちゃんとおじちゃんに挨拶に行こうね」
「挨拶?もうお正月は過ぎたけど?」
「なんでこの流れで年始の挨拶に行くと思うの。」
「じゃあ何の挨拶?」
「何のって、10年付き合ってたんだから、そろそろ結婚してもいいでしょ。」
「つ、つ、つきあってたの?!」
「睦美ちゃんは付き合ってる人と何する?」
「なに、って。え?つきあったことないから、わかんない、けど」
「一緒にいたり、一緒にご飯食べたり、一緒に好きなことしたりするんじゃないの?睦美ちゃんの漫画ではそんな感じだよね。」
「はい。概ねそんな感じだと思います。」
「うん。じゃあ、挨拶行こうね。」
「はい。」
―――あれ?
と私が思った時には奏と並んで実家に帰っていた。
しかし、『どうなってるのか睦美に聞いても今一よくわかんないし、30になる前に結婚に乗り出してくれて助かったわぁ』なんて更に父母が訳の分からない事を言うせいで、結局はてなマークを量産させられた。
ようやく色々と事情が掴めてきたのは、奏に引っ張られて二人で引き籠るための部屋を見に行っていた頃のことで。気がつけばあっという間に、私は日下睦美になっていた。
一部の読者様には奏が暴言を吐いて申し訳ございませんでした!!(ジャンピング土下座)