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プロローグ

「意気地なし」

七瀬凛音は言う。

海成高校三年生の鳴海ケンは、これまで何度、その言葉を言われてきただろう。

凛音は、僕の幼なじみだ。

家は隣同士で、両親も同級生だった。

物心がついた頃から、凛音とはいつも一緒にいた。


中学生になる頃だっただろうか。

それまで一緒に登下校していた凛音に、僕は言った。

「今度から、友達と帰るから」

思春期だった僕には、それが当たり前のことに思えた。

周りから冷やかされれば、やっぱり恥ずかしい。

「ふーん……あっそう」

「……ケンの意気地なし」

それは、いつもの言葉だった。

嫌いな野菜を食べられなかったとき。

虫が怖くて触れなかったとき。

とにかく、幼い頃から言われすぎて、今ではその言葉を聞くと心地よく感じるくらいだ。


僕は、凛音に恋をしている。

小学校の頃から、凛音はモテた。

幼なじみの僕から見ても、ひいき目なしに可愛いと思う。

だからこそ、常に一緒にいると目立って、恥ずかしくなったのもあるんだけど……。


今年、僕と凛音は高校を卒業する。

凛音が僕のことをどう思っているのかは分からない。

けれど、卒業後は初めて別々の道を歩んでいく。

想いを伝えないまま、凛音に相手ができるのは嫌だった。


     *


「ただいまー」

「……?」

返事がない。

家には、両親の車が停まっていた。

「歩いて出かけてるのかな?」

僕はリビングへ向かった。

「……んで……が」

誰かの泣き声が聞こえる。

「何でっ! 凛音が!」

「……楓おばさん?」

凛音の母さんの泣き声だった。

「……警察は?」

今度は、母さんが楓おばさんに話しかける。

「……ぅ……まだ……見つかってない」

「……っ!」

ガチャンッ!

僕はリビングのドアを勢いよく開けた。

「凛音が!?」

その言葉に、両親と凛音の両親が一斉に振り向く。

「凛音がいなくなったのか!?」

動揺して叫ぶ僕の声に、父さんが立ち上がった。

「ちょっと……こっちに来なさい」

そう言って、父さんは僕を二階にある自分の部屋へ連れて行った。

「落ち着いて聞きなさい。誰にも話さないように」

父さんの言葉に、僕は黙って頷く。

「凛ちゃんがな……学校帰りに……な」

その先を、言いづらそうに続ける。

「その……男に襲われたんだ……」

ベッドに腰掛けて話す父さんの手は、震えていた。

「犯人はまだ見つかっていない」

父さんは、震える手を強く握り締めた。

「おっ……」

『襲われたって……何を?』

聞こうとして、止めた。

何を聞いても、凛音のそういった姿を思い浮かべてしまう。それが、とにかく嫌だった。

「凛音は……?」

「家に戻って、部屋にいるよ」

「……っ!」

ガチャンッ!

僕は勢いよく部屋から飛び出した。

「待ちなさい!」

父さんが慌てて僕を止める。

「あの子の気持ちも考えなさい」

「……」

トン……トン……

誰かが階段を上がってくる。

「楓おばさん……」

凛音の母さんの顔は、涙で化粧が崩れていた。

「行ってあげてくれないかしら」

「楓さん……」

父さんが声を掛ける。

「……うん!」

僕は走って凛音の元へ向かった。


――


凛音の部屋の前に立つ。

『何て声を掛けたらいいのかな』

掛ける言葉が見つからず、今さら入るのをためらってしまう。

「……ケンでしょ?」

「……っ!」

ドンッ!

「……ったぁ」

突然、ドアの向こうから声を掛けられ、思わず後ずさった僕は壁に頭をぶつけた。

ガチャ……

ドアがゆっくりと開き、凛音が顔を覗かせた。

制服から着替え、灰色のスウェット上下を着ていた。

「大丈夫……?」

「あ……うん」

いっぱい泣いたのか、凛音の目は少し赤く腫れていた。

「何でここまで来て、入んないのよ?」

「意気地なし」

凛音はじとっとした目で僕を見つめる。

「……えっと……うん」

まともな返しもできず、僕は凛音の部屋に入った。


「……ケガは……ないのか?」

「あー……まぁ、ちょっと擦りむいたくらいかな」

そう言って、凛音は裾をめくり、腕や足を見せた。

両腕と両足には、数か所、擦り傷の手当てをした跡が残っていた。

「……っ」

思わず俯き、拳を握りしめた。

何も聞いていない。

それなのに、嫌なことを想像してしまう……。

怒りが込み上げ、とにかく暴れたい衝動に駆られた。

そして、はっと気づく。

『僕がいれば……!』

変なプライドなんて持たずに、ずっと凛音と一緒にいれば……。

凛音が、こんな被害に遭わずに済んだかもしれないのに……。

「……ぅ」

悔しくて、自分が情けなくて……。

涙が溢れた。 


コツン……

凛音が、僕の額に自分の額を軽くぶつけた。

「まーた変なこと考えてるんでしょ?」

僕は、泣いたまま顔を上げた。

そこには、不満そうに頬をぷくっと膨らませた凛音の顔があった。

「あんたが悪いことしたの?」

「違うでしょ?」

「……うん」

まだ涙は止まらなかったけれど、僕は必死に頷いた。

トン……

凛音が僕の胸に頭を預け、俯いた。

「何で、あんたを慰めないといけないのよ」

「逆でしょ」

そう言って、凛音はフフッと笑った。

「でも――」

ポタッ――

太ももに涙が落ちるのが分かった。

「傷ものになっちゃった……」

声が震えている。

凛音の顔は見えない。

「汚れちゃったよぉ……」

ポタッ

タタッ――

涙が落ちる感触。

僕の胸で、凛音は大声で泣いた。

僕も泣いた。

ただ――

必死に凛音を抱きしめた。


しばらくして――

部屋には、凛音が涙をすする音だけが響いていた。

やがて、その音も止んだ。

「……強いて言えば」

「……?」

凛音が何を言おうとしているのか、僕には分からなかった。

「あんたが、なかなか言わないから……」

「……え?」

何か言っておくことがあったのだろうか。

考えても、思いつかない。

「遅すぎるのよ」

凛音は顔を上げ、僕の顔を見た。

「告白がっ」

「……っ!」

ドクンッ――

心臓が脈打つのが分かる。

「なっ……なんで?」

普段、そんなに顔に出ていたのかと思うと、一気に顔が熱くなった。

「山田くんが言ってた」

「ようやく、私に告白する決心がついたって」

「……」

『アイツ……』

山田は、同級生で仲の良い友達の一人だ。

『ここだけの話だけどな――』

僕は思った。

『ここだけの話は……ここだけじゃなかったのか……』

「せめて高校入学してからとかさぁ」

凛音が不満そうに話す。

「そうだったら……」

「なんか……ちょっと」

「進んでたり……ねぇ?」

恥ずかしそうに目を逸らして、凛音は呟いた。

「……ごめん」

僕も目を逸らして答えた。

ビシッ

「いたっ!」

凛音が、僕の額をデコピンで弾いた。

「ちがーう」

凛音は正座して、僕と向き合った。

「過ぎたことは、仕方ないのです」

人差し指を立てて、凛音は僕に言った。

「改めて……どーぞ」

右手を差し出し、ニコッと笑った。

「……あ」

僕も、なぜか正座した。

「それとも……」

凛音は少し目を逸らした。

「もう……ちょっと無理になっちゃったかな」

「凛音っ」

「はいっ」

突然、僕に呼ばれて、凛音は背筋を伸ばした。

「……結婚しよう」

僕は凛音の目を真っすぐ見据えて答えた。

「……」

「……」

二人の間に、しばらく沈黙が流れた――

「……ぷっ」

凛音が、笑いを堪えきれずに吹き出した。

「あ、あんた……それは」

『間違った――』

つい感情が昂って、告白の段階をすっ飛ばしてしまったことに気づく。

「あっはははははっ」

凛音は腹を抱えて笑い、部屋の中を転げ回った。

「そんなに笑わなくても……」

自分の言った言葉を思い返し、顔が熱くなる。

「ごめん、ごめん」

ふぅっと息を整え、凛音は僕を見つめた。

「嬉しいよ」

「私も好き……大好き」

そう言って、凛音は微笑んだ。

 

     *


「……えーっと……」

「何よ?」

なかなか口に出すのは恥ずかしいけど、確認しておこうと思った。

「凛音は……僕の彼女で」

「付き合ってる……でいいのかな?」

「そりゃ、そうでしょ」

きょとんとした顔で、凛音は即答した。

「うん」

そう答えて、僕は心の中で静かにガッツポーズを決めた。

「じゃあ、今日はもう行くね」

「楓おばさんも、おじさんも心配してると思うから」

「うん、また学校でね」

凛音は笑顔で答えた。

立ち上がり、部屋から出ようとした僕の服の袖を、凛音が後ろから引っ張った。

「なに――」

振り向いた僕の唇に、凛音の唇がそっと触れた――

あまりにも突然で、僕は目を見開き、呆然と立ち尽くしてしまった。

「言っとくけど……」

「初めてだからね……」

凛音は目を逸らし、頬を赤らめて言った。

そして、すぐに僕の両肩を掴み、強引にドアの方へ押しやった。

「えっ?」

「はいはいっ、じゃーまたねっ」

バタンッ

そう言って、凛音は半ば強引に僕を部屋から追い出した。

突然の出来事に、まだ頭がうまく回らない。

僕は呆然としたまま、凛音の家を出た。


     *


その日の夜――

自分の部屋のベッドに寝転がり、僕は凛音の部屋でのことを思い返していた。

『嬉しいよ』

『私も好き……大好き』

思い返すたび、少し口元が緩んでしまう。

けれど――

僕は天井を見つめたまま、呟いた。

「今度こそ……」

『僕が、守ってみせる』

改めて、そう決意した。


     *


――凛音と会った二日後の月曜日。

彼女は、自ら命を絶った。



 


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