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プロローグ 三色の鳥居、交わらぬ祈り



夕闇に沈む山道の先で、白と黒、ふたつの光がぶつかり合っていた。


かつて「境ノ杜(さかいのもり)」と呼ばれたその場所には、遠い昔、ひとつの社と、ひとつの寺が寄り添うように建っていたのだという。だが今、そこにあるのは崩れた鳥居の残骸と、蔦に呑まれた本堂の柱だけだ。全国およそ十六万か所――日本中の神社と寺院が、ある日を境に「ダンジョン」へと姿を変えた。三年前のその日を境に、である。原因は、今も分かっていない。人はそれを、由緒を失った土地が悲鳴を上げているのだと言った。


ダンジョン化した聖域に足を踏み入れるには、適性が要る。三年前のダンジョン化と同時に導入された全国一斉の適性検査で、人は「神道適性」か「仏教適性」のどちらかを授かる。当時すでに物心のついていた者たちも例外なく検査を受け、以来、新たに生まれた子もまた、物心つく頃には同じ検査を受けることになっている。神道適性者は祝詞(のりと)と結界を、仏教適性者は真言と法力を武器に、聖域の奥に眠る由緒の残留思念――かつての信仰の記憶を巡って戦う。ただしルールはひとつだけ絶対だった。ふたつの適性を併せ持つことは、あってはならない。それは明治の世に定められた「神仏分離(しんぶつぶんり)」の名残であり、破れば存在そのものが「バグ」として排斥される――そう、誰もが信じていた。


「不浄なる混ざり物よ。この地に、これ以上の穢れを持ち込ませはしない」


白い狩衣(かりぎぬ)に身を包んだ少女――本田宵(ほんだ よい)は、崩れた石段の上から静かに告げた。彼女の周囲には、無数の紙垂(しで)が意思を持つように浮かび、淡い光の粒子をまとっている。「顕れの常宮(あらわれのとこみや)」に仕える巫女であり、混じり気のない神道の力だけを純度百パーセントで行使する者だ。


その視線の先には、黒く煤けた僧衣の男――松田結樹(まつだ ゆいき)が、崩れた須弥壇(しゅみだん)の前にしゃがみ込んでいた。手には、虫食いだらけの巻物が握られている。


「穢れ、か」松田結樹は笑った。「宵ちゃんは、まだそっち側の言葉しか知らないんだね。この巻物に何が書かれているか、知りたくないの? ……ここにあった寺が、なぜ潰されたのか。その本当の由緒を」


「由緒なら、顕れの常宮の記録保管所に、正しい形で残っている。お前のような輩が、勝手に暴き立てる必要はない」宵が言い返した。


「正しい形、ね」結樹は肩をすくめた。「都合の悪い部分を全部削り取った『正しい記録』が、本当に由緒と呼べるのかな。……僕はね、教科書に載らない歴史が好きなんだ。人柱にされた娘の名前も、虐げられて消された村の記録も、誰も覚えていやしない。だったら僕が、覚えていてやろうと思ってさ」


低く通る声が、割って入った。


「知る必要はない」


宵の隣に、もうひとり――白い狩衣ではなく、黒に金糸の入った神職装束をまとう青年が歩み出た。鈴木葵(すずき あおい)。神主でありながら、最高峰の密教の法を操るという、この世界の「正史」そのもののような男だ。


「松田結樹。お前がその巻物から何を読み取ろうと、歴史を歪めて解釈することは許されない。由緒とは、正しく継がれるべきものだ」


葵が右手で印を結ぶと、周囲の空間がわずかに歪んだ。目に見えぬ結界が、松田結樹の黒い靄(もや)を包み込むように圧し掛かる。


「――調伏(ちょうぶく)す」


「相変わらず堅苦しいなあ、葵くん」結樹は笑いながら後ずさった。「明治の役人が、都合よく神と仏を引き剥がしたことのどこが『正しい』んだか。……まあいいや。今日のところは、これで十分」


言うが早いか、結樹は巻物を懐に収め、地面に指先で複雑な紋様を描いた。黒い靄が周囲に立ちのぼる。


「結べ、黒歴史(呪い)を――」


その呟きとともに、地面から無数の黒い手が伸びた。宵が瞬時に祝詞を唱え、白い結界で応じる。


「あなたのような者に、この場所を穢させはしない――清め給え、祓い給え!」


放たれた浄化の光が黒い靄を切り裂き、崩れた石畳がひび割れて土煙を上げる。宵が懐から取り出した祓串(はらえぐし)を投げつけると、それは光の弧を描いて黒い靄の中心を貫いた。結樹はすでに後方へ跳び、術を反転させて逃走の煙幕に変えていた。


「葵くん、追わなくていいの?」


「必要ない」葵は静かに首を振った。「あの巻物に価値などない。……本当に恐れるべきは、巻物の中身ではなく」


言葉を切り、葵は瓦礫の奥、かつて本堂があったであろう場所に目をやった。そこには、朽ち果てた石の台座と、消えかけた文字の跡があった。「神」と「仏」、ふたつの文字が、ひとつの円の中で重なり合っている紋様――。


「ここにはかつて、地元の民が『杜の宮』と呼び、神と仏を共に祀っていた社があったという。今、その名を知る者もほとんどおらぬ」


「――『習合』の残滓、か。バグと呼ばれるあの現象の、な」


宵の表情がわずかに強張った。「まさか、まだ残っているというの? あの忌まわしい力の痕跡が」


「かつて一度だけ、それを成し遂げた者がいたという記録がある。……もっとも、歴史からは徹底的に消されているがな」葵は淡々と言った。「顕れの常宮が、そう決めたことだ」


「……その者は、今どこに?」


「さあな。生きているのか、それさえも分からん。ただ、二度と同じ轍を踏ませるな、というのが常宮の総意だ。……お前も、肝に銘じておけ」


「葵くん、正直に言えば、わたしは分からない。神仏を分けることの、本当の意味を。ただ、教えられた通りに、それを守っているだけ」


「意味などいらぬ。秩序を保つことこそが、我々の由緒よ。……お前が迷う必要はない」


宵は答えず、崩れた鳥居の残骸に目を落とした。彼女の脳裏には、幼い頃に教え込まれた戒めの言葉がよぎっていた――「純血こそが、正義」。


風が吹き抜け、崩れた鳥居の欠片がひとつ、音を立てて崩れ落ちた。鈴木葵、本田宵、松田結樹――三者とも、由緒管理機構への正式な適性登録者だった。由緒力が一定以上発動すると、登録者の端末には自動で「発動配信システム」が起動し、記録と同時に公式の配信網へ中継される。三人とも気づかぬまま、この一部始終は、すでに配信網へと流れ始めていた。


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