食い逃げ妖精、海の底のお茶会に遅れて現れる。
海の底では、一年に一度だけお茶会が開かれる。
真珠の宮殿。
珊瑚の庭。
白い砂を敷き詰めた広間には、長い貝殻の卓が置かれている。
卓の上には、海の菓子が並んでいた。
青い海月のゼリー。
星形の砂糖菓子。
珊瑚苺を挟んだ巻き貝のケーキ。
泡のクリームを載せた真珠色のタルト。
中央には、大きな銀の茶器があった。
中に入っているのは、潮のお茶。
海の東から集めた朝の潮。
西から集めた夕方の潮。
深い海溝で百年眠らせた海藻茶。
全部を合わせた、海の底で一番立派なお茶だった。
ただし、とても苦い。
そのため、茶器の隣には金色の真珠が一粒置かれていた。
月の光を百晩浴びせて作った、月砂糖の真珠である。
お茶会の最後にやってくる客が、それを茶器へ入れることになっていた。
貝殻の卓には、十二の椅子が並んでいる。
その少し離れたところに、十三番目の小さな椅子があった。
椅子の前には、誰も手をつけていない菓子の皿。
その皿の横には、小さな札が立っていた。
『遅れてきたお客さまへ。』
けれど、その椅子へ座る者は、これまで一人もいなかった。
海の者は、潮の時間に正確だった。
魚も。
蟹も。
蛸も。
人魚も。
潮に遅れれば、帰る流れまで変わってしまう。
だから、遅刻する者などいない。
それでも十三番目の椅子は、毎年用意された。
昔から、そう決まっているからだった。
その日の昼。
タルムは海辺を歩いていた。
大きな甲羅の上には、小さな家が載っている。
家の窓から、リリィが海を見ていた。
「タルム」
「なんだい」
「海からお菓子の匂いがするよ」
「海は塩の匂いじゃないかねえ」
「お菓子もあるよ」
風が吹いた。
甘い匂いが流れてくる。
苺。
砂糖。
泡のクリーム。
それから、少しだけ苦いお茶。
リリィは窓から身を乗り出した。
「下だ」
「海の下かい」
「行こう」
「深いよ」
「お菓子も深いよ」
タルムはゆっくり海へ入った。
波が足元を洗う。
海水が甲羅まで上がる。
甲羅の上の小さな家は、透明な空気の膜に包まれた。
タルムが一歩進むたび、海が深くなる。
青い魚が窓のそばを泳いだ。
銀色の群れが屋根を越える。
海藻の森が揺れている。
リリィは窓へ顔をくっつけた。
「まだ?」
「まだだねえ」
タルムはゆっくり歩いた。
「まだ?」
「もう少しだねえ」
大きな海亀が追い越していった。
魚の群れも追い越した。
眠そうな蛸まで追い越した。
「タルム、遅いよ」
「海の底は逃げないよ」
「お菓子は食べられるよ」
そのころ、真珠の宮殿ではお茶会が始まっていた。
海の女王が席につく。
髪は深い青。
頭には白い珊瑚の冠。
その隣には人魚の菓子職人。
向かいには八本の腕を持つ蛸の侯爵夫人。
赤い甲羅の蟹騎士。
海馬の楽師。
真珠を数える貝の大臣。
十二人の客が揃っていた。
銀の茶器から潮のお茶が注がれる。
海の中なので、茶は器から流れ落ちない。
丸い球になって、客の前へ浮かんだ。
客たちは小さな貝殻の匙ですくって飲む。
海の女王が一口飲んだ。
「苦いですね」
蛸の侯爵夫人も飲んだ。
八本の腕が同時に震えた。
「今年も見事な苦さですわ」
蟹騎士は目を閉じた。
「舌が挟まれたようであります」
人魚の菓子職人が、月砂糖の真珠を見る。
「十三番目のお客さまが来れば、甘くなるのですが」
十三番目の椅子には、誰もいない。
海馬の楽師が小さな鐘を鳴らした。
一度。
泡が一つ、天井へ上がる。
二度。
二つの泡が上がる。
三度。
お茶会の終わりを告げる鐘だった。
最後の鐘が鳴るまでに客が来なければ、月砂糖の真珠は来年までしまわれる。
人魚の菓子職人は、十三番目の皿を見た。
巻き貝のケーキ。
海月のゼリー。
真珠のタルト。
どれも手つかずだった。
「今年も来ませんでしたね」
海の女王が言った。
「昔から一度も来たことがありません」
貝の大臣が答えた。
海馬の楽師が、四度目の鐘を鳴らそうとした。
そのとき。
宮殿の外から、大きな影が近づいてきた。
真珠の窓の向こうを、巨大な甲羅が横切る。
甲羅の上には、小さな家。
海の者たちが一斉に振り返った。
タルムが宮殿の前へ着いた。
「ここみたいだねえ」
「遅いよ!」
リリィは家の扉を開けた。
けれど、外は海だった。
水が入ってくる前に、リリィは慌てて扉を閉めた。
「飛べない」
「海だからねえ」
窓の向こうへ、小さな魚が近づいた。
口に透明な泡をくわえている。
魚は泡を窓へ押しつけた。
泡が窓を通り抜け、家の中へ入ってくる。
リリィの頭を包んだ。
「これ、なに?」
魚が窓の外で口を動かした。
声は聞こえない。
リリィは扉を開けた。
今度は水の中へ飛び出した。
頭を包む泡の中には空気がある。
羽は水を吸わなかった。
いつもの半分ほどの速さで、海の中を飛べる。
「行ってくるね!」
「帰りも泡を忘れないようにねえ」
リリィは真珠の宮殿へ向かった。
入口には貝殻の門番がいた。
「お茶会は、もう終わりです」
「お菓子は?」
「終わりです」
「匂いがするよ」
リリィは門番の横を抜けた。
真珠の扉の隙間から宮殿へ入る。
海馬の楽師が、四度目の鐘を鳴らした。
からん。
鐘の音と同時に、リリィが広間へ飛び込んだ。
「お菓子!」
十二人の客が振り返る。
リリィは濡れていない。
頭には透明な泡。
金色の髪が泡の中でふわふわ揺れている。
海の女王が目を丸くした。
「誰ですか?」
「リリィだよ」
「どちらから?」
「上」
リリィは十三番目の椅子を見つけた。
小さな椅子。
菓子の皿。
札には『遅れてきたお客さまへ。』と書いてある。
「わたしのだ」
リリィは椅子へ座った。
人魚の菓子職人が立ち上がる。
「お待ちください。それは本当に遅れてきたお客さまの――」
「遅れてきたよ」
「確かに遅れてはいますが」
リリィは巻き貝のケーキを持ち上げた。
薄い生地が何層にも巻かれている。
間には珊瑚苺の赤いクリーム。
先端には泡の砂糖がついていた。
一口かじる。
さくっ。
生地の中から、小さな甘い泡がいくつも飛び出した。
泡はリリィの周りを回る。
苺の香りが広がった。
「おいしー!」
金色の粉が水の中へ散った。
粉は沈まない。
小さな星のように、ふわふわ漂った。
海の女王が身を乗り出した。
「金色の砂ですか?」
「食べると出るよ」
「普通は出ません」
リリィは海月のゼリーへ手を伸ばした。
透明な青。
皿の上で、ゆらゆら揺れている。
すくって食べる。
冷たい。
ぷるんとしている。
口の中で溶けると、夏の海の味がした。
「おいしー!」
また金色の粉が広がる。
蛸の侯爵夫人が八本の腕で粉を捕まえようとする。
一つもつかめない。
蟹騎士が鋏を鳴らした。
「不思議な妖精であります」
「食い逃げ妖精だよ」
「自分で言うのですか」
人魚の菓子職人は、月砂糖の真珠を持ち上げた。
「それでは、遅れてきたお客さま。こちらを潮のお茶へ入れてください」
金色の真珠が、リリィの前へ差し出される。
リリィは受け取った。
つやつやしている。
甘い匂いがする。
「飴?」
「月砂糖です」
「食べられる?」
「お茶へ入れるものです」
リリィは真珠を口へ入れた。
かりっ。
人魚の菓子職人が固まった。
海の女王も固まった。
蛸の侯爵夫人の八本の腕が、全部止まった。
リリィは真珠を噛んだ。
中から、とろりと金色の蜜が出てくる。
月の光を溶かしたような甘さ。
冷たい夜の味。
遠い波の音。
「おいしー!」
金色の粉が、今までで一番たくさんあふれた。
人魚の菓子職人が叫んだ。
「月砂糖を食べてしまいました!」
リリィは口を動かしながら答えた。
「おいしかったよ」
「お茶を甘くする砂糖です!」
「もうないよ」
「見れば分かります!」
銀の茶器が震えた。
苦い潮のお茶が、中で渦を巻く。
リリィからこぼれた金色の粉が、茶器の注ぎ口から中へ吸い込まれていく。
ごぼ。
大きな音がした。
銀の蓋が持ち上がる。
中から、金色の泡が一つ飛び出した。
拳ほどの大きさ。
泡の中には、琥珀色のお茶が入っている。
続いて、二つ。
三つ。
十。
百。
金色のお茶の泡が、次々と茶器からあふれ出した。
泡は広間を埋めていく。
椅子の下。
卓の上。
客の周り。
海月のゼリーや巻き貝のケーキまで、泡の中へ包まれる。
「茶器を止めてください!」
貝の大臣が叫んだ。
人魚の菓子職人が蓋を押さえる。
泡は止まらない。
蛸の侯爵夫人が八本の腕で泡を捕まえる。
捕まえたそばから、腕ごと持ち上げられた。
「浮きますわ!」
金色の泡が、宮殿の天井へ集まった。
一つの巨大な泡になる。
貝殻の卓。
十二人の客。
十三番目の椅子。
銀の茶器。
残った菓子。
全部が大きな泡へ包まれた。
泡は天井を押した。
真珠の宮殿が揺れる。
「上がります!」
蟹騎士が鋏を振り上げた。
巨大な泡は、宮殿の天井にある丸い窓を抜けた。
海の中を上っていく。
ゆっくり。
けれど、止まらない。
珊瑚の庭が下へ遠ざかる。
魚の群れが驚いて道をあける。
深い青が、少しずつ明るくなる。
海の女王は、泡の縁へ手をついた。
「海面へ向かっています」
リリィは十三番目の椅子に座ったまま、真珠のタルトを食べていた。
「これもおいしいよ」
「今は菓子の感想を聞いている場合ではありません!」
人魚の菓子職人が叫ぶ。
巨大な泡は海面へ近づいた。
頭上に光が揺れる。
そして。
ぽこん。
泡が海の上へ出た。
夜だった。
空いっぱいに星が広がっている。
丸い月が、海の向こうへ浮かんでいた。
海の者たちは声を失った。
海の底から見る月は、いつも水に揺れている。
輪郭はぼやけ、光は細かく砕けて届く。
水の外にある月を、そのまま見た者はいなかった。
海の女王が見上げる。
「これが、空の月」
蛸の侯爵夫人が八本の腕を広げる。
蟹騎士は鋏を下ろした。
海馬の楽師は、静かに鐘を鳴らした。
からん。
金色のお茶の泡が、星空の下へ広がった。
小さな月のように、海の上を漂う。
客たちは泡を一つずつ取った。
中の潮のお茶を飲む。
海の女王が目を見開いた。
「甘い」
蛸の侯爵夫人も飲んだ。
八本の腕が嬉しそうに揺れた。
「苦くありませんわ」
蟹騎士が飲む。
「舌が挟まれません!」
リリィも泡を捕まえた。
口をつける。
塩気のあるお茶。
海藻の香り。
最後に月砂糖の甘さ。
「おいしー!」
金色の粉が夜空へ舞った。
星と混ざり、どれが粉でどれが星か分からなくなる。
海の女王は笑った。
「遅れてきたお客さまのおかげですね」
人魚の菓子職人は、空になった十三番目の皿を見た。
巻き貝のケーキ。
海月のゼリー。
真珠のタルト。
何も残っていない。
「お茶は甘くなりましたが」
人魚の菓子職人がリリィへ近づく。
「十三番目の菓子を、全部食べましたね」
「わたしのだったよ」
「遅れてきたお客さまのための菓子です」
「遅れてきたよ」
「それは認めます」
人魚の菓子職人は手を差し出した。
「では、代金をお願いします」
「ないよ!」
リリィは椅子から飛び上がった。
頭の泡は、海面へ出たときに消えている。
羽を広げ、夜空へ飛ぶ。
人魚の菓子職人が手を伸ばした。
「お待ちなさい!」
リリィは金色のお茶の泡を一つ抱えたまま逃げた。
海の上には、タルムの大きな甲羅が浮かんでいる。
小さな家の窓には灯りがついていた。
リリィは家の扉を開け、中へ飛び込んだ。
「おかえり」
タルムが言った。
「お茶会だったよ」
「間に合ったかい」
「最後だったよ」
「ずいぶん遅れたねえ」
リリィは抱えてきた泡を、タルムの前へ置いた。
「お茶、残ってたよ」
タルムは泡の中のお茶を飲んだ。
「甘いねえ」
「砂糖、わたしが食べたよ」
「それで甘いのかい」
「甘かったよ」
それから海の底のお茶会では、十三番目の椅子を必ず用意するようになった。
遅れてくる客が、いつ海の上から現れてもいいように。
椅子の前には、菓子を一皿。
月砂糖の真珠は、茶器の蓋へ鎖でつながれた。
けれど、年に一度。
お茶会が終わるころになると、十三番目の皿だけは空になっている。
代金が置かれていたことは、一度もなかった。
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