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食い逃げ妖精、指名手配中

食い逃げ妖精、海の底のお茶会に遅れて現れる。

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/25


海の底では、一年に一度だけお茶会が開かれる。


真珠の宮殿。


珊瑚の庭。


白い砂を敷き詰めた広間には、長い貝殻の卓が置かれている。


卓の上には、海の菓子が並んでいた。


青い海月のゼリー。


星形の砂糖菓子。


珊瑚苺を挟んだ巻き貝のケーキ。


泡のクリームを載せた真珠色のタルト。


中央には、大きな銀の茶器があった。


中に入っているのは、潮のお茶。


海の東から集めた朝の潮。


西から集めた夕方の潮。


深い海溝で百年眠らせた海藻茶。


全部を合わせた、海の底で一番立派なお茶だった。


ただし、とても苦い。


そのため、茶器の隣には金色の真珠が一粒置かれていた。


月の光を百晩浴びせて作った、月砂糖の真珠である。


お茶会の最後にやってくる客が、それを茶器へ入れることになっていた。


貝殻の卓には、十二の椅子が並んでいる。


その少し離れたところに、十三番目の小さな椅子があった。


椅子の前には、誰も手をつけていない菓子の皿。


その皿の横には、小さな札が立っていた。


『遅れてきたお客さまへ。』


けれど、その椅子へ座る者は、これまで一人もいなかった。


海の者は、潮の時間に正確だった。


魚も。


蟹も。


蛸も。


人魚も。


潮に遅れれば、帰る流れまで変わってしまう。


だから、遅刻する者などいない。


それでも十三番目の椅子は、毎年用意された。


昔から、そう決まっているからだった。


その日の昼。


タルムは海辺を歩いていた。


大きな甲羅の上には、小さな家が載っている。


家の窓から、リリィが海を見ていた。


「タルム」


「なんだい」


「海からお菓子の匂いがするよ」


「海は塩の匂いじゃないかねえ」


「お菓子もあるよ」


風が吹いた。


甘い匂いが流れてくる。


苺。


砂糖。


泡のクリーム。


それから、少しだけ苦いお茶。


リリィは窓から身を乗り出した。


「下だ」


「海の下かい」


「行こう」


「深いよ」


「お菓子も深いよ」


タルムはゆっくり海へ入った。


波が足元を洗う。


海水が甲羅まで上がる。


甲羅の上の小さな家は、透明な空気の膜に包まれた。


タルムが一歩進むたび、海が深くなる。


青い魚が窓のそばを泳いだ。


銀色の群れが屋根を越える。


海藻の森が揺れている。


リリィは窓へ顔をくっつけた。


「まだ?」


「まだだねえ」


タルムはゆっくり歩いた。


「まだ?」


「もう少しだねえ」


大きな海亀が追い越していった。


魚の群れも追い越した。


眠そうな蛸まで追い越した。


「タルム、遅いよ」


「海の底は逃げないよ」


「お菓子は食べられるよ」


そのころ、真珠の宮殿ではお茶会が始まっていた。


海の女王が席につく。


髪は深い青。


頭には白い珊瑚の冠。


その隣には人魚の菓子職人。


向かいには八本の腕を持つ蛸の侯爵夫人。


赤い甲羅の蟹騎士。


海馬の楽師。


真珠を数える貝の大臣。


十二人の客が揃っていた。


銀の茶器から潮のお茶が注がれる。


海の中なので、茶は器から流れ落ちない。


丸い球になって、客の前へ浮かんだ。


客たちは小さな貝殻の匙ですくって飲む。


海の女王が一口飲んだ。


「苦いですね」


蛸の侯爵夫人も飲んだ。


八本の腕が同時に震えた。


「今年も見事な苦さですわ」


蟹騎士は目を閉じた。


「舌が挟まれたようであります」


人魚の菓子職人が、月砂糖の真珠を見る。


「十三番目のお客さまが来れば、甘くなるのですが」


十三番目の椅子には、誰もいない。


海馬の楽師が小さな鐘を鳴らした。


一度。


泡が一つ、天井へ上がる。


二度。


二つの泡が上がる。


三度。


お茶会の終わりを告げる鐘だった。


最後の鐘が鳴るまでに客が来なければ、月砂糖の真珠は来年までしまわれる。


人魚の菓子職人は、十三番目の皿を見た。


巻き貝のケーキ。


海月のゼリー。


真珠のタルト。


どれも手つかずだった。


「今年も来ませんでしたね」


海の女王が言った。


「昔から一度も来たことがありません」


貝の大臣が答えた。


海馬の楽師が、四度目の鐘を鳴らそうとした。


そのとき。


宮殿の外から、大きな影が近づいてきた。


真珠の窓の向こうを、巨大な甲羅が横切る。


甲羅の上には、小さな家。


海の者たちが一斉に振り返った。


タルムが宮殿の前へ着いた。


「ここみたいだねえ」


「遅いよ!」


リリィは家の扉を開けた。


けれど、外は海だった。


水が入ってくる前に、リリィは慌てて扉を閉めた。


「飛べない」


「海だからねえ」


窓の向こうへ、小さな魚が近づいた。


口に透明な泡をくわえている。


魚は泡を窓へ押しつけた。


泡が窓を通り抜け、家の中へ入ってくる。


リリィの頭を包んだ。


「これ、なに?」


魚が窓の外で口を動かした。


声は聞こえない。


リリィは扉を開けた。


今度は水の中へ飛び出した。


頭を包む泡の中には空気がある。


羽は水を吸わなかった。


いつもの半分ほどの速さで、海の中を飛べる。


「行ってくるね!」


「帰りも泡を忘れないようにねえ」


リリィは真珠の宮殿へ向かった。


入口には貝殻の門番がいた。


「お茶会は、もう終わりです」


「お菓子は?」


「終わりです」


「匂いがするよ」


リリィは門番の横を抜けた。


真珠の扉の隙間から宮殿へ入る。


海馬の楽師が、四度目の鐘を鳴らした。


からん。


鐘の音と同時に、リリィが広間へ飛び込んだ。


「お菓子!」


十二人の客が振り返る。


リリィは濡れていない。


頭には透明な泡。


金色の髪が泡の中でふわふわ揺れている。


海の女王が目を丸くした。


「誰ですか?」


「リリィだよ」


「どちらから?」


「上」


リリィは十三番目の椅子を見つけた。


小さな椅子。


菓子の皿。


札には『遅れてきたお客さまへ。』と書いてある。


「わたしのだ」


リリィは椅子へ座った。


人魚の菓子職人が立ち上がる。


「お待ちください。それは本当に遅れてきたお客さまの――」


「遅れてきたよ」


「確かに遅れてはいますが」


リリィは巻き貝のケーキを持ち上げた。


薄い生地が何層にも巻かれている。


間には珊瑚苺の赤いクリーム。


先端には泡の砂糖がついていた。


一口かじる。


さくっ。


生地の中から、小さな甘い泡がいくつも飛び出した。


泡はリリィの周りを回る。


苺の香りが広がった。


「おいしー!」


金色の粉が水の中へ散った。


粉は沈まない。


小さな星のように、ふわふわ漂った。


海の女王が身を乗り出した。


「金色の砂ですか?」


「食べると出るよ」


「普通は出ません」


リリィは海月のゼリーへ手を伸ばした。


透明な青。


皿の上で、ゆらゆら揺れている。


すくって食べる。


冷たい。


ぷるんとしている。


口の中で溶けると、夏の海の味がした。


「おいしー!」


また金色の粉が広がる。


蛸の侯爵夫人が八本の腕で粉を捕まえようとする。


一つもつかめない。


蟹騎士が鋏を鳴らした。


「不思議な妖精であります」


「食い逃げ妖精だよ」


「自分で言うのですか」


人魚の菓子職人は、月砂糖の真珠を持ち上げた。


「それでは、遅れてきたお客さま。こちらを潮のお茶へ入れてください」


金色の真珠が、リリィの前へ差し出される。


リリィは受け取った。


つやつやしている。


甘い匂いがする。


「飴?」


「月砂糖です」


「食べられる?」


「お茶へ入れるものです」


リリィは真珠を口へ入れた。


かりっ。


人魚の菓子職人が固まった。


海の女王も固まった。


蛸の侯爵夫人の八本の腕が、全部止まった。


リリィは真珠を噛んだ。


中から、とろりと金色の蜜が出てくる。


月の光を溶かしたような甘さ。


冷たい夜の味。


遠い波の音。


「おいしー!」


金色の粉が、今までで一番たくさんあふれた。


人魚の菓子職人が叫んだ。


「月砂糖を食べてしまいました!」


リリィは口を動かしながら答えた。


「おいしかったよ」


「お茶を甘くする砂糖です!」


「もうないよ」


「見れば分かります!」


銀の茶器が震えた。


苦い潮のお茶が、中で渦を巻く。


リリィからこぼれた金色の粉が、茶器の注ぎ口から中へ吸い込まれていく。


ごぼ。


大きな音がした。


銀の蓋が持ち上がる。


中から、金色の泡が一つ飛び出した。


拳ほどの大きさ。


泡の中には、琥珀色のお茶が入っている。


続いて、二つ。


三つ。


十。


百。


金色のお茶の泡が、次々と茶器からあふれ出した。


泡は広間を埋めていく。


椅子の下。


卓の上。


客の周り。


海月のゼリーや巻き貝のケーキまで、泡の中へ包まれる。


「茶器を止めてください!」


貝の大臣が叫んだ。


人魚の菓子職人が蓋を押さえる。


泡は止まらない。


蛸の侯爵夫人が八本の腕で泡を捕まえる。


捕まえたそばから、腕ごと持ち上げられた。


「浮きますわ!」


金色の泡が、宮殿の天井へ集まった。


一つの巨大な泡になる。


貝殻の卓。


十二人の客。


十三番目の椅子。


銀の茶器。


残った菓子。


全部が大きな泡へ包まれた。


泡は天井を押した。


真珠の宮殿が揺れる。


「上がります!」


蟹騎士が鋏を振り上げた。


巨大な泡は、宮殿の天井にある丸い窓を抜けた。


海の中を上っていく。


ゆっくり。


けれど、止まらない。


珊瑚の庭が下へ遠ざかる。


魚の群れが驚いて道をあける。


深い青が、少しずつ明るくなる。


海の女王は、泡の縁へ手をついた。


「海面へ向かっています」


リリィは十三番目の椅子に座ったまま、真珠のタルトを食べていた。


「これもおいしいよ」


「今は菓子の感想を聞いている場合ではありません!」


人魚の菓子職人が叫ぶ。


巨大な泡は海面へ近づいた。


頭上に光が揺れる。


そして。


ぽこん。


泡が海の上へ出た。


夜だった。


空いっぱいに星が広がっている。


丸い月が、海の向こうへ浮かんでいた。


海の者たちは声を失った。


海の底から見る月は、いつも水に揺れている。


輪郭はぼやけ、光は細かく砕けて届く。


水の外にある月を、そのまま見た者はいなかった。


海の女王が見上げる。


「これが、空の月」


蛸の侯爵夫人が八本の腕を広げる。


蟹騎士は鋏を下ろした。


海馬の楽師は、静かに鐘を鳴らした。


からん。


金色のお茶の泡が、星空の下へ広がった。


小さな月のように、海の上を漂う。


客たちは泡を一つずつ取った。


中の潮のお茶を飲む。


海の女王が目を見開いた。


「甘い」


蛸の侯爵夫人も飲んだ。


八本の腕が嬉しそうに揺れた。


「苦くありませんわ」


蟹騎士が飲む。


「舌が挟まれません!」


リリィも泡を捕まえた。


口をつける。


塩気のあるお茶。


海藻の香り。


最後に月砂糖の甘さ。


「おいしー!」


金色の粉が夜空へ舞った。


星と混ざり、どれが粉でどれが星か分からなくなる。


海の女王は笑った。


「遅れてきたお客さまのおかげですね」


人魚の菓子職人は、空になった十三番目の皿を見た。


巻き貝のケーキ。


海月のゼリー。


真珠のタルト。


何も残っていない。


「お茶は甘くなりましたが」


人魚の菓子職人がリリィへ近づく。


「十三番目の菓子を、全部食べましたね」


「わたしのだったよ」


「遅れてきたお客さまのための菓子です」


「遅れてきたよ」


「それは認めます」


人魚の菓子職人は手を差し出した。


「では、代金をお願いします」


「ないよ!」


リリィは椅子から飛び上がった。


頭の泡は、海面へ出たときに消えている。


羽を広げ、夜空へ飛ぶ。


人魚の菓子職人が手を伸ばした。


「お待ちなさい!」


リリィは金色のお茶の泡を一つ抱えたまま逃げた。


海の上には、タルムの大きな甲羅が浮かんでいる。


小さな家の窓には灯りがついていた。


リリィは家の扉を開け、中へ飛び込んだ。


「おかえり」


タルムが言った。


「お茶会だったよ」


「間に合ったかい」


「最後だったよ」


「ずいぶん遅れたねえ」


リリィは抱えてきた泡を、タルムの前へ置いた。


「お茶、残ってたよ」


タルムは泡の中のお茶を飲んだ。


「甘いねえ」


「砂糖、わたしが食べたよ」


「それで甘いのかい」


「甘かったよ」


それから海の底のお茶会では、十三番目の椅子を必ず用意するようになった。


遅れてくる客が、いつ海の上から現れてもいいように。


椅子の前には、菓子を一皿。


月砂糖の真珠は、茶器の蓋へ鎖でつながれた。


けれど、年に一度。


お茶会が終わるころになると、十三番目の皿だけは空になっている。


代金が置かれていたことは、一度もなかった。

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