悪役令嬢ではありません。ただ、帳の端に名前がないだけです 【十五文化圏周縁抄 帳の端の悪役令嬢】
「エルナ。あなたは、この家の者ではありません」
父の葬儀から十日目。
広間に親族が並ぶ前で、レヴィアナ様はそう言った。
父の正妻の娘。
正しい父名を持つ人。
正しい家名を持つ人。
正しい婚約証を持ち、神殿の祝福も受け、相続証の中央に名を書かれる人。
その人が、わたしを見下ろしている。
だから、わたしは泣くべきだったのだと思う。
あるいは怒るべきだったのかもしれない。
でも、わたしが最初に考えたのは、南納屋の鍵のことだった。
南納屋の三番棚。
あそこに積んだ麦袋は、雨の後に湿りやすい。
東倉の干し肉は、帳では四十七束と書かれているけれど、六束は燻し直しに回している。
塩樽は六つ。
ただし、ひとつは底が湿っている。
薪は足りない。
冬前の客間を三つ閉めなければ、年明けには銀貨が切れる。
羊飼いへの支払いは、絶対に遅らせてはいけない。
十日遅れると、毛ではなく糞を置いて帰る。
そんなことばかりが、頭に浮かんだ。
「聞いているの、エルナ」
「はい」
わたしは頭を下げた。
「聞いています」
広間の奥で、誰かが小さく笑った。
「ずいぶん素直だな。悪役令嬢にしては」
悪役令嬢。
近頃、館の中でそう呼ばれていたことは知っている。
父の庶子が、正妻の娘を差し置いて館の帳を握っている。
納屋の鍵を離さない。
使用人に指図する。
台所の支払いを止めたり通したりする。
父の死後に家を奪うつもりなのだ。
そんな噂だった。
物語にすれば、わたしは悪役にちょうどいいのだろう。
正しい令嬢の前に立ちはだかる、父名の薄い女。
白い手袋ではなく、鍵束を持つ女。
舞踏会ではなく、納屋の棚を数える女。
けれど、わたしは悪役令嬢ではない。
そもそも令嬢ですらない。
ただ、帳の端に名前がないだけの女である。
*
「三日以内に部屋を空けてちょうだい」
レヴィアナ様は、きれいな声で言った。
「これからは、わたくしがこの館を預かります。あなたには、これまで手伝ってもらったことを感謝しています」
感謝。
そういう言葉は、広間で言うととても立派に聞こえる。
けれど、わたしは知っている。
立派な言葉は、時々、帳から名を消す時にも使われる。
「承知しました」
わたしは言った。
叔父が満足そうに頷いた。
叔母が扇を閉じた。
神殿の助祭は、目を伏せたままだった。
帳簿役のロアンだけが、顔色を悪くしていた。
ロアンは王都の商会で学んだ青年で、数字は早い。
ただし、この館の廊下では迷う。
数字は読める。
でも、どの棚が雨を嫌うかは知らない。
どの女頭を追い詰めると台所が止まるかも知らない。
どの羊飼いが怒ると本当に糞を置いて帰るかも知らない。
わたしは、ロアンと目が合った。
彼は何か言いたそうにした。
けれど、言わなかった。
言えるわけがない。
広間では、正しい名を持つ者の声が強い。
帳の端にいた女の声は、端から消される。
*
父は、わたしを娘として愛した人ではなかった。
けれど、使える者としては見ていた。
それが幸せだったのか不幸だったのか、今でも分からない。
母が死んだ後、父はわたしを館へ入れた。
表の娘としてではない。
使用人としてでもない。
血が近すぎる。
でも、名は弱すぎる。
だから、わたしは館の中で、どちらでもない場所に置かれた。
食卓に呼ばれる日もあった。
客が来れば下がった。
読み書きは習った。
正式な教育記録には残らなかった。
服は与えられた。
レヴィアナ様のお古を直したものだった。
十五歳の頃、父はわたしに帳を読ませ始めた。
「麦袋の数を言え」
「三十二です」
「違う」
「帳では三十二です」
「帳を読むな。袋を読め」
父はそう言った。
わたしは倉へ行った。
麦袋は三十二。
でも、ひとつは底が湿っていた。
もうひとつは、口紐が結び直されていた。
ひとつは、袋だけ大きくて中身が軽かった。
戻ってそれを言うと、父は笑わなかった。
褒めもしなかった。
「次から、帳に戻す前に見ろ」
それだけだった。
それから、わたしは覚えた。
南納屋の三番棚は湿る。
東倉の窓は春に鼠が入る。
北の葡萄畑は、去年から収量が落ちている。
料理長は肉を多めに申告するが、盗んでいるわけではない。
急な客に備えているだけだ。
台所の女頭は強い口を利く。
けれど、火を消し忘れたことは一度もない。
羊飼いの三男は怠ける。
でも、狼の足跡だけは見誤らない。
帳は、数字だけでは読めない。
誰が多めに言うのか。
誰が少なめに言うのか。
誰が嘘をつくのか。
誰が誰をかばって黙るのか。
それを知らなければ、家は回らない。
父は、わたしにそれを覚えさせた。
でも、わたしの名を帳の中央へは置かなかった。
いつも端だった。
細く。
薄く。
あとから消せる場所に。
*
三日目の朝、わたしは部屋を空けた。
部屋といっても、南棟の端にある小さな部屋だ。
冬は寒い。
夏は湿る。
けれど、納屋へ近かった。
雨の音で起き、麦袋を見に行ける。
煙の匂いで起き、台所の火を確かめられる。
わたしには便利な部屋だった。
荷物は少ない。
母の古い櫛。
服が数枚。
父が使わなくなった計算板。
帳の控え。
いや、帳の控えは置いていくべきだ。
この家のものだから。
机の上に鍵束を置いた。
南納屋。
東倉。
北葡萄倉。
古井戸小屋。
薬草棚。
使用人用の銀貨箱。
最後に、父の寝室横にある黒い箱の鍵。
その鍵だけは、少し迷った。
黒い箱には、父が表へ出さなかった紙が入っている。
古い借用書。
村との取り決め。
母に関する紙。
そして、わたしの名が一度だけ少し大きく書かれた紙。
でも、それも置いた。
持ち出せば、本当に悪役になる。
部屋を出ると、廊下にロアンがいた。
「エルナ様」
「様は要りません」
「では、エルナさん」
「それも変です」
「では……エルナ」
「はい」
ロアンは困った顔をした。
「鍵を置かれるのですか」
「この家のものですから」
「帳の控えも」
「この家のものです」
「あなたがいなければ、読み方が分かりません」
「数字は読めるでしょう」
「数字だけなら」
わたしは少し笑った。
ロアンは、自分が知らないことを知っている。
それは、かなり大事なことだ。
「南納屋の三番棚は湿ります。麦は下段に置かないでください」
「はい」
「東倉の干し肉は、帳より少なく見えます。でも、六束は燻し直しです。盗みではありません」
「はい」
「台所の女頭を追い詰めないでください。肉を多めに見る癖がありますが、客が増えた時に助かります」
「はい」
「羊飼いへの支払いは遅らせないでください」
「なぜですか」
「糞を置いて帰ります」
「それは困ります」
「困ります」
ロアンは必死に小さな帳へ書いていた。
でも、途中で手を止めた。
「これは、正式な帳へどう書けばよいのでしょう」
「書けません」
「書けない?」
「ええ。人の癖ですから」
「でも、必要です」
「そうです」
ロアンは黙った。
わたしは言った。
「帳に載るものだけで家が回るなら、わたしはいりませんでした」
彼は何も言わなかった。
言えば、広間の決定を疑うことになる。
そして、広間の決定は、もう帳へ落ちている。
エルナ。
退去。
私物持出し許可。
家務権限なし。
そう書かれれば、わたしはこの家の者ではなくなる。
でも、南納屋の湿りは、書いた瞬間に乾くわけではない。
*
館を出たわたしは、王都へは行かなかった。
神殿へも行かなかった。
叔母の家にも行かなかった。
南の村へ行った。
父の領地の端にある、小さな村である。
そこには古い粉挽き場があった。
帳の上では赤字。
水車は軋む。
橋板は沈む。
粉挽き小屋の屋根は片側だけ低い。
でも、捨てれば村が困る。
村が困れば、館の麦も困る。
館の麦が困れば、レヴィアナ様の家も困る。
だから父は捨てなかった。
村長は、わたしを見ると目を丸くした。
「お嬢様」
「お嬢様ではありません」
「では、何と」
「エルナで」
「それは困ります」
「では、帳の端の者で」
村長はさらに困った。
結局、彼はわたしを「エルナ様」と呼んだ。
わたしは訂正しなかった。
人は、呼びやすい名で呼ぶ。
帳とは違う。
南の村での暮らしは、館より忙しかった。
粉挽き場の修繕。
橋板の取り替え。
麦の保管。
共同焼き窯の順番。
羊飼いとの支払い。
村長の孫の婚約。
冬前の干し草。
井戸の水位。
子どもの数。
村の帳は粗い。
父名が抜けている者もいる。
家名が途中で変わった者もいる。
神殿の記録と村の記録が合わない子もいる。
それでも、館の帳より、人の顔が近かった。
誰が病むと、どの畑が止まるか。
誰が怒ると、どの家がパンを焼かなくなるか。
誰が泣くと、どの子が黙るか。
そういうことが、すぐ分かる。
わたしは、そこで帳を作った。
ただし、自分の名を中央には書かなかった。
粉挽き場の板。
共同窯の順番札。
橋板の修繕控え。
羊毛の受取札。
必要な場所に、必要なだけ書いた。
エルナ。
それだけで足りた。
*
館から最初の使いが来たのは、秋の終わりだった。
来たのはロアンだった。
馬から降りるなり、彼は深く頭を下げた。
「助けてください」
「何をですか」
「館が回りません」
でしょうね、とは言わなかった。
言えば、悪役らしくなる。
わたしは粉のついた手を前掛けで拭いた。
「何が起きました」
「南納屋の麦が湿りました」
「三番棚ですか」
「はい」
「下段に置きましたね」
「置きました」
「東倉の干し肉は」
「数が合わず、料理長を疑いました」
「怒ったでしょう」
「辞めると言っています」
「台所の女頭は」
「肉を減らせと言ったら、客が来た時に恥をかくのは私ではないと」
「正しいです」
「羊飼いは」
「支払いを十日遅らせました」
「糞を置いて帰りましたか」
「はい」
ロアンは、本当に泣きそうな顔をしていた。
少し気の毒だった。
数字が読めるだけでは、家は回らない。
でも、それを知らずに任された者もまた、被害者である。
「レヴィアナ様は」
「冬支度の費用が多すぎるとお怒りです」
「帳の上では、多く見えるでしょうね」
「去年より多いです」
「去年は父が自分の財布から足しました。今年はそれがありません」
「帳にありません」
「書かなかったので」
「なぜですか」
「家の見栄です」
ロアンは天を仰いだ。
第1文化圏は、帳で人を見る。
だが、帳に書かない見栄もある。
その見栄で家が立つこともある。
そして、その見栄で家が傾くこともある。
「戻っていただけませんか」
ロアンが言った。
「館へ」
「それは、レヴィアナ様のお言葉ですか」
「いえ」
「では、あなたの言葉ですね」
「はい」
「戻りません」
ロアンは顔を上げた。
わたしは粉挽き場を見た。
水車はまだ軋んでいる。
でも、前より音は軽い。
村の男たちは橋板を替えている。
女たちは共同窯の順番を決めている。
子どもたちは落ち穂を拾っている。
ここにも、帳に載らない仕事がある。
わたしはそれを途中で投げ出せない。
「ただし、紙は書きます」
「紙」
「南納屋の置き方。東倉の扱い。台所の余裕分。羊飼いへの支払い順。冬の客間を減らす言い訳。館の見栄を傷つけずに出費を減らす方法」
「それをいただけるのですか」
「売ります」
ロアンが瞬きをした。
「売る」
「はい。粉挽き場の橋の修繕費として」
彼はしばらく黙った。
そして、少し笑った。
「あなたは、悪役令嬢ではありませんね」
「違います」
「では、何ですか」
わたしは考えた。
娘。
庶子。
帳の端の者。
館を追われた女。
粉挽き場の帳を見る者。
どれも正しく、どれも足りない。
「今は、橋の修繕費を必要としている者です」
ロアンは深く頷いた。
「それは、帳に書けます」
「では、書いてください」
*
冬の前に、館から正式な書状が来た。
レヴィアナ様の署名があった。
文面は丁寧だった。
謝罪ではない。
呼び戻しでもない。
もちろん、娘として認めるものでもない。
ただ、南の粉挽き場と橋板修繕について、わたしに管理を任せるという内容だった。
報酬は少ない。
地位も高くない。
相続証にも入らない。
でも、初めてわたしの名が、帳の端ではなく、仕事の欄に書かれていた。
エルナ。
南粉挽き場および橋板修繕管理。
それを見て、わたしは少しだけ笑った。
父名は薄い。
家名はない。
婚約証もない。
神殿の祝福もない。
でも、仕事がある。
名を呼ぶ人がいる。
明日見るべき帳がある。
今は、それで十分だった。
*
春になり、館で小さな宴があった。
わたしは呼ばれなかった。
当然だ。
もう館の者ではない。
ただ、粉挽き場から粉を納める者として、台所口までは行った。
そこで、かつて広間で笑った従兄と顔を合わせた。
彼は気まずそうに笑った。
「元気そうだな、悪役令嬢」
「まだその呼び方ですか」
「他に何と呼べばいい」
「粉挽き場のエルナで」
「地味だな」
「はい」
わたしは頷いた。
地味でよい。
悪役令嬢より、ずっと暮らしやすい。
従兄は台所の奥を見た。
「館は、少し落ち着いたらしい」
「よかったです」
「悔しくないのか」
「何がですか」
「お前を追い出した家が、お前の書いた紙で助かっている」
わたしは少し考えた。
悔しい。
たぶん、悔しいのだと思う。
父が生きているうちに、もっとはっきり認めてほしかった。
広間で笑われた時、誰かに庇ってほしかった。
レヴィアナ様に、あなたがいて助かったと言われたかった。
そういう気持ちが、全くないと言えば嘘になる。
でも、館が潰れれば、村も困る。
村が困れば、粉挽き場も困る。
粉挽き場が困れば、わたしの明日も困る。
だから助けた。
復讐より、冬越しの方が急ぎだった。
「悔しさは、橋板の修繕費にはなりません」
わたしは言った。
従兄は、ぽかんとした後、吹き出した。
「お前、本当に令嬢に向いていないな」
「はい」
わたしも笑った。
「悪役にも向いていません」
*
その後も、わたしの名が父の家の中央に戻ることはなかった。
相続証にも入らなかった。
家名を継ぐこともなかった。
貴族の広間で、正式な娘として紹介されることもなかった。
それでよかった。
少なくとも、わたしはそう思うことにした。
わたしの名は、別の場所に増えていった。
粉挽き場の修繕控え。
橋板の取り替え札。
羊毛の受け取り帳。
共同窯の順番板。
冬支度の小さな紙。
どれも立派なものではない。
王都へ出るものでもない。
神殿で読み上げられるものでもない。
けれど、そこにはわたしの名があった。
エルナ。
それだけで足りる場所が、少しずつ増えた。
悪役令嬢ではありません。
令嬢ですらありません。
ただ、帳の端に名前がないだけです。
いいえ。
正確には、こうです。
大きな帳の端には、もう名前がない。
けれど、小さな帳のあちこちに、わたしの名前は残っている。
父名でもなく。
家名でもなく。
婚約証でもなく。
相続証でもなく。
今日、誰が何を見て、何を支えたか。
その欄に。
だから、わたしは今日も帳を開く。
麦袋を数える。
橋板を叩く。
羊飼いの機嫌を見る。
共同窯の順を直す。
粉を量る。
そして、名前を書く。
エルナ。
帳の端ではない。
仕事のそばに。
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本作は『第十六個体観測録』関連短編です。
本編:『第十六個体観測録』
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