第29話 校長室
翌日の午後。
私たちは校長室の前に立っていた。
高い天井、深紅の絨毯、両開きの重厚な扉。重苦しい威圧感に、足が自然とすくんだ。
「……緊張してる?」
隣のレオンが覗き込んでくる。
「も、もちろんしてるわよ」
「大丈夫だって! 姉さんには僕がついてるから!」
親指をぐっと立てる弟。場違いに明るすぎて、思わず苦笑が漏れそうになる。
アドリアンが腕を組み、冷ややかに言った。
「君がついてると余計に不安なんだが」
「おい! なんでだよ!」
「昨日の机の下での騒動をもう忘れたのか?」
「……ぐぬぬ」
レオンは頬を膨らませてそっぽを向く。その様子に少しだけ緊張がほぐれた。
扉が開かれる。私たちは中へ案内された。
校長室は、まるで王侯貴族のサロンのようだった。
高い窓から初夏の陽光が差し込み、分厚いカーテンが金糸で模様を描く。壁一面の本棚には豪奢な背表紙が並び、机の上には書類が几帳面に積み上げられていた。
その机の奥に座るのは、エストレア公爵――ドロテアの父であり、この学園の校長だ。銀髪に立派な口髭を蓄え、鋭い灰色の瞳がこちらを射抜く。
そして、机の脇にはサモン教師が立っていた。腕を組み、苦々しげに眉をひそめている。
「さて……呼び出された理由は何か。説明してもらおうか」
公爵の低い声が響いた。
私は喉を鳴らし、懐から光る音晶石を取り出した。
「これを……聞いてください」
淡い光が広がり、昨日の録音が流れる。
『問題は張り出しました。侯爵令嬢への疑いは――ほぼ定着したでしょう』
その声が響いた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
サモンの顔がみるみる蒼白になる。
「こっ、これは……!」
「間違いなく、あなたの声ですね?」
アドリアンが冷静に問い詰める。
サモンは視線を泳がせ、口を開きかけ――そして、観念したようにうなだれた。
「……そうだ。私が、問題を張り出した」
「やっぱり!」
レオンが勢いよく前に飛び出す。
「マルセリーヌは無実だ! 全部あんたのせいだ!」
「おい、静かに」アドリアンが低く制したが、レオンは止まらない。
「いいや、これは正義の鉄槌だ! ――って言った方がかっこいいよね、姉さん?」
「場を盛り上げなくていいから……!」
私は額を押さえながらも、胸の奥では小さく安堵していた。
(これで……マルセリーヌは救われる)
公爵は眉間に皺を寄せ、サモン教師を睨み据える。
「学園を騒がせ、多くの生徒を惑わせた罪は重い。サモン――お前には学園を去ってもらう」
「……っ」
サモンは膝を折り、深々と頭を垂れた。
レオンは「よっしゃあ!」と拳を握り、アドリアンは「当然だ」と短く呟いた。
しかし――。
「だが」
校長の声がさらに低く、鋭さを増す。
「これ以上、この件に深入りするな。忘れろ」
その言葉に、私たちは息を呑んだ。
――黒幕を探すな、ということ?
(……やっぱり。黒幕がいるのね)
レオンは小声で「怪しすぎる……」とぼやき、アドリアンは唇を引き結んで黙り込む。
公爵の圧に押され、私たちは深く礼をして校長室を後にした。
廊下に出ると、レオンが大きく息を吐いた。
「ふぅ〜……終わった終わった! いやぁ、これで一件落着だな! ……だよね?」
私は小さく首を振った。
「……マルセリーヌの疑いが晴れたのは良かった。でも……」
「でも?」
窓の外を見る。初夏の陽光はすでに雲に隠され、校庭は薄暗く沈んでいた。
「黒幕の影は……まだ消えてない」
その言葉に、二人も沈黙した。
重苦しい空気の中、私は拳を強く握りしめる。
校長室を出ると、重厚な扉が背後で音を立てて閉まった。
張りつめていた空気から解放されたはずなのに、胸の奥は重たく沈んだままだった。
「よし!」
レオンが大きく伸びをして、拳を突き上げた。
「これでマルセリーヌの疑いは晴れた! あとは黒幕を追い詰めれば完璧だな!」
「……落ち着け」アドリアンが低く制す。
「確かに、サモンは“表の犯人”に過ぎない。だが黒幕がいることは、校長の態度からも明らかだ」
「だろ? だから追うんだよ!」
レオンの言葉に、私は小さく震えた。
――追えば、何か取り返しのつかないことが起こる。そんな予感が胸をよぎった瞬間だった。
ひらり。
どこからともなく、一枚の紙が舞い降りてきた。
まるで風に乗って落ちてくるように、私の足元へ。
「また……手紙……?」
拾い上げると、そこには震えるような筆跡で、短い言葉が記されていた。
――黒幕を追うな。大切な人を失うぞ。
「……っ!」
胸が冷たくなり、思わず手を震わせた。
「姉さん、それ……」
レオンが覗き込み、目を見開く。
「な、なんだよこれ!? 誰かを狙ってるってことか!?」
アドリアンは眉をひそめ、手紙を覗き込んだ。
「……警告とも、脅しとも取れるな。だが少なくとも“無関係ではない”」
私は必死に唇を噛んだ。
「もし……もし、この“大切な人”って……マルセリーヌだったら。あるいは……」
視線を横に向ける。レオンが真剣な顔でこちらを見返し、アドリアンは目を細めて黙り込んでいた。
胸が締めつけられる。
「……そんなの、絶対に嫌」
小さく、でもはっきりと声に出した。
レオンは拳を握りしめた。
「でも、だからって黒幕を野放しにしておくのかよ!」
「レオン」
アドリアンが静かに言葉を挟む。
「今は冷静になるべきだ。無理に追えば、相手の思うつぼだ」
「……っ」レオンは唇を噛んで黙り込む。
私は震える手で手紙を胸に抱きしめた。
「……今は、マルセリーヌのことを優先しよう。黒幕は……また必ず掴む。その時までは……」
三人の間に、重苦しい沈黙が落ちる。
窓の外では初夏の雲が陽を覆い、学園の校庭を薄暗く染めていた。
――黒幕を追うのは、まだ危険。
けれど、放っておくわけにはいかない。
心の奥で矛盾した思いが渦巻きながら、私は拳を強く握りしめた。




