第21話 姉弟の時間
アドリアンが屋敷を後にしたあと、館の中は再び静寂に包まれた。
夜風が窓をかすかに揺らし、遠くの鐘の音がかすかに響く。
エレーナは廊下を歩きながら、胸の奥にまだ重たいものを抱えていた。
今日一日で起きたこと――試験問題の騒ぎ、マルセリーヌへの疑惑、そしてアドリアンとのやり取り。
すべてが頭の中で渦巻いて、眠れる気がしなかった。
その時、背後から声がかかった。
「……姉さん」
振り返ると、レオンが廊下に立っていた。
月明かりを背にしたその姿は、どこか頼りなく、けれど決意を帯びているようにも見えた。
「どうしたの?」
エレーナが問いかけると、彼は少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……ちょっと僕の部屋で話さない?」
その声音に込められた真剣さに、エレーナは静かに頷いた。
レオンの部屋に入ると、侍女が片付けを済ませたばかりで、机の上には書きかけの羊皮紙と練習用の杖だけが残っていた。
つい先ほどまで使っていた皿やスープの器はなくなり、かわりに紅茶の香りがまだほんのり漂っている。
窓から差し込む月光が、整えられたベッドと床を淡く照らしていた。
「どうぞ」
レオンがベッドの端をぽんぽんと叩く。
エレーナは微笑みながらそこに腰を下ろした。
しばしの沈黙のあと、レオンがぽつりと口を開く。
「……もしさ。マルセリーヌが本当に犯人だったら、姉さんどうする?」
エレーナは息を呑んだ。
思いもよらない問いだった。
「そんなこと……あるはずないわ」
「でも、もしもだよ」
レオンは真剣な眼差しで続ける。
「僕……正直、どうしていいか分からなくなると思う」
エレーナは弟の手をそっと取った。
その温もりを確かめながら、はっきりと答える。
「……もしそうだったとしても、きっと理由があるはず。
彼女は、そんな子だから。
その理由を聞いて……その上で、マルセリーヌのためにできることがあるなら、私は全部やるわ」
レオンの瞳がわずかに潤み、次の瞬間、ふっと笑った。
「やっぱり姉さんは姉さんだ」
だが、その笑みの奥に隠された寂しさを、エレーナは見逃さなかった。
レオンは視線を落とし、布団の端をぎゅっと掴んだ。
「……姉さんが“姉さんっぽくなく”なってた一年間……本当に寂しかったんだ」
その声は弱々しく、幼いころのレオンそのものだった。
「今日だけ……少し、甘えてもいい?」
胸がじんわりと温かくなる。
エレーナは柔らかな笑みを浮かべて、両腕を広げた。
「いいよ。おいで、レオン。今までごめんね」
次の瞬間、レオンは堪えきれないように姉の胸に飛び込んだ。
「……っ!」
その体は小さく震えている。
エレーナはそっと抱きしめ、幼い頃のように髪を撫でた。
「ふわふわだ……姉さん、気持ちいい……」
レオンが呟き、顔を埋めながら笑う。
「このまま寝ちゃいそう」
「もう……子どもみたいなんだから」
エレーナも思わず笑ってしまう。
けれど胸の奥では、弟にこんな思いをさせてしまった罪悪感が込み上げていた。
「寂しい思いをさせて、ごめんね」
「……僕こそごめん」
やがてレオンの呼吸が落ち着いたのを確かめ、エレーナは弟の頭をそっと持ち上げた。
そして、レオンの額に唇を寄せ、愛おしそうにキスをした。
「おやすみ、レオン。いい夢を」
「……うん」
その返事は小さく、けれど幸せそうだった。
月明かりに包まれた部屋で、失われていた姉弟の絆は、静かに、確かな形で結び直されていた。




