第4話 幼馴染に困る
東の空がようやく明るくなり、灰色だった北海に細い光が差し始めている。
「はい、お弁当」
出航前の朝。クライスがお弁当を受け取り、鞄に入れる。
わたし――セシリアが焼いた魚と黒パン。それから昨日の残りの野菜を詰めて布で包んだものだ。
「ああ。ありがとう」
「今日は遅くなる?」
「いや。昼過ぎには戻ると思う」
「分かった」
それだけ言って、クライスは出航した。わたしも少し遅れて市場へ戻る。
春になったとはいえ、朝の港はまだ寒い。吐く息がうっすら白く、桟橋には夜露が残っていた。
朝のヴァルネスは、もう動き始めていた。
港へ続く道には荷車が行き交い、魚商たちが店先に品物を並べている。海から吹いてくる風には、潮と魚の匂いが混じっていた。
クライスは漁へ行く。わたしは店で魚を売る。子供の頃から、形を変えながら何度も繰り返してきた朝だった。
◇
昼になる頃には朝の冷え込みも和らぎ、市場には春の日差しが差し込んでいた。
岸壁では朝に出た漁船が次々と戻り、魚を満載した籠が船から運び出されている。
魚を売りながら、ときどき港を見る。それがいつの間にか、わたしの習慣になっていた。
正午過ぎ。見慣れた漁船が港へ戻ってきた。わたしは店先からそれを見つける。帆の形だけで、クライスの船は遠くからでも分かる。
船から降りてきたクライスの肩には、今日も白銀の隼が止まっていた。
「おかえり、クライス」
「ああ。ただいま」
「今日は?」
「まあまあだな」
クライスが籠を見せる。中には何匹もの魚が重なっていた。
「クライスにしては大漁だね」
「にしては、は余計だ」
クライスから籠を受け取る。
「これは店に出していい?」
「ああ」
いつもの会話。
昔から、何度こんなやり取りをしてきたのだろう。
特別なことは何もない。でも、わたしはこういう時間が好きだった。
◇
クライスのお父さんが亡くなったとき、わたしはクライスの隣にいた。
お母さんが亡くなったときも。クライスが漁師になるために働いていた頃も、ずっと近くにいた。そして今もいる。
幼馴染。
わたしたちの関係を説明するなら、たぶんそれが一番正しい。でも、それだけではない。
わたしはクライスが好きだ。
いつか、この人のお嫁さんになれたらと思っている。だからといって、今すぐ何かを変えたいわけでもなかった。
朝になればお弁当を作って、クライスを海へ送り出す。わたしは店で働きながら、港へ戻ってくる船を待つ。
帰ってきたら「おかえり」と言う。クライスは「ただいま」と返してくれる。そんな毎日が、この先もずっと続いてほしい。
クライスも、わたしたちの今後については何も言わない。
わたしのことをどう思っているのか。それは、わたしにも分からない。ただ、これだけ長く一緒にいるのだから、少しくらい期待してもいいと思う。
◇
最近、ひとつだけ変わったことがある。
ジェミィ。
ある日突然クライスのところへ現れ、そのまま居ついてしまった白銀の隼。
最初はただの鳥だと思っていた。でも、どうやら様子がおかしい。
クライスはときどき、ジェミィを見ながら一人で何かを呟いている。何をしているのかと聞いても、いつも適当にはぐらかされる。
今日も店の前で魚を仕分けていると、少し離れたところにいるクライスが肩のジェミィを睨んだ。
「うるさいよ」
わたしは手を止める。
「どうしたの?」
「いや。なんでもない」
まただ。ジェミィは何食わぬ顔で羽繕いをしている。
少し怪しい。でも、クライスが楽しそうだから、まあいいかと思っている。
ふと辺りを見渡す。西へ傾いた春の日差しが、港に並ぶ帆柱の影を長く伸ばしていた。
ジェミィが現れてから変わったこと。
クライスが海を見ている時間が増えた。ときどき、わたしの知らない顔をするようにもなった。
何をしているのかは分からない。でも何かを隠していることだけは、なんとなく分かる。それでも、朝になればクライスは漁へ出る。昼になれば、いつもの港へ帰ってくる。
わたしが「おかえり」と言えば、「ただいま」と返してくれる。
「セシリア」
顔を上げる。
「これ、どこに置けばいい?」
クライスが魚の入った籠を抱えていた。
「こっち。運んで」
「分かった」
わたしの横を通り過ぎる。その背中を見ながら、少しだけ思う。
ジェミィが現れてから、なにかが少し変わった。でも、一番変わってほしいところは、昔からちっとも変わらない。
二つ年上のクライス。そろそろおじさんだ。わたしも、もう適齢期を過ぎている。彼はいつになったら、わたしを貰ってくれるのだろう。
なかなか決断してくれない、幼馴染に困る。
(次章へ)




