第1話 以来、俺は神らしい
魚が一匹も獲れない。
夜明け前から三度も網を入れた。それなのに、引き上げるたび掛かっているのは海藻ばかりだ。
ヴァルネスの北の海は、今日も灰色に沈んでいる。低く垂れ込めた雲。遠くに浮かぶ黒い島影。波が打ちつけるたび、古びた小舟が軋む。
「今日は、もう上がるか……」
俺――クライスはため息と共に空の網を船へ引き上げた。
「いてて」
中腰がきつい。俺は片手で背中をさすった。最近、腰にくるようになってきた。職業柄もあるが、歳のせいだろうか。
船縁には、一羽の隼がとまっている。朝の光を受けて白銀に輝く、美しく気高い鳥だ。
黙っていれば。
俺はもう一度、海を見渡した。沖へ出すぎる前に、そろそろ引き返した方がいい。
だが、空の木箱を抱えて帰れば、セシリアに余計な心配をかける。あいつは昔から、俺が少しでも無理をするとすぐに気づく。
俺は網を置き、濡れた銀色の前髪をかき上げた。地色で目立たないけど、密かに白髪も混じってきている。そろそろおっさんと呼ばれる年代に差し掛かってきた。
船縁の白銀の隼、ジェミィが口ばしを開く。
『あれ使いなよ、神なんだから』
「やだよ」
仕事で使いたくない。俺は漁師だ。魚は網や釣竿で獲るものだと思っている。
『意地を張ってる状況じゃないよね?』
そのとき、腹が鳴った。昨日残しておいた干し魚は、今朝にはなくなっていた。
犯人は分かっている。俺は白銀の隼を見た。
ジェミィは海の彼方を眺めている。いかにも自分には関係がないという顔だった。
「……今回だけだぞ」
俺は船底に置いていた釣竿を掴んだ。
何の変哲もない古い竿だ。針に餌はつけない。俺は小舟の中央に立ち、釣竿を魔法の杖のように振りかざした。
「ロキ・メリ」
次の瞬間、凪いでいた海が爆ぜた。
轟音とともに海面がねじれ、白い飛沫が空へ噴き上がる。海水を巻き込みながら、巨大な竜巻が天へ昇っていく。
竜巻の中で、何かが銀色に光った。次の瞬間、巨大な魚が飛び出してくる。
「……少し大きいな」
『少しで済ませるのが神技ってやつだよね』
俺は釣竿を横へ振った。大魚の身体が空中で向きを変え、船底へ叩きつけられる。
カジキマーグロだ。ツノのように突き出た吻を含めると、ゆうに3メトールは超える。
小舟が大きく沈み、海水が船縁を越えて流れ込んだ。
『加減できないなら、神を名乗れないよ?』
「名乗る気なんてないよ」
神になりたくて、なったわけではない。
ある朝、いつものように一人で漁をしていると、空から白銀の隼が舞い降りてきた。
『エイナルの子、クライス。君は本日付で、この地域一帯を担当する神に認定された。異論は認めない』
それが、ジェミィとの出会いだった。
もちろん断った。だが翌朝には、海の中にいる魚の位置も、空を流れる風の動きも、目を閉じるだけで分かるようになっていた。
試しに手を上げたら、海が割れた。
そしてジェミィは、そのまま俺の家に住みついた。
以来、俺は神らしい。
だからといって、暮らしを変えるつもりは更々なかった。
神の力なんて必要ない。俺は漁師だ。
◇
アストリア王国北端、ヴァルネス領の港町リーヴァ。
港へ戻ると、桟橋にいたヨンが近づいてきた。
セシリアの父親で、魚商を営んでいる。厚い胸板に太い腕。長年、港で働いてきたことがひと目で分かる、たくましい男だ。
「なあ、クライス。こいつを一人で?」
「ああ」
「よくその竿が折れなかったな」
「……丈夫なんだ」
ヨンは巨大な魚を見上げた。
「とりあえずうちの店へ持っていけ。セシリアも驚くだろう」
魚を縄で縛り、肩に担いで町へ入る。
海沿いには、厚い木材と石を組んだ家々が並んでいた。急勾配の屋根には昨日降った雪が残り、軒下には干した魚が吊るされている。
ここが、俺の生まれ育った町だ。
魚商の店先では、セシリアが空の木箱を並べていた。
亜麻色の髪を三つ編みにして、生成りの服の上に厚手のエプロンを着けている。
彼女は俺より、ふたつ年下。大人になった今も、子供のころと変わらずそこにいる。
セシリアが顔を上げた。俺に気付き、その青い瞳を丸くする。
「クライス、それ……どうしたの?」
「獲った」
「見れば分かるよ」
セシリアは魚と俺を交互に見た。
「……また無茶したんじゃないでしょうね」
「してない」
『したよ。海ごと釣り上げそうだった』
セシリアには、ジェミィの言葉は甲高い鳴き声にしか聞こえない。
「ジェミィも、そう言ってる」
「こいつは魚が大きくて喜んでるだけだよ」
「そうなの?」
ジェミィは俺の肩に飛び乗ると、セシリアと俺を交互に見定めた。
『銀髪の海の男と、亜麻色の髪の乙女。こうして並ぶと、なかなかお似合いだよね。神だけに』
俺は無言でジェミィの嘴をつまむ。
「ピィッ」
「もう。ジェミィに当たらないの」
セシリアは俺の手を軽く叩き、それから大魚を見上げて困ったように笑った。
「こんなの、うちで売れるかな」
「駄目なら持って帰るよ」
俺は魚を下ろし、軒先の壁へもたれかかる。
朝に海へ出て、魚を獲る。帰ってきたら、セシリアに届ける。それで一日分の金を稼ぎ、腹を満たして眠る。
俺が望んでいるのは、そんな暮らしだ。特別なことは何もいらない。ひっそりと、慎ましく生きられれば、それでいい。
『神の力で大魚を釣っておいて?』
「うるさいよ」
ジェミィが含み笑いを漏らす。
『そのうち、ピチピチの女の子が大漁で困ったりしてね』
◇
「あれは……エルダだ」
近くにいた年配の船乗りが、掠れた声を漏らした。
港の見張り台から、鐘の音が響く。
一度、二度。
時刻を知らせる鐘とは違う。短く激しい音が、間を置かずに繰り返される。
「北の沖合に船団!」
見張り台の兵士が声を張り上げた。
「海蛇の旗だ!」
北の沖合を覆っていた白い霧の中から、船影が次々と姿を現す。
その先頭を進む長船。船首には、巨大な戦斧を手にした女が立っていた。
エルダ・スコル。海蛇船団を率いる女だ。
エルダが戦斧を高く掲げる。
「中央を破る。私に続け!」




