第十九節 役立たずだって思ってしまう余 ――翠玉
『翠玉。どうしてお前はそんなに軟弱なんだ』
いつだったか。
まだ余が里に住んでいて、怪我を負った後だった。
ある日、姉と一緒に訓練をしている最中、姉の一撃を受け止めきれず地面に倒れ伏した余に姉が言った言葉だった。
姉は、完璧な鬼だった。
戦えば里では誰も叶わず、宴を開けば皆を引き付ける魅力も持っている。
乱暴でも人を笑顔にする快活さがあって、不条理で困っている人を助ける情もあった。
誰でも救う姉に言われた言葉は……余の胸に突き刺さって、何もかもが怖くなった
余はもしかしたら、鬼だけじゃんくて全部で役立たずなんじゃないかって、ずっと。
ずっと……。
* * *
「ん……姉、上……」
息苦しさに目を開けると、目の前は真っ暗だった。
わずかに身動ぎして、体の動きに合わせて被っている布団が動いて、今のが夢だったんだって分かってほっと息を吐いた。
ここはノエルの屋敷だ。少なくとも、姉に落胆されることはない。
安心するとどうして余がベッドで寝ていたかを思い出して、じわっと目頭が熱くなる。
「ああ、余はノエルを傷つけて……」
ぎゅっと布団を握りしめて自分の殻に閉じこもる。
ノエルを傷つけるつもりはなかった。
ただ、余はノエルが襲われそうになっていたから、助けようと思って力を入れ過ぎてしまっただけ。
一瞬、脳裏にノエルの頬に血が流れているのを思い出してしまって、喉が勝手引きつってぐっと力を入れて吐き気を抑え込んだ。
ノエルは大丈夫だって言ってくれた。
十分に時間が経った今、冷静になって思えばそうだって分かる。
でも、唯一出来る仕事ですらノエルに迷惑をかけてしまうのかってすごく自分が情けなくて……。
唇をかむと、犬歯が唇の端を千切り、血の味が口の中いっぱいに広がって、布団に血が行ってしまわないかだけが気になって、また目が痛くなる。
「余はどうしてこんなに意気地なしで、役立たずなんだろう」
はあ、と息を吐き出せば、籠った熱が息苦しいシーツの中で循環して考え事で痛くなった頭を締め付ける。
息を吸えば、誇りっぽい空気が肺になだれ込み、うつうつとした気分がさらに気が滅入ってしまいそうだった。
しかも、落ち込んでいるせいか、あの日のせいか……お腹も胸も体の内側がジンジンと痛い。
でも、いつまでもこのままここで閉じこもっているわけにはいかない。
「いやだ。もうノエルたちに迷惑かけたくない。起きないと……」
こうして、動かずに引きこもっている間もノエルに迷惑をかける。
余はどうしてこんなに役立たずなんだろうってまた思ってしまって、じわっと目頭が熱くなれば、首を振って耐えるの繰り返す。
何度目かの自戒の後、のしかかる鉛のような重い体を両手を動かして、ギシっと軋みを上げるベッドから起こす。
ちゃんと謝らないといけない。
するりと置いていくかけ布団を意識しながらドアに視線を移し……。
コンコンと、ドアが鳴った。
「ひっ!?」
突然、音が鳴ったドアに驚いてしまい、落ちた布団を拾い上げて体に巻き付け、ベッドの端に逃げる。
あのドアの向こうに居るのは、ノエル? それとも、旦那様、だろうか。
どっちだとしても、怖くて体が震えそうになって、きゅっと目を瞑って耐える。
(やだ、怖い……ごめんなさい、何も出来なくて……余は、恩人にも申し訳が……)
早く。早く行って欲しい。
ぎゅっと目を瞑って耐えていると、ドアの向こうの誰かはあきらめてくれたのかノックの音がぴたりと止まる。
「スイギョクちゃん、起きてるかしらー?」
音がしなくなったドアにほっと胸元までたくし上げた布団を下ろすと、ドアの向こうからくぐもった声でそう声がした。
それは"先輩"と呼んで欲しいと言っていたのほほんとした先輩メイドの声だった。
「せん、ぱい……?」
名前を呼ぶと、どうしてかきゅっと胸が痛くなる。
また、先輩たちに迷惑をかけてるんだって思ってしまって何もしない自分が情けなくなって、涙と鼻水を我慢する。
こんな姿見せるわけには、
「あら、スイギョクちゃんはやっぱり起きてたのねー」
「ひゃあああああああ!?」
ガチャリと、鍵をかけていたはずのドアが何の抵抗もなく開いて、とんでもない悲鳴が余から飛び出た。
布団を手繰り寄せた手に無意識に力が入り、布団を破いてしまいそうになる。
まだドキドキしてる心臓を抑えながら視線をドアに向けると、抵抗しなかったドアの向こうに居たのは、手をひらひらとさせている先輩メイドである"先輩"の姿だった。
「ひぅ、せ、先、輩……?」
「はーい、先輩でーす。よかった、スイギョクちゃんが元気そうで何よりだわ」
「ど、どうやって……部屋に……」
「ふふっ、管理用のカギ。こっそり抜いてきたの」
「えぇ!?」
どうしてここにとか、どうやってドアをとか色々考えていると、先輩は察したのか、キョトンとした後、悪戯っぽい笑みで片手に持っていた物をチャリっと……カギを持ち上げていた。
「か、鍵なんて持ちだしたら怒られるんじゃ……」
「えっへん、これでもえらーい貴族様のメイドですもの。多少の融通は利くのよー?」
「っ。余は、また迷惑を……?」
「あら、スイギョクちゃんは可愛い子はいちゃんなんですもの。この程度の失態は痛くないわ。それに、ノエルちゃんもきっと許してくれるでしょうし」
「の、ノエルが許しても旦那様に怒られる気が……」
「ふふっ、大丈夫なのよ。とにかく、スイギョクちゃんは気にしないで」
余がへこんでしまったせいで先輩を危ない目に合わせたのではと心配したら、自慢げに胸を張られてしまった。
心配はないって言いたいみたいだった。
でも、なんで先輩は余の所に来たんだろうって悩んでいると、先輩は「お邪魔するわね」と言って部屋のドアを閉め、逃げる間もなく隣に腰掛けられてしまう。
先輩の体が近づいて「ひっ」と喉が勝手に引きつる。
まだ、誰かの傍にいると傷つけてしまうかもしれない。
ぎゅっと体を縮こまらせてベッドの隅に体を押し付けると、腕が体につぶされ窮屈だったけど先輩に体が当たらなかった事にほっとした。
「……スイギョクちゃん、今いいかしら」
「だ、ダメだって言える空気じゃないぞ、先輩」
「あら」
余がそう答えると、先輩は恥ずかしいとでも言いたげに頬に手を添える。
可愛らしい動作だけれど、今の先輩だと何をされるかって怖くてしょうがなかった。
先輩は隣に腰掛けたままニコニコしていて、どうしたらいいかわからなくて黙っていると、先輩が「ねえ、スイギョクちゃん」と声をかけてくれる。
「一応ね、スイギョクちゃんがお仕事をお休みするって言うのは、だん……ノエルちゃんから聞いてはいるのよ?」
「え……?」
何をされるんだろうって思っていたら、先輩の口からノエルの名前が出てびくりと体が反応してしまう。
先輩はどう思ったのか、心配そうに身を寄せられてしまい、背に壁の感触が伝わってきた。
「やっぱり。そんな反応をするってことは、ノエルちゃんに何かされちゃった? 無理やり押し倒されちゃったり、壁に押し付けられちゃったり」
「……ちがう、ノエルはそんなことしてない……」
ノエルは優しい。それだけは絶対にない。
むしろ、ノエルに酷い事をしたのは自分だ。
そんなことはされてないという意志を伝えたくて首を振ると、あの日からまともに洗えてない髪の毛が少しペタついていて頬にまとわりついてくる。
首を振ると、先輩は呆れたとでも言いたげに「ふう」とため息をつく。
「……ヘタレね」
「え? へた……?」
「ああ、何でもないわ。スイギョクちゃんの事じゃないの」
「はあ……」
じゃあ、一体誰の話を……?
余が覚えてる限り、ヘタレなんて言われる男の人に声をかけられたことはないのだが……。
よく分からない先輩の言葉に困惑していると、先輩は「んー」と悩んでいた。
「じゃあなんてスイギョクちゃんは落ち込んじゃってるのかしら。もしかして、いつもみたいにスイギョクちゃんがなにかしちゃったーとか?」
「いつも……。ノエルから何も言われてないのか?」
「お休みするってこと意外ってことよね? うーん、今は休んでいた方がいいとしか聞いてないかしら」
先輩は考えるように天井を見上げているけれど、本当に知らないみたいだった。
ノエルがかばって……それとも、本当に気にしないでくれているのだろうか。
本当にそうならその優しさに胸を締め付けられる。
どちらにしても、ノエルに迷惑をかけているのには違いないし、ノエルが黙ってくれているのに余が説明するわけにはいかないと、小さく首を振った。
「なら、余は教えられない。余はこれ以上ノエルに迷惑をかけたくない……」
「そう、ノエルちゃんのためなのね……。スイギョクちゃん、ひとついい?」
「……?」
「私ね、スイギョクちゃんが心配だわ」
「余が……? でも、余はみんなに迷惑をかけるだけの鬼だぞ?」
この屋敷では先輩を始め、屋敷の役に立つことをしている人がたくさんいる。
ノエルは人事に書類仕事、爺様はまだみたことない旦那様の補助と屋敷の管理……。
先輩だって面倒見がよくて人当たりも良いから、屋敷のメイドたちの信頼も厚いし、兵士や庭師殿とも交友があって、ノエルに色々と噂を持ってきてくれているのを余は知っている。
他のメイドだってそうだ。
なのに、余は力加減が上手く出来なくて掃除や洗濯をすれば壊したり破いたりしてしまうし、料理だって旦那様に食べてもらえるような食事は作れない。
挙げればきりがないけれど、余は役立たずでしかない。
自分で考えてて落ち込みそうになっていると、先輩にくすくすと笑われてしまう。
「もう、スイギョクちゃんってば、新人さんみたいなことを言うのね」
「よ、余は新人だぞ、先輩……」
「あら、そうだったわね。でも、スイギョクちゃんってそんなに迷惑かけてたかしら」
はてと先輩が首を傾げられてしまうが、余は信じられないとついつい先輩を見つめてしまう。
「だ、だって余は掃除をしたら物を壊すし、洗濯すれば破いてしまうじゃないか!」
「そうそう。最初はそうやって失敗一つひとつに落ち込んじゃって、苦しくなっちゃうのよね。私も貴族だったから、そうなる気持ちとっても分かるわ」
「貴族? 先輩もそうなるのか……?」
「ふふっ、そうよ。私は元々それなりに有名な貴族の娘だったのよ? でも、お父さまが――それこそ、スイギョクちゃんが可愛く見えるくらいに失敗をするお間抜けさんだったから、こうして旦那様のメイドとして奉公して、お金を待ってもらったり、心象を良くするために来ているのよ」
「お、親をそんな風に言うのはあまり感心できないぞ、先輩」
余とは比べ物にならない経験をしている先輩に、思わず引け越しになりながらもそう言うと、先輩にくすくすと笑われてしまう。
この人は、本当によく笑ってくれる人なんだなって感じた。
「ふふっ、スイギョクちゃんは真面目ね」
「ま、真面目? 先輩、余はそう言う話をしてるんじゃ……」
「そう言うお話よ、スイギョクちゃん」
「で、でも……」
「でも、だってもありません。いい、スイギョクちゃん。私の話はともかく、スイギョクちゃんはメイドのお仕事をするのは初めてでしょう?」
「え? えぅあ? あう、それは、初めてだけど……」
先輩が諭すように人差し指を鼻の頭をつ疲れてしまい、変な声が出てしまう。
なんだか、子供を叱ってるときみたいに感じていたたまれなくなるけど、先輩の言葉を咀嚼しながら何とか頷く。
先輩はうんうんと頷くと人差し指を立てた。
「さっきも言ったけど、初めては失敗する物だもの。私だってスイギョクちゃんと同じくらいたくさんノエルちゃんに迷惑をかけたし、フォローだってしてもらったわ」
「先輩も、なのか?」
意外だった。
先輩は何でもニコニコしてみんなのフォローをしていたりするのに、噂好きで外の人や兵士の人ともすぐに仲良くなれる教養がある。
そんな先輩が余と同じ……。
そう思って先輩を見ると、ふわっとした微笑を向けられていて、なんだかむずがゆくなって顔を背けてしまう。




