overture : In the Ash, In the Gray Hole
灰色。
たった今目を覚ました少女を取り巻く全てを表すには、その言葉が最も相応しい。
鉛の雲に覆われた空は、その下に生きる者たちが陽光に照らされることも、闇に溶けてゆくことも許さない。
そこから僅かな光と共に降り注ぐ鼠色の雪は、風に揺られ、時折その方向を変えながらも、結局は皆、コンクリートの地面に辿り着く。
辺りに人影はなく、ただ倒壊したビルの残骸や、何とも知れぬ瓦礫だけが山積しており、そのほとんどが半ば原型を留めぬほどに腐食していた。
しかし、それは少女の周囲には及んでおらず、そこだけが瓦礫の山の中心に空いた、大きな穴のようになっていた。
穴の端では、いくつかの瓦礫が今にも雪崩を起こそうと揺れているが、すんでのところで奇妙なバランスが保たれているらしく、どうやら今のところは崩れそうにない。
ここは、安全だ。
少女はそう確信していた。
“彼”がそんなヘマをする訳はないだろうから。
そこまで考えて、少女は気付く。
“彼”とは一体、誰のことだろうか。
少女は何かを思い出そうとする。
しかし、いくら試そうと、その男の顔も名前も、靄がかかったように曖昧だ。
そして、それは自分自身についても例外ではない。
自らの名前、出自、経歴――その一切が、ただ靄の向こう側で茫漠としていた。
記憶喪失。
そんな言葉が、口をついて飛び出す。
少女は苦笑した。この状況にぴったりの言葉だ。
しかし、当然ながら、少女には教育を受けたという記憶も無ければ、どこかでその言葉を知ったという実感も無い。
過去の自分が誰かに贈られた言葉も、現在の自分にとっては単なる情報の集積でしかない。
なぜだかそれは、とても虚しいことのような気がした。
ざくり。
近くで足音が響く。
少女が振り返ると、“それ”は当然のように、彼女の目の前に立っていた。
ずっとそこに居たのだろうか。
「漸く、目を覚ましたんだね。」
“それ”はゆっくりと語りかける。穏やかで、どこか心地の良い声が響く。
「誰…?」
少女がそう尋ねると、“それ”はゆっくりと首を横に振った。
「何も分からないんだろう。自分が何者なのかも、なぜ、こんな場所に居るのかも。」
そこまで言うと、“それ”はゆっくりと腰を下ろした。
「座りなよ。」
“それ”は少女に手を差し出しながら言った。
少女は訝しげに“それ”を見つめながらも、その手を掴むと、ゆっくりと腰を下ろした。
「僕がこれから話すのは、とある街を襲った、とある事件についてだ。」
その時、微かに風が吹いたかと思うと、穴の縁で燻っていた瓦礫が音を立てて飛び出した。そして、それに呼応するように他の瓦礫が次々と転がり始め、大きな雪崩となって穴の内側へと流れ込んでいく。
「この話は、今の君に対して何らかの答えを与えてくれるかもしれない。」
しかし、“それ”はまるで何事も無いかのように語り続ける。
「或いはそれは、大きな痛みを伴うことかもしれない。」
一際大きな音を立て、雪崩の先端が穴の底へ到達した。
その振動が、地面を通じて少女にも伝わってくる。
しかし、不思議と、少女が恐怖を覚えることは無かった。
「それでも僕は、君に聞いて欲しいんだ。」
“それ”は静かに、だが、はっきりとした口調で言った。
「なぜならこれは、君の物語でもあるんだから。」
コンクリートとガラスの濁流が、二人の眼前に迫る。
“それ”はゆっくりと少女を抱き寄せ、静かにその髪を撫でた。
懐かしい感触だ。
肉体とも精神ともつかない何かが、この手の感触を、この声の響きを、鮮明に覚えている。
「おやすみ。」
瓦礫の山が、二人を包み込む。
暴力的なまでの質量の塊が、少女の視界を埋め尽くす。
それを遮るように、"それ"の身体が少女の視界をゆっくりと覆った。
「おやすみなさい、×××。」
口をついて、言葉が飛び出す。
それはまるで、幾度となく繰り返した工程のようだった。
少女は目を閉じる。
ゆっくりと、心地よい微睡みに包まれていく。
暗幕が静かに下ろされるように、少女の意識は闇の中へと消えて行った。