1.Changeling:The city never sleeps.
「お前は、悪魔と出会う。」
それは遥か遠い、過去の記憶。
部屋を覆い尽くす黒煙と、噎せ返るような油の匂い。
そして、炎を背に立つ、彼女の姿。
幾度となく落書きをした自由帳は、ものの十数秒で灰となり、毎月のように柱に刻んだ身長線は、一瞬にして煤の中へと姿を消した。
ただ煌々と燃え盛る炎が生活を、記憶を手当たり次第に貪っては、急速にその輝きを増していく。
「それは、そういうさだめだから。」
そう続ける彼女の頬を大粒の汗が伝う。
どこか遠くから、甲高いサイレンの音が聞こえた。
どうやら、助けが来たらしい。
でも、もう手遅れだ。
ぼくが最も失いたくないものは、もう間もなく、この輝きの中に消えてしまうのだから。
「定められたものに抗うなんて、人の身には過ぎた願いなのかもしれない。」
彼女の背後から赤橙色の熱が立ち上り、その長い髪を掴んだ。
ぼくは彼女に向けて手を伸ばしたかもしれない。
何かを叫んだかもしれなかった。
しかし、彼女はもう、それらが届くところには居なかった。
「でも―――いや、だからこそ。」
震える声でそう呟くと、彼女は静かに微笑んだ。
「お前は、お前の道を見つけなさい。」
融けてゆく。
目の前で、ぼくの全てが。
残されたのは、決して凪ぐことのない赤橙色の海だけだった。
「―――母さん。」
ぼくは囈言のようにそう呟くと、深海へと身を沈めた。
それがぼくの、ささやかな終焉だった。
Suicide On The Snail
part1 Changeling; the city never sleeps.
ローズライク・シティという街をご存じだろうか。
それはアメリカ北東部に位置する、国内最大級のカジノや舞台など、多種多様な施設の集まる大歓楽街だ。
しかし、眩いネオンサインに包まれた路地とは対照的に、一度郊外に足を運べば、クラブハウスや違法風俗店が軒を連ね、どこか剣呑な雰囲気に触れることができる。
そこはそうした施設の売上を資金源とするマフィアや、その客となる悪餓鬼共の巣窟である。
メインストリートを闊歩する勝ち組たちの熱狂と、路地裏で蠢くはぐれ者たちの喧騒に絶えず包まれたその街を、人はこう呼ぶ。
「眠らない街」と。
2012年8月17日 am1:30 サンセット通り
ローズライクシティ郊外にあるその通りの交通量は、そう多い方ではない。
特に深夜には、人っ子一人通らないと言って良いほどである。
しかし、この日は珍しく、通りに人の姿があった。
閑散とした路地の中を、一人の青年が全速力で駆け抜ける。
ボロボロのコートを羽織った十八、十九ほどのその青年は、息を切らし、何度も転びそうになりながらも、決してその足を止めることは無い。
彼は時折背後を振り返りながら、右へ左へと街路を曲がり、路地裏に飛び込む。
次の瞬間、彼の目の前にコンクリートの壁が立ち塞がった。
袋小路だ。
青年は足を止めると、おぼつかない手つきで懐から銃を取り出し、背後を振り返り、叫ぶ。
「両手を上げて止まれ!」
震える銃口の向かう先には、灰色のトレンチコートを羽織った男が一人。30代前半くらいの、そこそこ背の高い男だ。
焦げ茶色の髪は無造作に散らばっており、清潔さからはほど遠い。それが耳の根元近くまで生えた無精髭と相まって、浮浪者のような様相を呈していた。
「頼むからもう、観念してくれないか。」
男の声は柔らかであった。
青年は少し戸惑いながらも、ゆっくりと首を横に振った。
「ここでアンタを殺るのだって、ムショ暮らしよかよっぽどマシだ。」
男はじっと銃口を見つめたまま、降参したように両手を上げた。
「今ならまだ間に合う。」
なおも、男は穏やかに言った。しかし、その言葉は青年には届かなかった。
「ここで死んでもらう。」
青年は自分に言い聞かせるように声を張り上げると、震える指を引き金にかけた。
「―――二言は無いな。」
それは静かな、そして重々しい声だった。
青年は戸惑いを隠せなかった。
今の言葉が、先程と同じ男から飛び出したものとは思えなかった。
その一瞬の躊躇が、青年の命運を決めた。
直後、青年の視界から男の姿が消えた。
青年の指が引き金を弾くより先に、銃口が上向きに捻られたかと思うと、次の瞬間には男の膝が青年の懐へと叩き込まれていた。
青年が低い呻き声を上げてうずくまると、男はすぐさまその側頭部を容赦なく蹴り飛ばす。
ゴッ、と鈍い音を立てて青年の頭がコンクリートの壁に衝突し、暗赤色の染みを残して身体ごと床へと崩れ落ちる。
「起きろ。」
男は青年の体に跨がると、躊躇無くその腹に拳を叩き込んだ。
目を見開きながら、青年が嘔吐く。
「まだ意識はあるな。」
そう呟きながら、男は青年の身体に拳を叩き付ける。
何度も、何度も。
猛るでもなく、怒るでもなく。
ただ淡々と、予定されたタスクを消化するように。
男の拳が青年の骨を軋ませる度、血と吐瀉物の混じったものが辺り一面に撒き散らされる。
「お前は見捨てられた。」
男は青年の耳元でそう囁きながら、ゆっくりと、だが一切の躊躇も無く、青年のこめかみに銃を突きつける。
「仲良くハッパ吸ってるお友達も、お前が毎日媚び売ってるファミリーの連中も、誰も助けに来やしない。」
青年は、自分の息が再び荒くなるのを感じた。
歯がガチガチと音を立て、汗が頬を伝う。
「ここでお前を処理しても正当防衛が成り立つだろうが、生憎、俺にも守るべきキャリアがある。」
次の瞬間、男は目にも止まらぬ速さで青年の腕を抑えると、その右手に拳銃を握らせた。
「そこで、良い筋書きを思いついた。」
青年の腕が、ゆっくりと捻り上げられる。
「気の弱いお前は警官に追い詰められ、ムショ暮らしとその後の暗い人生に対する不安のあまり…」
数秒後の自分の運命を悟り、青年は青ざめた。
そして、抑えつけられたままの腕は青年のこめかみに向かい―――
「自ら、命を絶った。」
―――夜の街に、銃声が響き渡った。
2:00 サンセット通り メインストリート
「Will I live tomorrow... Well, I just can't say...」
しばらくすると、先程よりも遥かに汚れたコートを着た男が、歌を口ずさみながら路地裏から歩み出てくる。
その周囲では、警官服を着た男たちが待機していた。
男が思い出したように立ち止まり、手をひらひらと振ると、警官たちは一斉に路地裏へと駆け込んでいく。
彼らが次々と奥の方へ消えていくのを見届けると、男は再び歩き始めた。
「ラルフ!」
背後から、誰かが男の名を呼んだ。
ラルフ・レキシントンが振り返ると、背広を着た初老の男が、険しい表情でこちらを見つめていた。
「お疲れ様です、パークス警部。」
ラルフがそう呼びかけると、ラッド・パークスは射抜くような視線をこちらに向けながら、静かに口を開いた。
「…さっきの銃声は?」
「多少、脅してやっただけです。」
ラルフは肩をすくめてみせた。だが、ラッドの表情は変わらなかった。
「…また、一人で行ったのか?」
ラッドは静かにそう言った。
「はい。」
ラルフは頷いた。
「必要以上の独断専行はやめろと言ったはずだ。どんな成果も、命には代えられん。」
ラッドは呆れ顔でそう言った。
「殺しやしませんよ。ただ、この方が都合が良いからやってるだけです。」
ラルフはそう言って笑った。
「俺が言ってるのは、お前のことだ。」
ラッドは再び、大きな溜め息をついた。
「…ラルフ。お前の働きには俺たちも助かってるし、感謝もしてる。」
少し間を置いて、ラッドは口を開いた。
「だがな、何もお前ばかりが貧乏くじ引かなくても…」
「警部。」
ラルフの制止にも首を振ると、ラッドは続けた。
「いいや、今回ばかりは言わせてもらう。いい加減、馬鹿な真似はやめろ。そりゃあ確かに、あの子のことは残念だったが…」
「関係ありません。」
ラルフはぴしゃりと言い放った。
その声は、自分でも驚くほど苛立っていた。
「…俺がやりたくてやってることですから。」
ラルフは咳払いすると、そう続けた。
ラッドは言葉を止めはしたものの、その眼はラルフを見据えたまま、頑として動こうとしなかった。
ラルフは思わず目を逸らすと、押し黙る。
少しの間、沈黙が流れた。
それを掻き消すように、ラッドの携帯が震えた。
ラッドは肩を竦め、それを手に取ると、急に仕事向きの顔になった。
「こちらパークス……了解、すぐに向かう。」
それだけ言うと、ラッドはすぐに電話を切った。
「さっきのガキ、もうすぐ署に着くとさ。車、出せるか?」
「…はい。」
ラルフは頷くと、歩き出した。
「ラルフ。」
ラッドの声に、ラルフは足を止め、振り返る。
ラッドは表情を和らげると、言葉を探るように続けた。
「…そろそろ、5年だ。区切りをつけるには十分じゃないか?」
結局、飛び出したのはそんな当たり障りのない言葉だった。
「…ありがとうございます。」
ラルフはラッドを真っ直ぐに見つめて言った。
ラッドはラルフの視線を少しの間だけ受け止めたが、すぐに目を逸らし、軽く頬を掻いた。
「似合わない事を言うもんじゃないな。すまん、行ってきてくれ。」
「…失礼します。」
ラルフは礼をすると、ラッドに背を向け、小走りで道を進んでいった。
いくつか角を曲がっていくと、停めておいた赤いフォードまでたどり着いた。
ラルフはドアを開け、運転席に座った。
ふと、窓の外を眺めると、深夜だというのに色とりどりのネオンサインが街を照らしている。
そこにあるのは、まさに「薔薇のような街」そのものだった。
5年だ。
街も人間も、全てが目まぐるしく変わってしまった。
ラルフは静かに、キーを握り締めた。
am9:35 娼館「レッドホット」202号室
時刻は朝。
完全に姿を現した太陽が窓から光を差し込み、ブラインド越しに煙草と汗の匂いに満ちた室内をうっすらと照らす。
布団や脱ぎ散らかした服が散乱するベッドの上では、一人の青年が眠っていた。
アメリカ人としては比較的小柄なその青年は、黒い髪に小麦色の肌をしており、その幼さの残る顔立ちとは裏腹に、不自然なまでに締まった体つきをしていた。
その近くでは、昨夜から点けっ放しのテレビがワイドショーを流していた。
「このところ、ローズライクシティを騒がせている連続失踪事件。最初の事件以来、現在では10名が行方不明となっています。警察は現在調査中とのことですが、現状をどう見られますか?」
テレビの中で、司会者がコメンテーター達に話を振る。
「はっきり言って意味不明だよ。IT事業家に作家、新聞記者…被害者の年齢も経歴もバラバラ。しかも全員が全員、兆候一つ見せずに失踪しているときた。唯一共通する点といえば…」
一人目のコメンテーターは得意気に続けた。
「被害者の周囲の人間の殆どが、一様に同じようなことを言ったそうだ。『あの人はすっかり人が変わってしまった』ってね。」
「チェンジリング。」
突然、二人目のコメンテーターが口を開いた。
「…それは何です、先生?」
先ほどまで得意気に話していたコメンテーターは、ばつが悪そうに尋ねた。
「中世の伝承です。妖精が人間の子供を誘拐し、自分の子供と取り替える。取り替えられた人ならざる幼子は成長するにつれ、本来の種族としての性質を表し始めるという。」
「また非科学的な。」
先ほどの仕返しとばかりに、コメンテーターは遮るように口を開く。
「それはあくまでオカルトでしょう、先生?」
「その通り、伝承は伝承です。しかし、その伝承にも必ず元となる事実がある。精神疾患や外的要因による記憶喪失…」
或いは、と「先生」と呼ばれた男は続ける。
「本当に別のものになってたなんてこともあるかもしれませんよ。」
そこで突然、テレビの電源が切れた。
その違和感からか、青年――フィリップ・エルドラドは目を覚ました。
寝ぼけ眼で正面を見ると、隣で眠っていたはずのレベッカがテレビのリモコンを握っていた。
「起きてたの、リップ。」
体をごそごそと動かしていると、レベッカは赤い髪を靡かせながらこちらを振り返る。
「おはよう、レビー。」
ふと、鞄に入れたままの携帯が鳴った。
「仕事?」
リップは無精たらしくベッドから起き上がると、伸びをした。
「多分ね。」
リップは散乱した衣類の中からスーツを取って羽織ると、続けた。
「残り時間の分はいいから、今日はもう休みなよ。後でヴィンスに言っとく。」
「助かるわ…昨日は、疲れたから。」
レベッカはそう言って左手で自分の肩を鷲づかみにして揉み解すと、空いた右手の人差し指で顎をぐりぐりと押した。
その手の甲には、また新しく小さな痣が出来ていた。
「…そう。」
それっきり、リップは静かに目を逸らすと、押し黙ってしまった。
少しの沈黙の後、レベッカはくすりと笑い、いつものように適当な調子で手を振った。
「…じゃあ、次回もご指名よろしくね、探偵さん。」
「…明日には帰るよ。」
そう言い残すと、リップはドアを閉めた。
階段を下りてフロントに出ると、ヴィンセント・ルアルディがストールに腰掛けながら新聞を読んでいた。
190cm近くもある巨体に、透き通るような白い肌。そして、男のものとも女のものともつかない端整な顔立ち。それらは相も変わらず、50をとうに過ぎた人間のものとは思えないほどに若々しく、美しかった。
「どこかへお出かけ?」
ゆっくりとこちらへ向く。
「…うん、急ぎの依頼でね。」
リップがそう答えると、ヴィンスは新聞を置き、ふいにその顔を覗かせる。
「急ぎ、ね。」
ヴィンスはこちらをまじまじと見つめたかと思うと、くすりと笑う。
「なにせ、十年来のお得意様の頼みだものね。」
この笑みだ。
リップは苛立ちを抑えながら、目の前の男を見つめ返す。
こちらの全てを見透かすようなこの笑みが、今日は特に癪に障る。
「どこで知った。」
「ごめんなさい、悪気は無かったのよ。ただ、縛られる物が多いと、窮屈そうに見えただけ。」
ヴィンスは同じ笑みを湛えたまま、穏やかに言った。
「縛られてるのはお互い様だよ、オーナー。」
「口が減らないこと。」
ヴィンスは再び、くすりと笑う。
「貴方の人生だもの。とやかく言う気は無いわ。ただ…」
ヴィンスはそう言ってテーブルに置いたままのコーヒーを啜ると、続けた。
「――死ぬんじゃないわよ。貴方の命は、私のものでもあるんだから。」
am9:30 ローズライクシティ警察署 取調室
その部屋について一言で言い表すとすれば、簡素と言う外ない。
小さな木目調のテーブルと、それを挟むように配置された二台のパイプ椅子。その他には何もない、小さな部屋だった。
今、二人の男が小さなテーブルを挟んで座っている。
一人は警官服を着た、金髪の男。彼は手元のバインダーに挟んである書類を読みながら、もう一方の男に視線を送っている。
もう一人は、少年と言っても差し支えないほど顔立ちに幼さを残した青年だった。彼は顔を背けながら、時折ばつが悪そうに頭を掻いていた。
「ウィリアム・バーチ、19歳。過去の犯罪歴は窃盗2回……まさかこれほど街を騒がせた連続失踪事件の主犯が、こんなしょっぱいチンピラだったとはね。」
警官服の男―――ジェフ・グリーンは書類から顔を上げると、青年に無遠慮な眼差しを向けた。
「違う!」
席から身を乗り出して抗議するウィリアムの手には、しっかりと手錠が掛けられていた。
「市内の監視カメラには被害者たちをトラックに乗せる君の姿が映ってた。」
「俺は指示されただけだ!」
ウィリアムは力任せに両腕を机に叩きつけ、ジェフを睨みつけた。
しかし、ジェフの方も手慣れたもので、全く動じる様子がない。
「じゃあ、誰に?」
ジェフはウィリアムの方へ少し顔を近づけると、言った。
「それは…。」
ウィリアムは急に語気を弱めると、バツが悪そうに目を逸らした。
「…言えないんだろ?なら、どうしようもない。」
ジェフは苛立ち混じりにため息をつくと、机に置きっぱなしになっていた缶コーラを一気に飲み干した。
「じゃあ、俺はこれで。」
そう言い残すと、ジェフは部屋を出て行った。
それと入れ替わるようにして、ラルフ・レキシントンが室内に入ってくる。
「よお。」
ラルフは軽く挨拶をすると、席に座った。
「アンタ、昨日の・・・」
昨夜の光景が脳裏を過ぎったのか、ウィリアムは身震いした。
ラルフはそれを見ると、彼の胸ぐらを掴み、顔を寄せる。
「お前、何か隠してるんだってな。」
ラルフの問いかけに、ウィリアムは目を逸らした。
「別に、何も…。」
ウィリアムはおずおずと答えた。
次の瞬間、二人に挟まれていた机が思い切り蹴り飛ばされ、音を立てて壁に激突した。
突然のことに慌てるウィリアムの胸ぐらが掴み上げられ、壁に押し付けられる。
「時間が無い。」
ラルフは躊躇いもなくウィリアムの首を掴むと、そのまま締め上げる。
「だから、頼むよ。」
ウィリアムは暫く躊躇うように目を白黒させていたが、ラルフが腕に少し力を込めると、ガクガクと震えながら何度も頷いた。
それを確認すると、ラルフは手を離す。
ウィリアムの体が崩れ落ちるように倒れ、室内に嗚咽混じりの咳が響く。
手慣れたやり口だった。
死の寸前まで痛めつけて正常な判断能力を奪い、そうして植え付けたトラウマを後から呼び起こす。
余程の理由が無ければ、殆どの人間はそれだけで口を割る。
「話せ。」
ラルフが椅子に座り込むと、扉が開き、ラッドやジェフ、他の刑事たちが部屋に入ってくる。
「誰の指示だ。」
ラルフは全員が入ったのを確認すると、そう尋ねた。
「……ロザーナ・トンプソン。」
その名に一瞬、現場が凍りついた。
ロザーナ・トンプソン。
その名を知らない者は、この街にはいない。
彼はシティ最大のグループ、"番犬”のリーダーであり、必然的にこの街全体を取り仕切っている人物だ。
このグループの厄介なところは、その尋常でない規模と、徹底的な情報統制にある。
その構成員は一般企業や新聞社、警察組織内部にさえ居ると言われ、推定構成員数は2万人を超える。
その全員が全く以て個別に行動しているため、いくら末端の人間を検挙しようとも、そこから新たに検挙できるのは精々4、5人程度が関の山だ。
対犯罪組織に特化したローズライク・シティ警察の捜査をもってしても、組織の全容と、この男の正体を掴むことはできずにいた。
「その名前を出したからには、『やっぱり嘘』では済まされねえぞ。」
ラルフはそう凄んだが、ウィリアムの目は真剣そのものだった。
「俺はあの人に指示されて運んだだけだ。」
「何か、情報は?アジトの場所でも、何でも良い。」
ラルフは少し呼吸を整えると、尋ねた。
「俺みたいな末端の人間がアジトなんか知るわけないだろ。ただ、あいつらが連絡に使ってた場所なら知ってる。」
ウィリアムはゆっくりと続けた。
「…アタラクシアってクラブだ。もしかすると、まだそこにいるかもな。」
ラルフたちは顔を見合わせた。
本部が長年追い続けてきた手がかりが、すぐそこにあるかもしれない。
そんな期待がラルフ達を突き動かし始めていた。
13:40 ローズライクシティ 中央通り
レニー・メイヤーは慎重な男だ。
危険な物事には足を突っ込まず、決して無理はしない。"石橋を叩いて渡る"が彼の信条だ。
職業柄、その信条には人並み以上に助けられてきた。
今、通りを歩く彼の表情は不機嫌極まりない。
それもその筈、先日、ファミリーが彼に下した指令は彼の信条に大いに反していたのだ。
8月6日 20:30 ホテル「ラングレー」26F
時は二日前に遡る。
「その写真の男を知っているか?」
最上階にある部屋に呼び出されたレニーを待っていたのは、そんな質問だった。
問いかけたのは、窓の方を向き、肘掛け椅子に座った女だ。
女の名はマルタ・リノーラ。
レニーの所属する組織、リノーラファミリーのボスだ。
女の指し示す写真に映っていたのは、小柄なスキンヘッドの男だった。顔立ちこそ凡庸であったが、頬に刻まれた大きな傷跡が彼の凄絶な人生を物語っていた。
「ラリー・グレイ…ウチの幹部ですよね?」
レニーは訝しげにマルタを見た。
「そう、それなんだが…」
「彼を始末して欲しい。」
マルタは振り返り、眉一つ動かさずにそう言った。
レニーはぞっとした。
彼女は長いブロンドの髪に整った顔立ちをしており、美女と言っても差し支えなかった。
だが、彼女の表情がその全てを台無しにしていた。それは彼女の声と同様、感情という感情を置き忘れた、氷のような表情だった。
「何か不満でも?」
「…いえ。」
彼女の真意は分からないが、どちらにせよ、ファミリーに入って日の浅い彼に断る術は無かった。
「私は君の能力を買っているんだ。頼んだよ。」
マルタはやはり、感情を全く感じさせない声で言った。
「ありがとうございます。」
レニーはすぐさま頭を下げると、踵を返し、振り返らずに部屋の外へと出ていった。
きっと変わらぬ表情を浮かべているだろう、不気味な女の腹の内を探りながら。
8月8日 15:50 中央通り
なぜ自分が選ばれたのだろうか?
そのことがずっと引っ掛かっていた。
そんな仕事なら他の人間でもいいだろうに。
ぶつくさと文句を言いながらも、レニーは目的地へと歩を進めていた。
am11:30 ローズライクシティ警察署 会議室
会議室の中には、ラッドを中心とした捜査関係者たちが集まっていた。
「どう思う?」
ラッドはジェフに尋ねた。
「まず、罠でしょうね。」
即答だったが、誰も驚きはしなかった。
ただ、とジェフは続ける。
「他に手がかりもありません。」
それは誰もが理解していた。
結局は、行くしかないのだ。
「警部。」
そう言って立ち上がったのはベイン・エルドリッジ警部補。今回の捜査の副官にあたる。
「ヤツらに勘づかれたら終わりです。安全を期すため、いくつか後発隊を設けるべきでしょうが…基本的には単独捜査を行うべきかと。」
ベインは言い終えると、即座に席についた。
「別にそれは構わんが…なら、誰が行く?」
ラッドがそう尋ねると、周囲の人間は一斉にラルフの方を見た。
厄介事を若手に押しつけようという気が無いわけではない。
しかし、それ以上に、その場の誰もが暗黙のうちに理解していた。
ここにはラルフ・レキシントン以上の適任者はいない、と。
「(ご期待に添えたようで、何よりだ。)」
ラルフは心の中でそう毒づきながら、手を挙げた。
「俺が行きます。」
そのまま、会議はすぐに終了した。
周囲の人間は皆、納得したように頷くばかりだった。
しかし、ただ一人、ラッド・パークスだけが、一言も発することなく、ラルフをじっと見つめていた。




