チビで貧相な年増の話(下)
*
がたん、と音が鳴って、デボラはびくりとして顔を上げた。
燭台の揺らめく明かりが出入り口のところにあった。まぶしくて目を細めると、明かりを持っていた人影が、ふうう、と、ため息をつくのが聞こえた。
それから、ふだんどおりの、ルードの声が聞こえた。
「こんなとこで寝ちゃ風邪引くぜ、デボラ」
「ああ……」
「悪かったな、遅くなっちまって。帰りがけに王宮に寄ったら、正式な話にまで進んでてさ」
ルードだ。……本物だ。
彼は入り口にどさりと背嚢を投げ出すと、食卓の上の燭台に炎を移した。生きてた、とまだぼんやりしながら考えた。生きてて、元気で、その上、帰って来たのだ。あたしのところに。
「……お帰り」
ささやくと、ルードはデボラをのぞき込んだ。
優しい手つきでデボラの額の髪をかきあげて、彼は微笑んだ。
「ただいま」
「ああ、ごめん。ぼんやりしちまって。夕ごはん、」
立ち上がろうとして、左手がずきりと痛んだ。先程の近衛がしっかり巻いてくれていた手巾に血がにじんでいるのが見える。デボラは表情を取り繕って、左手を隠すようにして立ち上がった。
「今日は忙しくて遅くなって、晩ごはんの買い物ができなかったんだよ。長旅から帰って来たのに悪いけど、……ああそうだ、たまごがある」
「デボラ」
ルードが優しい声で言った。
近づいて来てデボラを両手で包み込み、元どおり椅子に座らせた。そっと左手を握られて、息を詰めてしまった。ルードは手を握ったまま、体を伸ばして棚の上から薬箱を下ろした。
「ああ、これ、かすり傷なんだ」デボラは必死で言った。「ちょっとへましてさ……ほ、ほら、王妃宮にガラスを嵌めたろ? 外の冷たい空気が入らないのに明るいってんでほんとにいいものなんだけどさ、掃除が大変でさ、それで滑っちまって、でも」
「デボラ」
デボラは黙った。ルードの言い方は、咎めるでもなく怒っているふうでもなく、困ってるようでも嘆いているふうでも、罪悪感を感じているふうでもなく、ただただ優しかった。
棚の上の燭台には灯を灯さないでくれて、それが本当に助かった。机の上の明かりだけでは、デボラの表情はよく見えないだろう。手巾を取り除いた。血が固まりかけていて繊維がひきつれそうになるのを注意深くはがし、すべて取り払うと端切れに薬を染み込ませて、傷口をていねいに拭った。デボラはそっとルードの表情を盗み見た。ひどく真剣な顔をしている。
「……窓拭きの時に滑っちまって」
「そうか」
ルードは苦笑した。消毒を終え、新しい端切れに違う薬を染み込ませて、それを傷口にそっと乗せた。包帯を巻きながら、ルードは言った。
「悪い窓だな。ただじゃすまさねえ」
「……」
「二度とお前を滑らせたりできねえように」
ルードは嗤った。
「四枚ともたたき割ってくるぜ」
――人数までもう知ってる。
デボラはおずおずと言った。
「もう取っ捕まってるんだよ? だから……」
「そう。顔も拝んで来たぜ。近衛の奴らにも絶対逃がすなって言ってきた。……なあデボラ」
ルードはデボラの頭をそっと抱き寄せた。
「よく逃げたなあ。……ありがとうなデボラ。生きててくれて」
震えるほどに低い声が囁く。デボラは顔を歪めた。
「そ……そりゃこっちの台詞だよ……」
「俺が死ぬわけないだろ」
「そんなわけないだろ!? あんな奴らに狙われてるくせに……無事に帰って来られる保証なんて……」
「俺がお前を残して死んだりするなんて絶対ないな」
ルードはやけに自信たっぷりだ。あまりの自信にデボラは呆れた。
「何でそう言い切れんのさ」
「こんないい女残しておっ死んだりしたら、あの世でおちおちくつろげねえじゃねえか」
またぬけぬけと、何を言うのか。
デボラは絶句した。あのごろつきが言ったように、デボラはただの『チビで貧相な年増』だ。若くもなく可愛げもなく、掃除以外の家事もできない。なのにルードはいつも『いい女』だという。本当にこの男の、女の趣味は分からない。
「飯にすっか。さっき王宮に寄ったら飯が出たんだ。ついでにって、お前の分もかっぱらって来た」
ルードはぬけぬけと言いながら立ち上がり、荷をごそごそ探り始めている。デボラは何とか言葉を捜し出した。
「……あたしの職場であんまり図々しいまねしないどくれよ……」
「なあに、お前の食う分なんざ、王宮の懐にとっちゃ軽いもんだ」
ルードは楽しそうだ。ランタンを出したので、辺りはもっと明るくなった。目の前に広げられた弁当の他に、干し肉やチーズまで出て来た。さらに秘蔵の炎酒をいそいそを開けるルードを見て、デボラは笑った。
――ルードの女の趣味が悪かったことは、あたしにとって本当に、運のいいことだったのだろう。
弁当の中身は鱒のムニエルだった。これは果たして、偶然だろうか。
でも訊ねても、絶対に偶然だというだろうから、聞かなかった。その代わりに鱒を食べた。冷めてはいるが、デボラが焼くよりずっと美味しい。
「悪くないね」
言ってしまって、いつもながらまた後悔した。一体全体どうして素直に、美味しいと言えないのだろう?
でもルードが、
「そりゃよかった」
なんて嬉しそうに笑うものだから。
デボラは下を向いて、ゆっくりゆっくり、味わって鱒を食べた。




