プロローグ 凋落
〈屋上〉。
僕の下駄箱に入っていた、装飾も何もない真白い便箋に記されていた一般名詞である。
いかにも女性らしい、細く美麗な字だ。
僕の幼馴染は、こういう悪戯を好まない。
どこかへ呼ぶにしても、正面切ってお願いしてくるか、逆に背後を取って羽交締めにして連行してくるか。こんな迂遠な手段はとらない。
はてさて。
差出人に心当たりがない以上、思考できるのは目的しかない。あまりにも簡素な手紙を読み解くしかないらしい。
ビラにしては斬新すぎる。
果たし状にしては可憐すぎる。
暗号文にしてはシンプルすぎる。
告白予告にしては素っ気なすぎる。
「要領を得ない、けど」
ビラなら何の催しか気になるし、果たし状なら勘弁してくださいと許しを請うておかなければ後が怖いし、暗号文なら解いてみたいし、告白予告なら放置しづらい。
どうあれ、無視して帰るのはきまりが悪い。
僕は踵を返し、階段を登った。
二階、三階、四階……、本館から渡り廊下で別館へ。くたびれきって屋上への階段を登り、続く扉を、開く——夕陽が照っている。
初夏、五月の清々しい灯り。
鮮やかで、暖かで、春先を彩る眩しい輝き。
だからこそ、そのスポットライトに照らされた遠くの人影が、強い存在感を放っていた。
細身の少女が、整然と立っている。ただし彼女の足場は想像以上に遠く、フェンスを越えた狭い道。
両足幅のキャットウォーク。
気づけば僕の足は、少女の元へ向かっていた。他に誰もいない屋上は静かで、こつ、こつ、足音が響く。
少女が、こちらに半身を向けた。
すっと通った鼻梁、薄い唇。ガラス細工のような濃紺の瞳が収まった、ミステリアスな猫目。高身長ながら嘘みたいに華奢な体つきをした、氷柱のような制服少女。
全身に詰め込まれた美を隠すように、腰まで伸びた濡れ羽色のロングヘアーは、却って、魅惑と風情を以って、見る者を冷たく誘っていた。
暖気の中で、臨死者がきらめいていた。
「……綺麗だ」
場違いな感想が漏れ出る。聞いたか、少女はゆっくりと僕の方へ完全に向き直る。それからスカートをちょっと摘み……、整った御辞儀をする。
背筋を伸ばし、丸みを作った両手を高く掲げ、爪先立ちになって。数瞬してスカートが靡き、カツンと甲高い音が鳴った。
僕は僅かに意識を戻して、自らの胴体に差しこんでいる彼女の尖った影を、体制を変えないままに目線で伝った。彼女の足先は、潰れたように平たくなっていた。
特殊な形状の靴──トゥシューズだった。
ばっ、と動き出して。
狭すぎるステージで、旋回、旋回、旋回。長い手脚が飛び回ると共に影が危うく乱舞する。
背後の夕陽がバックライトとなってステージを飾る。漆黒の少女が華麗に舞う。アラベスクのポーズ。羽ばたく動作を繰り返す。
しなやかに、踊る。
僕はまんまとのめり込む。一挙手一投足に釘付けになる。
そのせいで、気付けない。夕陽は、赤く輝く円形は、停止を促す危険信号だということに。
少女は踊り続ける。軽やかに羽ばたく。
間。
また羽ばたいて、旋回、回転、旋回。
跳躍。
氷上を滑走するように少女は脚を運ぶ。そして左腕を高く、右腕を後方に流すようにして、停止する。
その瞬間、僕に何かが触れた。
無論、少女ではなかった。触れるのを躊躇うどころか、触れ合うのも困難な立ち位置だ。
もっと、もっと小さな、このだだっ広い屋上では何の意味もないような、ちっぽけな——雨粒の感触だった。
ふたつ、みっつ、よっつ、もう分からない、増す、夕立が屋上に降り注ぐ。
それでも少女は一切身じろぎせず、すっと爪先立ちになって回転を実行する。
左腕を天に伸ばし、右腕はだらんと垂れ下がったままに、くるくると回り続ける。
それが、急停止。
「────────」
少女が淡く口を開いて、瞬間、つむじ風が屋上に吹いた。
叩きつけられた雨粒が万雷の拍手みたいに鳴り響き、一陣の風はバレリーナを吹き飛ばし。
少女の伸び切った腕は弾かれたように空を切り。
細身の少女は勢いそのまま、平衡を失った。
「なっ!?」
胴体が遠心力によって放り出されて。
重力が掛かって。
斯くして、そのまま角度が付いて、斜めになって──消える。
悲劇の終わりを告げるかのように、夕立は勢いを弱めていく。学校一の高所。僕は全身びしょ濡れになって、そこに立ち尽くしている。
足がすくむ。それでも膝にべったり手のひらを押し付けて、一歩一歩、フェンスまでにじり寄る。
あれだけ近くに見えたフェンスが、果てしなく遠くて、それでも僕はたどり着いて、恐る恐る、フェンスの下を覗き込む。
そこには、違和感があった。
自然すぎて、それが不自然だと気づくのが遅れてしまった。
落下地点たる校内駐車場の片隅、飾り気のないアスファルトの地面。
そこには、何もなかった。
死体どころか──血痕の一つさえ、無かったのである。




