巻ノ二 - 御闢神(ミシャグジ)
乾ききった大地と荒廃した世界の中で、八坂斗女は山へ登っていた。
一歩進むごとに、その足取りは重い。
疲れのせいではない。
己のもたらした失敗という重みだった。
眼下には、干上がりかけた州羽の盆地が広がっている。
かつて水を湛えていた湖は水位を落とし、露わになった岸辺には乾いた土が広がっている。流れ込む川々も勢いを失い、細い水筋となって泥を運ぶばかりだった。
長き旱魃は大地を蝕み、田畑はひび割れ、築いた堤も役目を果たせぬまま乾いた土に埋もれている。
さらに山野には疫が広がり、獣は倒れ、家畜は病に伏した。
かつて豊かな水に抱かれていた州羽の地は、今や渇きと病に沈んでいた。
チカトの声が、八坂斗女の脳裏によみがえる。
「あなたは神籬を壊した……!
御闢神は、あなたが支配できるような御方じゃない!!
見てください。
これがあなたがしたことの結果です。
枯れた大地。苦しむ人々。失われていく命…!
やはりあなたは、このスハの地を滅ぼしに来た者だ!!」
八坂斗女は首を振り、その記憶を振り払った。
そして再び、山頂へ向かって歩み続けた。
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照りつける太陽の下、八坂斗女は堤の工事を急かしていた。
高天原の技術を誇る彼女にとって、州羽の民の慎重な働きぶりは、あまりにも遅々として歯がゆいものに映った。
「動きが鈍いぞ!手を止めるな!次の雨までに完成させるのだ!」
そこへ、汗を拭いながら一人の男が進み出た。
「オコウ様。土地は、打ち負かす相手じゃありません」
「……何だと?」
イヅハヤヲは、築きかけの堤へ目を向ける。
「大地には大地の流れがあります。水には水の道があります。それを無視すれば、どんな立派な堤でも水に負けます」
村人たちの手が止まった。鍬を握りしめたまま、皆がイヅハヤヲの言葉に耳を傾ける。
八坂斗女が「古き習わしに囚われた者たちよ……」と侮りを滲ませると、チカトがまっすぐ言葉を重ねた。
「土地っていうのは、力でねじ伏せるものではありません。私たちは、この地と共に生きてきました。季節の移ろいも、水の流れも、土の声も……長い年月をかけて学んできたのです。だからこそ、あなたの目には見えないものが分かります」
「……私に指図するというのか」
「いいえ。ただ、聞いてほしいんです」
チカトはひざまずき、土へ手を触れた。
「土の声を」
八坂斗女は黙った。納得したわけではない。だが、村人たちの手元を鋭く見つめ、吐き捨てるように告げた。
「……ならば見せなさい、州羽よ。この土地と共に生きるという、お前たちのやり方を」
その言葉を聞き、人々は再び動き始めた。
命じられて動かされていた時とは段違いの鮮やかさだった。泥に塗れながらも巧みに水の流れを読み、手際よく石を組み、大地と息を合わせるように土を積んでいく。粗野で未熟だと思っていた者たちの手には、長い年月をかけて培われた確かな知恵があった。
八坂斗女は何も言わなかった。
己の誇りが、それを認めることを許さなかった。
それでも彼女は、州羽の民が見せる大地と共に歩む姿から、目を逸らすことができなかった。
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我に返る。
山を越えた先、ひらけた窪地が広がっていた。八坂斗女はその地へ足を踏み入れる。
照りつける陽の下、乾いた風が吹き抜けた。
その時――
さらさらと、草の揺れる音が耳に届く。
八坂斗女は足を止めた。目の前に広がっていたのは、一面の葦原だった。
旱魃に苦しむこの地で、そこだけが青々と命を保っている。
『モリヤ様の御前には、枯れぬ葦が生える』
そう聞き及んでいた。
「近い……」
モリヤは、この先にいる。
八坂斗女は足を速めた。だが、葦のざわめきは、彼女が捨て去ろうとしていた記憶を静かに呼び覚ましていく。
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山の入口近く。
木々に囲まれた小さな一角で、神聖の場があった。
村人たちはそこで静かに頭を垂れ、その中心に立つ古びた石柱へ祈りと供物を捧げていた。
八坂斗女は足を止め、その光景を見下ろした。
「……何をしているんだ」
振り返った人々が息を呑む。
「こんな古臭い信仰に、いつまで縋るつもりだ!?」
一人の老人が、震える声で訴えた。
「御闢神は、この土地の命です。我らは代々、ここで――」
「黙れ!!!」
八坂斗女の冷たい声が遮り、場の空気が凍りつく。
「旧き霊などに頼る時代はもう終わった!過去にしがみつくこそ、この地を停滞させる元凶だ!これからは高天原の秩序によって、この八坂斗女が州羽を導く!」
彼女は石柱へ歩み寄ると、躊躇いなく剣を抜いた。
「こんなものが、何を守れるというのだ!!」
一閃。
刃が石柱を打ち砕く。
砕けた欠片が地に落ち、周囲に硬い音を響かせた。
「あ……」
村人たちは言葉を失った。恐れ、絶望、そして怒りが、その顔に浮かんでいた。
◇
それから、災いは次々と襲いかかった。
疫病、蝗、蝿、そして旱魃。
川は涸れ、湖は痩せ、大地は裂けた。草は枯れ落ち、木々は葉を落とした。
絶望の中で、人々は怯えたように囁き始める。
「神籬を壊したからだ……」
「御闢神のお怒りだ……」
チカトは八坂斗女を真っ直ぐに見据え、悲痛に叫んだ。
「あなたは神籬を壊した……!
御闢神は、あなたが支配できるような御方じゃない!!
見てください。
これがあなたがしたことの結果です。
枯れた大地。苦しむ人々。失われていく命…!
やはりあなたは、このスハの地を滅ぼしに来た者だ!!」
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八坂斗女は思わず拳を握りしめた。
「あの時……」
だが、悔やんでも過去は戻らない。彼女は山頂を見上げ、声を張り上げた。
「モリヤ!山の神よ、この地を創りし者よ!姿を現せ!私は八坂斗女だ!!」
山々に声がこだまするが、応答はない。
八坂斗女はさらに言葉を叩きつけた。
「聞こえているだろう!土地の精霊達はお前が従えてきたものではないか!ならば教えよ、どうすれば彼らを従わせられるのだ!!」
その時――
風が変わった。
乾いた山を冷たい風が吹き抜け、木々が一斉に揺れて大地が低く震え始める。地の底から響く轟きとともに、山そのものが目覚めたかのように大地が震え始めた。
強風に運ばれるように灰白色の雲が次々と流れ込み、尾根を越え、渦を巻いて山頂へと集う。岩肌も木々も呑み込み、わずか数分で視界は完全な白一色へと塗り潰された。数歩先すら判然としない。
八坂斗女は息を呑んだ。
濃霧の奥から、ゆるやかに影が浮かび上がる。雲を纏い、岩山のごとく聳え立つ姿。人の形を取りながらも、人ならざるもの。
全貌は見えないが、白い帳の向こうから、確かにその視線がこちらを見下ろしていた。
八坂斗女は無意識に剣の柄へ手を添えるが、その指先は僅かに震えていた。
『高天原の使者 八坂斗女よ』
低く、山々を揺らす声が響く。
『汝 何を求めて此處へ來たのか』




